第2話 道徳心

「――アル、あなたはとってもイイコよ」


 掃除をし終わって家の中へ戻ると、セラス母さんが真剣な顔をして椅子に座っていた。

 顔を見るなりいきなり褒めてくるから、僕は嬉しくなってニッコリ笑いながら、母さんの正面に用意された椅子に座る。


「イイコなんだけどね……本当にイイコなのよ。びっくりするくらいに――」

「うん、ありがとう! セラス母さんも、びっくりするぐらい良い母さんだと思うよ!」

「あぁあ……イイコなのよねえ」


 セラス母さんは両手で顔を覆って、がっくりと肩を落としてしまった。一体、どうしたんだろう? セラス母さんは元々ちょっと変だけど、なんだか今日はもっと変だな。

 僕はとりあえず家の中だから帽子を脱いで、机の上に置いた。きっと何か大事な話があるんだろうなと思って、手で顔を覆ったままの母さんをじっと見た。


 両手の指先までぴしりと伸ばされた母さんの爪は、今日も綺麗な赤色が塗られている。あれはマニキュアっていうらしい。爪のお化粧道具なんだってさ。

 セラス母さんはずっとこの森に居るから、会う人と言えばレンかゴードンさんだけなのに。毎日色を塗り直すなんてオシャレさんだよね。


「――よし、アル。今日は道徳の授業をするわよ!」

「ドートクー!」


 顔を覆う両手をパッと外すと、母さんはどこからともなく本を取り出して、机の上にバン! と置いた。何だかよく分からないけど、すごく気合いが入っているみたいだ。

 僕は椅子の上で背筋を正して、ワクワクしながら母さんの授業が始まるのを待った。


「道徳というのは、今から何千年も前に遥か東にある大陸から渡って来た観念――考えだとされるわ。『道』は人が従うべきルールを『徳』はそのルールを守ることができる状態を指すの」

「ルールと、ルールを守れる状態? ……難しいね、計算みたいに答えがある?」

「答えはあるけど、ないわね。道徳は善悪に関するモラルの話よ。答えは人の数だけあるし……全く同じ行動をしても、ある人に対しては善なる行いになって、また別のある人には、悪として受け取られるかも知れないかわ」

「うーん……よく分からないね」


 答えがあるけどない、人によって善悪ゼンアクが変わる? すごく難しい問題だ。

 さっぱり分からなくて首をひねる。


 あ、だけど――そうか、もしかして商人と同じ? 僕はゴードンさんの話を思い出した。

 商人は「あの人が相手なら値段を安くしないと買ってもらえない」「この人はこれが好きだから高い値段でも買ってもらえる」とか「たくさん買ってくれたから全部ちょっとずつ値引きしよう」とか「オマケを付けよう」とか、色々考えるんだ。


 こうすれば絶対に売れる! って答えはない。商人もお客さんも考え方の違う人間だから、欲しいものも反応も違って当たり前だ。

 それが分からないから、僕はお店屋さんごっこで商会長をした時に1日で店を潰しちゃった訳だしね。

 これって道徳と似ているのかも知れない。


「とりあえず、そうね……私が1つ有名なお話を聞かせるから、後でどう思ったか聞かせてくれる?」


 セラス母さんはそう言って、机の上に置いた本を開いた。見ればその中身は真っ白で、絵も字も何も書かれていない。

 僕がじっと見ているのが気になったのか、母さんは少し笑って「これはアルの記録ノートよ、これから書くの」って言われた。全く分からないけど、僕のものなんだって。嬉しい!


 僕はお話が始まる前から楽しくなって、足をブラブラさせながらセラス母さんを見た。



 ◆



 母さんのお話は、昆虫標本ヒョーホンの話だった。

 標本っていうのは、捕まえた虫をキレイな状態で死なせて、その死骸をキレイな形のまま保存するコレクションのことなんだって。

 村に居た時にも虫はよく見たけど――うん、確かにカッコイイ角が生えたヤツとか、キレイな模様の蝶々とか、形が残ったままいつまでも持っていられたら良いなって思う。他の子に見せたら、自慢できそうだよね。


 虫は見ていると楽しくなるけど、でも死んじゃうとカラカラのバラバラになりやすいからなあ。僕はその標本ってヤツをつくったことがない。

 動いている方がカッコイイし、食べもしない生き物を捕まえて死なせるのはなんだか悪い気がするからね。


 ――物語の主人公は、大人の男の人だ。

 でも話は、主人公が子供の頃のことを思い出して、イヤな気持ちになるところから始まった。大人になってから久しぶりに昆虫標本を見て、自分が子供の時にやっちゃったすごく悪いことを思い出したんだって。


 主人公がまだ男の子だった頃は貧乏で、虫を捕まえては頑張って標本にして集めていたけど――高い道具を買うお金がなくてボロボロだったから、友達に見せるのが恥ずかしかったみたい。

 どうして恥ずかしいのかって言うと、たまに遊んでいたお金持ちの友達がつくる標本の方が、ずっとカッコよかったからだ。しかもその友達は、男の子のつくった標本を見て「すごく価値が低い」ってバカにしたんだって。


 お金持ちの友達は、標本をつくるだけでなく何をするにも完璧で、すごい男の子だ。でも主人公は、その友達のことが好きじゃなかったみたい。

 どうしてか「アイツはすごく悪いヤツだ」って思うくらいに。一度バカにされたからなのかな? 僕にはちょっとよく分からない。


 ――そんな男の子はある日、お金持ちの友達がすごく珍しい蝶々をイチから育てて標本にしたらしいって話を聞いた。

 近いうちに友達をいっぱい集めてお披露目するって言われたけど、男の子は少しでも早くその標本を見たかった。だから、お金持ちの友達に「皆より早く見せて」ってお願いして、お家へ遊びに行ったんだ。


 見せてもらった標本は男の子の憧れの蝶々で、それを見たらどうしても欲しくなってしまったんだってさ。

 そうして、友達が目を離した隙にその標本を盗んでしまうんだ! ――大変、泥棒だ! 泥棒が出たよ!

 でもコソコソ盗んでいる時にお家のお手伝いさんが部屋の近くを通って、見つかったらまずいと思った男の子は、蝶々の標本をポケットの中に捻じ込んで隠した。

 そのまま家から逃げ出そうとしたけれど、男の子はちゃんといけないことをしていることに気付けたみたい。


 男の子はそっと部屋に帰って、蝶々を元に戻すためにポケットから取り出した。だけど標本は、男の子が乱暴に取り扱ったせいで羽や足が取れてバラバラになっていた。

 怖くなって元の場所へ戻したけれど、どうしようもない。男の子は泣きながら家に帰って、お母さんに相談した。


 お母さんは「全部正直に話して謝りなさい。代わりになるものがあれば何でも渡して弁償しなさい」って言ったんだって。

 でも男の子は、お金持ちの友達のことが好きじゃないし「悪いヤツだ」って思っているから――絶対に許してくれるはずがないって、すごく嫌な気持ちのまま謝りに戻った。


 謝りに行った時、お金持ちの友達は必死に蝶々を直そうとしていた。だけど全然ダメで、バラバラになった標本はどうしたって元通りにはならなかった。

 男の子はたくさん謝って、自分のつくった標本もオモチャも、なんだって渡すから許して欲しいってお願いする。


 ――でもお金持ちの友達は、男の子を許さなかった。

 男の子がつくった標本はもう全部持っているヤツで、しかも、男の子が蝶々をどんなに乱暴に扱うのかも分かってしまった。だから絶対に許さないし、何も欲しくないって。


 何を言っても冷たく拒絶されて、男の子は友達の軽蔑ケーベツの眼差しに耐えながら、家に帰った。

 とってもショックを受けた男の子は、自分のつくった標本を1つ1つ指で粉々に潰したらしい。収集家シューシューカのプライドを打ち砕かれて「もう標本なんて二度とつくらない」って思ったんだって。



 ◆



 セラス母さんのお話を聞いた後に「どう思ったか教えて」っていう授業だったけど――僕は分からないことだらけだったから、すごく悩んだ。




 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

 ※本稿におけるセラスの〝有名なお話〟は、ヘルマン・ヘッセ著『少年の日の思い出』(1931年)を用いております。

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