三 白無垢の霊
「……!」
慌てて振り返ると、そこにいたのは白いドレスを身につけた一人の若い女性だった。セミロングの髪の、どこか社交的な感じのする、ほどほどの美人だ。
いつの間にやらその女性が、部屋の真ん中にぽつんと静かに立っている。
最初、その女を目にした時、俺は恐怖というよりも不可思議と呼んだ方がいいような感情をむしろ強く抱いた。
いつ、彼女は入ってきたのだろう? そして、なんでこんな場所でドレスなんか着ているんだ? こんな廃墟の中で、場違いに白いドレスなんか……。
「いや、白いドレス……?」
そこで、今さらながらに失念していたその話を俺は不意に思い出した。
……そうなのだ。二番目に死んだ上田麗子はウェディングドレス姿で殺されたのだ……そうだ。あれはただの白いドレスではなく、ウェディングドレス……。
全身からさあっ…と、血の気が失せて背筋の冷たくなるのを感じる。
「翔さん……どうして、どうしてこんなこと……」
石像のように立ち尽くしたまま、目を離すことのできない俺に対して、なんとも淋しげな表情を浮かべたその女性は何やらぽつりぽつりと呟き始める。
「どうして、どうしてこんなことを……どうして、こんなことをしたのおおおーっ!?」
が、次の瞬間。急にヒステリックな叫び声をあげたかと思うと、純白のドレスがズタズタに切り裂かれて真っ赤なシミが次々と浮かびあがり、その顔も白眼を剥いた死人のような恐ろしいものへと変わる。
「う、う、うわあああああ〜っ!」
堪らず俺は絶叫するとともに、その部屋を一目散に飛び出した。
だが、恐怖に頭が混乱し、玄関に向かへばいいところを反対に屋敷の奥へと迷い込んで行ってしまう。
しかも、突然のことに綿帽子も手に掴んだまま逃げてしまった。最初に殺された女性の遺品であるかもしれない、いわく付きのヤバイ代物だというのに……。
「…はぁ……はぁ……ここまでくればもう……」
でも、今の俺にはそんなことにまで気を回している余裕がない。ともかくもあの恐ろしいバケモノから逃げることだけで精一杯だ。
気がつけば、俺は屋敷の奥まった場所にある、まるで時代劇にでも出てくるような立派な座敷に逃げ込んでいた。
今のところ、あの女が追ってくるような様子はない……助かったのか?
と、一瞬、安堵の念が過ったのだが。
「……やめろ……もうやめてくれよ……俺が悪かったよ……」
今度は、そんな男の聞き取るのも難しいほどの小さな声がどこからか聞こえた。
それまではまったく気づかなかったのだが、ふと見れば床の間の前に白シャツ姿の男が正座して座っており、俯いたまま念仏のように何やらブツブツと呟いているのだ。
「…………ゴクン…」
無論、こんな所に俺以外の人間がいる可能性は限りなく低い……生身の人間と寸分違わずはっきりと見えているが、きっとこの男もこの世のものではないのだろう。
「……謝るよ……全部俺が悪かったよ……そうだよ……強盗を偽って殺したのも俺の仕業だよ……」
じっとりと嫌な汗をかきながら固唾を飲んで俺が見守る中、男はなおもブツブツと独り言を口にしている。
「……謝るよ……謝るからさあ……いい加減、俺の前から消えてくれよおおっ!」
が、先程の女同様、突然、男も蒼白な顔をぐいとあげると、狂ったような声で叫び散らす。
「消えろよ! 俺の前から消えてくれよおおおっ!」
いや、そればかりか床の間に飾られていた日本刀を手に取ると、乱暴に引き抜いて斬りかかってきたのである。
「ひ、ひいいぃ…!」
咄嗟にその凶刃の下を掻い潜ると、俺は再び転がるようにしてその場を逃げ出した。
実際に足がもつれて何度も転びながら、滅茶苦茶に屋敷内を走り回る俺は、反面、頭は意外と冷静にある推測を巡らす。
……今の男、もしかして衣紋翔か? ああして正気を失って、婚約者の上田麗子を斬り殺してしまったのだろうか? 強盗も云々と何か気になることを言っていたが……まさか、白井絹衣を殺したのも……。
「…はぁ……はぁ……こ、ここは……」
恐慌状態で逃げたため、またしても俺は屋敷の奥深くにある部屋へ迷い込んでしまった。
そこには鏡台やら和箪笥なんかが置いてあり、なんとなくお香のような良い匂いも漂っていて、女性が使っていた部屋であろうことがわかる。
「……!」
そうして部屋を見回した俺の目は、その壁際に飾られたあるものを捉えてしまう……衣紋掛けに掛けられた、眩いばかりに純白の
この屋敷で白無垢といったら、もう一つのものしか思い浮かばない……この屋敷のもと主であり、最初に殺された白井絹衣が結婚式に着るはずだったそれだ。
その白無垢があるということは、この部屋は彼女の……。
と思った瞬間、俺の目を捕えて離さないその白無垢に変化が現れる……衣紋掛けに掛けられたその白無垢の袖からにゅう…っと、真っ白い手が伸びて出たのだ。
「……っ!?」
外したくても視線を外すことができず、意思とは裏腹に俺が見つめているその前で、白無垢の左右の袖からは白い手がどんどんと伸びてゆき、やがて衣紋掛けから外れてこちらを振り返ると、それは一人の白無垢を着た女性の姿へと変わる。
なんとも悲しげで、淋しそうな眼をした幸薄そうな黒髪の若い女性である。
「…………」
「…翔さん、どうしてわたしを裏切ったの? ……ねえ、翔さんどうして?」
ぶるぶると震えながらも体が固まって動けないでいる俺に向けて、その女性――白井絹衣の霊魂であろうそれは、伏せ目がちにそんな言葉を繰り返している。
「……どうして、わたしを捨てたの? ……どうして、あんな女を選んだの?」
恨み言を口にしているとはいえ、今のところはまだおとなしく、怨霊にしてはなんとも静かなものだ……だが、この後に待つ展開を俺は先の二例ですでに知っている。
「……ねえ、翔さん、どうして? ……どうして、わたしを裏切ったの? どうして…どうしてわたしを殺したのおおおおーっ…!?」
案の定、断末魔の絶叫にも似た金切り声とともに、白井絹衣の霊は鬼のような形相へと変貌する。
「……許さなぁい……おまえも、あの女も道連れにしてやるうぅぅぅ~!」
それまでのか細い声とは似ても似つかない、しわがれた不気味な声に部屋の空気を震わせながら、さらに彼女は動けない俺の方へじわじわと迫ってくる。
逃げたくても、どんなに逃げようと力を込めても、脚がぶるぶると震えてその場から動くことすらできない。
「おまえもわたしと一緒に死ねえぇぇぇ〜っ!」
そんな俺が自分を裏切り、屋敷と財産を奪った旦那にでも見えているのだろうか? 般若の如く憎悪に醜く歪んだ顔の白井絹衣は、喰らいつかんがばかりの勢いで俺の目と鼻の先にまで接近する。
だ、ダメだ……ここまんまじゃ取り殺される……はっ! そうだ……。
その絶対絶命の危機の中、俺の脳裏にふと、あの思わず持ってきてしまった
綿帽子は〝角隠し〟同様に婚礼で白無垢姿の花嫁が被るものであるが、一説に角隠しは「新婦が嫉妬や怒りに取り憑かれて鬼になる」のを防ぐため…とも云われている……。
綿帽子も角隠しの親戚みたいなものだ。もしかして、これを被せれば彼女の怒りも多少なりと鎮まるのではないだろうか?
明らかに迷信かこじつけの類にしか思えないが、それでも今の俺には貴重な一縷の望みである。
「くっ……どうか、どうか成仏してくれ……」
俺は固く目を瞑るといまだ手にしたままの綿帽子を前へと突き出し、見るのも恐ろしい鬼女の顔を隠すようにしてそれを頭から被せた。
「………………」
すると、急に彼女は喚くのをやめ、辺りは妙にしん…と、なんだか不思議なくらい静かになってしまう。
「うぅ…………はっ!?」
その周囲の変化に恐る恐る目を開けてみると、そこにいたのは醜い形相の鬼女ではなく、それはそれは美しい白無垢姿の花嫁さんだった。
「ありがとう。これで、ようやく花嫁衣装が完成したわ……」
その花嫁はいたく満足げに穏やかな微笑みを白い綿帽子の下に浮かべ、そう俺に礼を述べると次第に薄くなって姿を消してしまう。
「……助かった……のか?」
〝角隠し〟の御利益だったのか? それとも、完全な花嫁衣装を着ることなく死んだことに未練があったためなのか? 本当のところはご本人以外に知る由もない……だが、ともかくも俺は絶対絶命の危機をなんとか脱することができたようだ。
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