空色のプラグインフリー

石垣響

第1話(一話完結)

 きゅっと音を立てて、下ろしたての空色のスニーカーで廊下を難なく進んでいく。


 これはわざわざ都内のお店まで実物を確認しに行ったお気に入りだ。正直なところ、通販サイトのエアお試しで一目惚れした時に、その場でポチってしまってもよかったんだ。現代というのは、大抵のものがそうして手に入るんだから。

 必要なものを必要なだけ、その時に手にすれば無駄がない。いつか使うかもしれないものを貯めておくには、物を置くスペースは有限すぎるでしょう?

 ギジュツのシンポのおかげで、人がリアルで何かを体験することと、ヴァーチャルで体験できることの違いがほとんどなくなったから、どちらでも好きな方を選べばいい――とは授業で先生が言っていたこと。もちろん、これもオンライン授業で聞いたんだけどさ。

 まあ、そうなんだよね。リアルであることの意味なんて、普段から考えて生きてるわけじゃない。

 でも、今回はなぜか、目にした瞬間の感覚がどうしても忘れられなかったんだ。スニーカーのソール側、濃い色からはじまって、冬の冷たい雨が降った翌朝みたいに、ほとんど透明の空色になるグラデーション。どれもこれも、アーカイブでなら見たことのある色だった。カートに表示されたアイコンの向こうを、じっと見つめる。手が、さわさわと空気をかき分ける。

 青い空なんて、どれくらいの人が見たことあるんだろう。

 

 触ってみたい――。


 エアお試しには触感がちゃんとあるし、重さも、布地のキメの細かさまで分かるようになっている。だから、困ることなんて一つもない。そう、なんだけど。衝動、と呼ぶのが一番ふさわしい感覚が、とめられない。

 お母さんが小さかった時はまだ武蔵野にもお店が沢山あって、いくつも巡って試着したりしたんだって聞いたことがあった。最近ではジェネレーションギャップを感じるから言わないでと苦笑いされることもある。でも背に腹は代えられないし、回りくどいことをするのは性に合わない。

 新しいデバイスを買ってもらう時よりも真剣に頼み込んで――いざお店に行ってみたら私よりもお母さんの方が嬉しそうだったけど――まるで運命みたいに買った、空色のスニーカー。


 廊下を歩くのは3ヶ月ぶりだった。視界に広がる拡張の表示も、いつもより多い。沢山のポップアップの根本には、当然生身の人間がいるはずだ。

 私たちはほとんどがオンライン授業だけど、一応登校日はある。なぜ登校するのかは誰に聞いてもよく分からない。課題をテイシュツ? する必要があると言われても、そもそも課題自体がWEB経由で送られてくるっていうのに、何をどう提出しろっていうんだ。昔は努力しているだけでそこそこ評価されたっていうけど、出ない結果をどう評価していたんだろう。

 学校では最近レトロ可愛いとかで、制服っていうのを三ヶ月に一回の投稿日に何となく揃えて着るのが流行ってる。堅苦しいのかラフなのかよく分からない紺色のジャケットと白いシャツ、緑と青のチェックのリボンタイ。シャツのボタンを一つ外して肌の色を見せて、スカートの腰部分を一回だけ折って長さを調節するのが通、らしい。

 廊下には、セーラー服にカーディガンを着た子もいるし、スカートをパンツに替えて着こなしてる子もいる。あれ可愛いよね。私も生まれ変わって足が長くなったらやってみたい。いつだよ。

 今朝の通学のときも感じたけど、確かにこれを着ているような人は、オンラインの拡張を確認するまでもなく大抵年齢層が近いみたいだ。大人になったら制服はあんまり着ないんだろうか。

 昔々に制服っていうのを考えた人は賢かったんだろうな。同じ服を着ていることでオフラインでも分かるアイコンにするなんて。


 そうそう、昨日停電が起きたんだ。私は初めて体験したんだけど、まさか拡張のサーバーごと駄目になるなんて思わなかったから。自分が普段見てるアイコンごと全部消えてしまって。昔の人が道に迷うことがあったって意味を実感したんだよね。

 情報や友達からのメッセージが何にも表示されなくなるって、すごく心細い。ぽーんと知らないヴァーチャルチャットルームに放り出された時みたいな感じ。次に踏み出す一歩がちゃんと地面につくかどうかもわからない。一歩も動けなくなっちゃうんだ。

 復旧するまでの十五分間の長いこと長いこと。教科書で見た真っ暗な夜っていうのはこういうことなんだな。手前側が真っ暗な分、遠くに見える街の灯りが希望に満ちている気がした。実際にどうかはわからないけど。

 しょうがないから、お母さんが昔使っていた、板っぽいデバイスの画面から出るちょっと黄色い光で晩御飯の残りを食べた。匂いだけじゃなく、ご飯の色がよく見えないと味がわからなくなるんだね。懐中電灯があったらよかったなんてお母さんは言っていたけど、そもそも懐中電灯って照らすだけのデバイスがあるの?

 お母さんの話を聞いてると、ちょっと昔の話がおとぎ話みたいに感じる。どうやって生きてたの? とか、どうやって待ち合わせしたの? とかそんなことばっかり不思議になる。空がいつも暗い雲で覆われている今からすれば、このスニーカーの色は実際の空とはどれくらい違ったんだろうかとか。


 ぼんやり歩いていたら、教室の前で知らない子とすれ違った。綺麗な子だ。リアルで見るのは初めてかもしれない。

 それとなく眺めていたら、ふ、と目を覗き込まれた。目の色が青い。首元にペンダント型の拡張デバイスをしているから、きっと裸眼だろう。

「そのスニーカー、すごくきれいな色だね。私、そんな色の空を一度だけ見たことがあるよ」

「――!」

 りん、と鈴がなるよりも耳に響く声。遅れて風に乗る髪。

 息をするのを忘れるというのは、生きることより心を占める存在があるってことなんだ。

 あなたの目のほうがとってもきれい。いつどこで空を見たの。あなたは誰なの。

 もっとあなたのこと知りたい――。

 心がザワザワしてとまらない。この気持ちは一体何なのか、知りたい。

「あの――」

 その瞬間、視界が赤く染まった。拡張全体を覆うアラート。

 ……そんな。今? なんで?

 アラートが表示するのは保険会社のロゴ。そう、現代は必要なものを必要なときだけ手に入れて使うものだから。ピンチのギリギリで保険の加入を勧められるのはおかしいことじゃない。

 でも――私が入れた冗談半分でいれた保険のプラグインは、失恋保険。

 私が人を好きになったっていうこと?

 それで今から失恋するの?

 そんなことってある?


 赤いアラートは止む気配がない。

 目の前の青い瞳をもっと見つめたいのに。

 私は半ば無意識に拡張の電源を―― 

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