第2話 青い絵 (約2600文字)中
ある休みの日に、わたしは学校の裏にある森のなかで、大きな木に隠れながら小説を読んでいた。ヘルマン・ヘッセの「ナルチスとゴルトムント」を読んでいた。邦題で「知と愛」という名の小説で、その翻訳をわたしは好まなかった。わたしは自分に外国語を習得する素養がないのを認めていた。英語の成績はいつも下から数えた方が早いくらいで、英単語の日本語の意味をおぼえる事が出来なかった。例えば、「見る」という日本語を英語にしたとき、See,Look,watchなどの英語に訳すことができる。わたしは中学のときに習って、それを頭に一応入れたが、まるで肌に馴染まなかった。いくら覚えてもすぐに忘れる。頭がよくなかった。それに悩んだ。スマホで辞書をひらいて、意味を調べながら、一文づつゆっくりと読んでいく。たいていは途中で辞める。読み終えたことはない。だから小説は終わりから読んでいた。
小説を読む人なんていなかった。漫画を読む人はいる。沢山いた。漫画はおもしろい、でもべつに怖くなかった。得体の知れないものがない。漫画は、社会に必要なコミュニケーションツールだと思っている。わたしの時代では、それは必要なもので、怖いものはいらなかった。「ダンス・ダンス・ダンス」と聞いて、村上春樹を思いうかべる同年代なんて存在しなかった。だから小説は終わりから読んでいた。どうせ一人だった。森のなかで読むとしっくりくる。ナルチスとゴルトムント。わたしはゴルトムントに似ていると思う、でもナルチスのように生きるしかない。でも頭がよくない。魅力もなかった。どうしようか、ドイツ語の意味も響きも、知ったらすぐに忘れてしまう、わたしはどうしようか。
そんなときに、鉛筆でかく音がきこえた。そのほうに向いてみると、ひとりの男が立ちながら木にもたれながらスケッチブックをもっていた。風のように。なぜ今まで気がつかなかったのか、不思議なくらい、彼は自然とそこにいた。
「なにを見ているの」
彼はそう言った。
「いや、とくには」
「特には無い?」と彼は言った。
「あの、鉛筆が、うごく音がしたから、反射的に目がいった、それだけで」とわたしは言った。
「そうか」と彼は頭を下げて言った。「悪いことをしたな」
休みの日なのに学校の制服を着ている。長髪で、目の下に黒いクマがあった。
「ドイツ語」と彼は言った。「読めるの?」
わたしは首をふった。
「勉強は苦手で」
微笑んでこたえた。彼はこちらに近づいて、開いていたページを眺めた。それを流暢に音読した。その響きは心地よかった。
「すごい」とわたしは言った。「どうやったら、そんな風に出来るのでしょうか」
彼は首を横にふった。
「きみには出来ない」と彼は言った。「頑張ってはいけない。やりたかったけど、出来なかった。それで終わりだ」
そう言って彼は消えてしまった。そんな風に言われると、わたしは辞書で調べながら一語、一語、意味を訳している自分が嫌になった。どうせ忘れるものなのに。
一週間後に同じ場所で、わたしは彼をみつけた。今度はこちらから近づいていった。
「絵を描いているんですか?」
「そうだよ」
彼はそう言って、わたしの頬をさわって、スケッチブックに目を向けさせた。そこにある白黒のデッサンが、いったい何が描かれているのか、わたしには知れなかった。
「これはいったい何ですか?」とわたしはきいた。
「きみの髪は綺麗だね」
彼はそう言って、頭を撫でてきた。わたしはどう反応すればいいのかわからなかった。そうやって黙ってされるがままにされてる。耳にはまだ彼のドイツ語の発音がのこっていた。
「整髪料とかはつけないの?」と彼はきいた。
「めんどうなので」
「さらさらだね」
そう言ってしばらくのあいだ、彼と話した。
「好きな画家とかはいる?」と彼はきいた。
「シャガールかな。ちゃんと知っているのはそれだけ」
「シャガールか」と彼は言った。「みんな好きだよね」
「彼の絵をみて、どう感じる?」
「失われた、なつかしい故郷をみている感じがする」
「ハハッ」と彼は乾いた声で言った。「記憶から失われた?」
「シャガールの絵をみたら、いつも帰りたいって思う。「彼女をめぐりて」がいちばんのお気に入りなんだ」
嬉しそうな顔をみせた。「ぼくも同じ」と彼は言った。
「これは何ですか?」とわたしはスケッチブックを指してきいた。
「生き物は描けないんだ。色を塗って、完成したらきみにも見せるよ」
「どうして描けないんですか?」
「自分の目が嫌いだから。見えたものは好きになれない」
わたしはその後も彼と会話をしたが、何もおぼえてなかった。森のなかで、辺りが暗くなると、わたしのほうから「さようなら」と言って消えた。そんなつもりはなかったのに。
わたしはどうして彼があんな事を言ったか、考えていたが、分からなかった。授業中や眠るとき、お風呂に入るときにも、頭から離れなかった。
(わたしのことも嫌いなのかな)
時間がたつごとに気持ちは、坂道に落ちるようで、どこかで止まらなくては耐えられなかった。
(順番が逆なんだ。彼が見てくれたら、わたしはどんなに辛いことも乗り越えられるのに)
彼は、評判のよい生徒ではなかった。授業中にとつぜん教室からでたり、カンニングや盗難をしたこともあるという噂がたっていた。わたしにはどうしても評判通りの人だとは思えなかった。そう思えた自分は会いにいってもよい気がした。わたしの足は森のほうへと向かっていった。
森の中に寝転んでいる男がいた。太陽がまぶしいのか、右手をおいて顔を隠している。それでも一目で彼だとわかった。違うとしても好きになってしまう位だった。わたしが恐る恐る近づいていくと、
「絵は描けなくなった」と彼は言った。「ごめんね。嘘をついた」
見てみれば彼のそばには何もなかった。
「一年のときに財布を盗んだって本当なんですか?」
「ああ」と彼は何となしに答えた。わたしはあらかじめ用意しておいた言葉で話した。
「なにか理由があったんですよね」
「無いよ」と彼は言った。「気づいたらやってた」
わたしが納得のいかないような顔を見せると、
「ぼくはそういう人間なんだ」と彼は言った。「きみは正しく生きている」
「違う」とわたしは言った。
「たまたま正しい場所にいただけなんです。そんな性格にあるだけで、好きなものが好かれるものだっただけで……きっと自分の臆病が正しく見えるだけなんです」
「それは良かった」
それを最後に、彼と会うことはなかった。
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