28.まずいことになったかもしれない

 馬車から降り、侯爵家に入った途端、見覚えのある男に腕をつかまれた。

 金茶色の髪に、明るい茶色の目の優男――レオナールだ。


 記憶にある彼は、いつもお洒落に制服を着こなし、余裕のある態度で取り巻き達と笑っていた。

 だが今の彼は、かつての華やかな様子からすっかり変わってしまっている。


 髪はきちんととかされていないようだし、服も着崩しているというより、シンプルに乱れているように見える。

 全体的にやつれているような感じで、目の下の隈もこれは見間違いではなさそうだ。


(そういえば、数日前から学園を休んでいたような……? もしかして、何か悪い風邪にでもかかっていたのかしら)


 かつては将来を約束した仲だった男に対して、我ながらちょっと無関心が過ぎるような気もする。今だって、なんだか大変そうだなあとは思うけど、それだけだ。心配とか全く浮かんでこない。


 わたくし、本当にこの人への興味関心が消え失せているのね……もともとあったかも、定かではないけれど。


 それにしてもあまりの変貌ぶりである。さすがに驚くし困惑する。一体何が……?

 固まっているわたくしに、レオナールはかつてないほど真剣な目ですがりついてきた。


「シャリーアンナ……なあ、オレ達、ミーニャ=ベルメールのせいで一時おかしくなったが、それまではずっと良い婚約者だったよな!?」

「……はあ?」


 思わず、自分でもびっくりするほど冷たい声が出た。


 いや、確かにミーニャ=ベルメールに命の危機に遭わされたおかげで、わたくしははじめて侯爵家との離縁、という選択肢を真面目に検討し始めた。


 だが、その前だってけして待遇が良かったわけではない。いやむしろ悪かった。わたくしは徹底してレオナールから無視されていたし、レオナールがわたくしを嫌っていることは自他共に明らかな事実だった。


 それなのになぜ今になって……。

 混乱しつつも、一応は相手の言いたいことをくんでみようとする。


「それはもしかして、ミーニャ=ベルメールが脅威とならなくなった今であれば、わたくし達は復縁可能である……というようなことを、主張なされるおつもりでしょうか?」

「そうだ! だってお前がオレに不満を述べてきたのは、ミーニャのことだっただろう? だけどあいつはいなくなった。それなら、オレ達を遮るものは、もう何もない――」

「この際だからはっきり言っておきますけど、レオナールさま」


 わたくしはひたりと婚約者殿に視線を向ける。

 ……ほら、何も言えずに目を逸らす。


『なんだその目は、ふゆかいだ!』


 忘れもしない。はじめて顔を合わせた日の言葉。

 あの頃はまだ色々夢見る幼女でもあったわたくしは、「きみの将来の夫だよ」と、同い年のかっこいい男の子を紹介された。


 ドキドキしながら何を言われるのか待っていたら、当時も散々言われて気にしていた特徴を真っ先に指摘され、心にヒビが入ったというわけだ。


 その後もレオナールは、わたくしが気に入らないという態度を改めることはなかった。初手で自尊心を打ち砕かれ、萎縮しきったわたくしは、ずっと彼に言われるがまま、従うのみだった。


 だけど今振り返ってみると、ふと思いつくことがある。


 レオナールの態度は、もちろん格下相手に対する侮りも存分に含まれていただろうけれど、きっと同時に自分を守る盾でもあったのだ。

 彼は常に自分が優位であるという態度を示すことで、優位の座を保ち続けようとした。実際には、気に入らないわたくしの目をにらみ返すこともできない男であるがゆえに。


 ……もっと早く気がついていれば良かったのだ。彼の持てる地位や人脈は確かに脅威かもしれないが、彼自身は普通の気弱な男なのだと。魔力だって、殿下やロジェと比較すれば平均値である。


 だけどわたくしはずっと俯いていて、世界のことも人のことも知ろうとしなかった。殿下に微笑みかけていただいて……どんなに見つめても、ちっとも不快感を示さない人と出会えるまでは。


 しかし、こうして面と向かって顔を合わせてしまえば、レオナールはわたくしを暴力で支配するようなことすらできないらしい。思わずため息を吐いてしまう。


「確かに、ミーニャ=ベルメールのことはきっかけでした。あなたはわたくしに冷たかったけど、別にわたくしと本気で別れるつもりもなかったのでしょう」

「そ、そうなんだ。わかってくれるか――?」

「わかるべきなのは、あなたの方です。わたくしにはね。もう、わざわざあなたとやり直す理由がないのですよ」


 淡々と、事務的に。けれどはっきりきっぱりしゃべる。

 レオナールはきょとんとしていたが、次第に以前わたくしがはじめて自己主張した時と同様、イライラしたような雰囲気に変わっていく。


「は? どういう意味だ、シャリーアンナ」

「そのままずばり、ですよ。わたくしにとって、もうあなたは今から復縁したいと思えるほど、魅力的な殿方ではないのです」

「さっきから何を言っているんだ? オレはお前より、何もかも勝っているんだぞ? そのオレが、仲直りしてやってもいいと言っているのに……」

「ミーニャ=ベルメールとわたくしが決着をつけたあの日、あなたが物陰から様子をうかがっていたことを知っています。あのときわたくしを庇うどころか、その後一言もなく……それなのに今になって、元通りになろうだなんて。虫が良すぎると思いませんか?」


 根も葉もないことを、とか食い下がってくるかとも思ったが、さすがにばつが悪くなったのか、レオナールが口ごもる。


 ――と、そこにまた新たな展開が。


「レオナール。そこで何をしている?」


 落ち着いた、大人の男性の声がした。レオナールがさあっと顔色を青くする。


「か、閣下……!」


 わたくしもごくっとつばを飲み込んでから、ゆっくり顔を上げる。


 侯爵家のエントランスの大階段を、ゆっくりと下りてくる男――彼こそがデュジャルダン侯爵閣下その人だった。


 髪や目の色は落ち着いた茶色で、顔立ちはレオナールによく似ている。しかし、かつて一度婚約が決定した日にもあっているのだけど……あの頃とほとんど容貌が変わっていない気がする。


 若い。着こなしは年相応に落ち着いているが、うっかりすると、レオナールの父親ではなく、兄と紹介できそうな見た目をしているのだ。


 だがなぜだろう、昔も、そして今も……わたくしにはその若々しさが、好ましいものではなくどこか不気味なものに見える。


「いけない子だね。部屋にいなさいと言ったはずなのに、出てきてしまうなんて」

「閣下……オレ、ちゃんとやれるから! だから、まだ見捨てないで……!」


 階上から息子に微笑みかけた父親だが、レオナールが駆け寄ろうとすると、すうっと冷たく目が細められた。ぞわっ、とわたくしの腕に鳥肌が立つ。


「もう遅い。お前のそういうところ、母親にそっくりだ」


 ぱん、と侯爵が手を鳴らした。

 するとしんと静まりかえっていた屋敷のどこからか、音もなくぞろぞろ男達が出てきて、レオナールを確保する。


「父さん!」

「片付けろ。もう見たくもない」


 ――どう見ても穏やかじゃない空気だが、わたくしの背後ではいつの間にか侯爵家の扉は固く閉ざされている。たぶん今から引き返しても、開かない。


 レオナールがずるずる引きずられていく様子を見送ってから、侯爵閣下は優雅に微笑まれた。


「待たせたね、シャリーアンナ。それじゃ、話をしようか?」


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