モノノフ・キャンパスライフ

こたみか

第1話

 大学を取り巻く不穏な空気に、高田凌たかだりょうは顔をしかめた。自分がまだ学生だった頃――もう何十年も前になるが――あの時と同じ空気がキャンパス全体を覆っている。

 もう二度と、会うことはないと思っていたんだけどなぁ。

 四十歳を過ぎて准教授になった今、またこんなものと向き合う羽目になるとは。

「伊坂先生」

 隣で研究資料をあさる自分より年若い同僚に声をかける。どうしても借りたい資料がある、そう言って彼がやってきたのはつい十分程前のこと。

 三十路過ぎだというのにどこか少年のような面影を残す彼は、ずれた眼鏡を直しながら振り向いた。伊坂晋二いさかしんじ、現代文学や戯曲を専門としている、高田と同じ文学科に属している客員講師である。

「僕が前に話した、学生時代のおとぎ話、覚えていますか?」

 窓の外、どこか一点を見つめながら高田はそう語りかける。

「覚えていますよ。未知の生命体と戦った高田先生のお話」

 自分が赴任して一ヶ月ほど経った頃だろうか。普段は現実的な彼が口にした信じられないようなおとぎ話。彼の青春時代の物語。よく覚えているのは、彼がそんな非現実的なことを口にするのが珍しかったからだ。言葉遣いも淡々としていて、感情を表に出すことが滅多にない。怒ることもないが時々口元をそっと緩ませる程度にしか笑みを浮かべることもない。現実主義で、仕事と結婚しているような顔をしている。その割りに学生たちからの信頼を受けやすくて、困ったときには高田先生、と慕われている。

 表には出さなくても彼が学生たちを何よりも誰よりも想っている。だからこそ彼の周りには学生たちが集まってくる。

「えぇ。それがね、また戻ってきちゃったみたいなんですよ」

 まるでいなくなった野良猫が自分の家の庭にまたふらりと現れたような、そんな言い方だった。だから伊坂は一瞬、反応が遅れた。

「え」

 理解してから発した言葉はたった一言だった。だって、嘘でしょう、そんな、それって大変じゃないですか、頭を巡る言葉はいくつもあれど、何一つ口には出ない。

「結局、負の感情なんてものは消えやしないってことですかね。何度でも繰り返す」

「いや、高田先生、嘘ですよね、こんな平和な」

 言いかけて、伊坂はそれ以上の言葉を紡げなかった。ゾク、と悪寒のようなものが背中を駆け抜け、思わず窓の外を見る。高田の視線の先。自分にも、歪んだ黒い影が見えた気がした。

「うわ」

 思わず口をついて出た低いうめき声に、伊坂自身も驚く。

「嘘でしょう」

「嘘だったらどんなにいいでしょうね。まぁ、伊坂先生にも見えるというのは、幸か不幸か」

 抑揚のない声で呟く高田の表情は、伊坂には読めない。

 おとぎ話をしましょうか。あの日、そう言って高田があいまいな記憶を手繰りながら語り出した彼の昔話を、伊坂は思い出していた。


「高田先生! あれがモノね!」

 沈みきった研究室の空気を破るようにバン、と研究室のドアが開いた。入ってきたのは古谷美恵ふるやみえ、同じく文学科の准教授だ。研究一筋、好奇心の塊。研究者としては尊敬できるが、どうもこのテンションだけは慣れない。高田も伊坂も彼女の勢いにはいつも押されてしまう。

「古谷先生にも見えるんですか、あれ」

 自分が話したからだろうか。気になって問うが、彼女はこちらの話など聞いていないようだった。

「私、一度、見てみたかったの! 負の生命体! 負の感情が作り出す未知の生命体!」

 美恵は興奮した様子で高田に詰め寄る。ダメだ、会話にならない。はぁ、と溜め息をつき、高田は椅子に掛けた。

「あのねぇ古谷先生。遊びじゃないんですよ。これ、それなりに重大な事態なんですよ?」

「わかってるわよ! だからこそ何とかしなくちゃ!」

 高田の向かいに座ると、美恵は更にまくしたてた。近い。声が大きい。ああだこうだと興奮して話す美恵を見て、伊坂も視線を窓の外から彼女に移す。

「僕らじゃどうにもできません」

 高田はあくまで冷静に返す。どうしようもない。自分たちが戦う? あの頃のように? そんなこと、できるはずがない。若かった学生時代とは違うのだ。

「でも放っておくわけにはいかないじゃない」

 正義感なのか単なる興味や研究心なのか、美恵は甲高い声を上げる。こうなると彼女は何を言っても聞かない。放っておくわけにはいかない、そんなことは重々承知している。何とかしたいのは自分だって同じだ。けれど、どうしようもない。

 何度目かもわからない溜め息を高田がついたとき、研究室のドアをノックする音がした。

「いますよ」

 高田が普段と変わらないトーンで返事をすると、控えめにドアが開く。そこに立っていたのは、自分のゼミの男子学生だった。

「古谷先生と伊坂先生もいたんですね。お取り込み中すみません。失礼します」

「どうした、広井」

 礼儀正しく二人に頭を下げる彼に、先を促す。広井高貴ひろいこうき、古典文学を専門に研究している文学科の三年生。高田のゼミでも最も熱心で優秀な学生である。

 体格が良く、表情もあまり表に出さないため、第一印象ではよく怖いと思われ、損をしてしまうタイプ。話をしてみれば研究熱心でちょっと風変わりではあるが、ユーモアもあり面白い青年。

 彼は研究者に向いている、密かに高田は期待を抱いている。

「あの、先生に言うのもおかしいかと思うんですが、なんかおかしいんです」

「広井、ちゃんと日本語を喋れ」

「すいません。この間借りていた本を返そうと思って来ただけなんですが、どうしても気になってしまって。なんていうか、大学の空気がおかしいんです。先生に言ってどうなることでもないんですけど。気味が悪いというか」

 高貴の言葉に、三人は顔を見合わせた。もしかして。

 すみません、失礼します。本を置いて研究室を出て行こうとする高貴を、美恵が引き止めた。

「広井くん、あなた素晴らしいわ!」

 美恵が高貴の方を強く掴んで揺さぶる。彼女のテンションの高さは普段の授業から知ってはいたが、この好奇心に染まった瞳で自分を見つめられると眩暈がしてくる。

 俺が、何をしたっていうんだ。

 そんな言葉を吐き出しそうな様子の高貴に、とりあえず座りなさい、と高田が椅子を示した。彼が救世主となるのか。わからない。そもそもこんな話、信じてくれるかどうかさえも。

 それでも高田は、目の前に現れた微かな光に縋るしかなかった。この幸運な巡りあわせに、賭けるしかなかった。

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