秘密の配備

開けゆく歴史に 血をもゆす

われらは若き 連合市民

北部の鎖 友よいざ断たん

屍越え 戦野を行き

暴虐の嵐に いざ向かわん

-アメリカ連合国軍歌 若きCSA義勇兵-


1939年5月20日、アメリカ連合国首都リッチモンド


リッチモンドの市街地が近づき、そのイギリス海軍の護衛と連合国空軍機四機の護衛を受けて一隻の豪華客船が港に入った。

<クイーン・エリザベス>はイギリスの帝国としての威容を民間で表す船であり、今、この船は彼女にとって最も気品ある客を載せている。

王弟アルバートこと、現イギリス国王のジョージ6世であった。

愛に生きると政府にヘソ曲げて勝手に消えた兄に王位を押し付けられた彼は、地位ある者の義務として各地に赴いているわけである。

こうした行いは外遊とも呼ばれるが、その実彼にプライベートなるものは存在しない。

英国王や天皇が外国に赴く事で、その国に高貴な方も訪れたと友好関係を演出する事は古来より伝わる手段だ。

自身が世界で自尊自立を遂げる事ができないと理解する連合国は、最高級の出来でもてなす。


「ようこそアメリカ連合国へ!」


そう声をあげて、アメリカ連合国大統領ジョン・N・ガーナーとジョージ・パットン元帥はにこやかに挨拶をした。

礼服に身を包んだパットン元帥の敬礼と共に衛兵が捧げ銃をし、儀仗兵がサーベルを抜刀しサーベルクロスの屋根を作る。

音楽隊は事実上の国歌の地位を未だに譲らぬ人気を誇るDixieの音楽を奏で、続き神よ国王陛下を守り給えを演奏する。


「しかしまあ、連合国に英国王が来るとはなんというかかんと言うか」

「北には行った事がありませんからね」


移動途中に、ガーナー大統領がつぶやいた言葉にパットン元帥は静かに返した。

元々、この英国王の北米訪問は1931年のウェストミンスター憲章と言う理由も兼ねている。

何事もなければ英国史には重要な話だが連合国にはあんまり関係ない他人事、せいぜい良いお客さんを迎えて嬉しかったねと言う話だったはずだ。

それが大統領と元帥が出迎えに行くレベルになったのは理想主義者まで全員に「戦争が近い」と考えているからである。

「戦争の回避策を探さなければならない」とする理想主義者と、「避けられない戦争である以上どう耐えるか」という悲観主義者の意見一致がこの情勢を生んだわけである。

カナダ市民が「正当なるカナダの国王のカナダ帰還!」と万歳を叫ぶのに比べ、連合国市民の歓声は熱狂の向く方向が違っていた。

彼らにとって、他国との密接な関係と集団安全保障が戦争を回避する最も確実性ある選択肢だと知っていたし、戦争を勝ち抜く確実性の高い選択肢だと理解していたからだ。

それに、元吃音の国王の親身な姿勢は、単純に人当たりも良かった。


1939年7月6日、マサチューセッツ州ケープゴット軍港


合衆国海軍大西洋艦隊司令部および艦隊総軍の司令部が置かれ、合衆国随一の海軍基地能力を誇るケープゴット軍港は、ここ数年で既にケープゴット湾を超えてマサチューセッツ湾とバザーズ湾にすら造船所や軍港がはみ出していた。

かつて紅茶がぶち込まれ茶色く染まったボストンの港は、船の鈍いバトルグレーの塗料が反射している。

マサチューセッツ湾に拡張増設された"茶会造船所"と呼ばれる軍港では、止むことなく戦争に遂行する全てを組み立て、製造され、輸送されていく。

マサチューセッツ州全体の軍および軍需関連産業に従事しているものは6割を超えているが、州外から移住する者も多く此処へ来ていた。

ノースイースタン大学のナハント海洋科学センターは、マサチューセッツ湾のフジツボの毒性--フジツボは汚染物質を溜めやすく海洋汚染の指標となる--から猛抗議をするも、其れ等を全て無視された。

既に地元メディアはこのような批判者を自己の職を奪う人間と見做していたし、全米全体でこの頃はペリー大統領は一応職をあてがって仕事をくれたと言う感謝はされていた。

国家主義に染まっていく事に憂慮したり不安がる市民は未だに大勢居たが、批判者に同意する人間は少なかった。

海軍の中でもファシストについて疑問視している者もいたが、大半は批判する訳でもなかった。

ただこの日、軍港内で1番批判的だったのはハルゼーだった。

理由はどんなに頭を捻ってもいい作戦案が思いつかないからで、その作戦案を立案する事を求められたのは大統領に原因があるからだった。

昇進したハロルド・スターク海軍作戦部長が、建艦を命じた拡張ビンソン艦隊計画案第三号案で作られつつある海軍戦力は強大だが、敵も強大であった。

ハルゼーは、戦艦<加賀>と戦艦<セント・ジョージ>と言う二大国の海軍を相手にする計画を練らねばならない。


「スタークの野郎、とんでもないモンを押し付けやがって・・・」


ハルゼーは渋い顔でコーヒーを口に含んだ、最近市場価格が上がっており、外では飲もうと言う気が起きない。

ISAFが報復的関税をしかけて合衆国の介入姿勢に反感を示しているからだ。

大日本帝国海軍がハワイ方面に展開している艦隊は戦艦を有している、その事実がハルゼーの頭痛の種だった。

そして、同盟国たるドイツ海軍のホーホゼーフロッテ大洋艦隊は所詮沿岸海軍でしかなかった。

イタリアのレジアマリネー王立海軍は論外、彼らが地中海から出られるはずがないし、出たら大問題だ、彼らの艦艇は凪いだプールのような地中海だけを想定し、外洋に出たらフビライ・ハーンの海軍の後を追って水底にいくだろう。


「どうしろってんだバカ野郎」


戦艦を殺すにゃ戦艦しかない。

だが日英は戦艦を腐るほど持ってやがる。

だから両洋に戦艦を配置しなくてはならない。

しかし分散してはヤられる。

砲火力は新型のエーギル級戦艦とコロラド改型標準戦艦は期待通りの火力だが、ハルゼーの脳裏にある不安は日本海軍が新造している新型戦艦だった。

それに、少ないながらも連合国海軍南部の汚い叛乱者たちは戦艦を有しているのだ。


「ハワイ攻略といってもなあ」


ハルゼーは名案が全く出ないので、机に足を乗せて手を頭に組んだ。

本当にどうしようもなくお手上げな時はこうでもするしかやる事がなくなる。

そんな時、大型練習機が飛ぶのを見てふと案が出てきた。


「・・・もしもし作戦部長。レッド演習で聴きたい事がある。

 陸軍の航空戦力を使って良いなら多少まともな案が出てくるぞ」


ついでに低高度で稼働する航空魚雷の予算を強請るか。

ハルゼーは多少ヤケ混じりに電話を繋ぎ、彼の要請を全て受諾された事に静かな絶望を感じた。

彼はこの時、合衆国は本気で世界秩序と呼ばれるべきスーパーパワー超大国達と、かつて独立した宗主国へケンカを売ろうとしている事を理解した。

そして、合衆国海軍は卑怯な不意打ちをしてでも勝つしかないと確信するに至った。

恐らくその敗戦は、かつての南部との内戦の敗戦より壮絶になるだろう。

決戦を強要する為ゲディスバーグに侵攻した連合国軍に対し、ポトマック方面軍18万人が南部騎兵三万騎の後方浸透により、完全な包囲撃滅という合衆国軍最大の恥辱を晒すゲディスバーグの悲劇がきっと、霞んで見える事件が起きるのではないかと不安を抱いていた。


同日、ケープゴット軍港バザーズ湾


丸い機首に両翼に突出して上向きについたドイツ製のオートジャイロは、白地に合衆国国籍章を記載してバザーズ湾を飛んでいた。

その機内にはペリー大統領とチャールズ・エジソン海軍長官などが乗っていた、エジソン海軍長官はエーギル級超大型戦艦の建艦を強く後押ししている人間で、AAAクラス超大型前衛型海洋戦闘艦スーパードレッドノートと呼ばれていたのを知っている。


「あれが噂の<ラズーリ>かね?」


リンドバーグ外務大臣は下に見える昼寝中の軍艦の群れを指さした。

ラズーリ級艦隊型大型空母が一隻、バザーズ湾の軍港で日向ぼっこをしている。

ケープゴット軍港のバザーズ湾は急速に拡張される合衆国海軍大西洋艦隊と訓練中の艦艇の寝所でもあるのだ。

満載排水量37000トン、幅29m、全長280mの<ラズーリ>は、部分装甲化された甲板にオートジャイロを着陸させた。


「兵士諸君!平和を守り、一昼事あらば一撃必殺の技量を有する国家の守護者諸君!」


ラズーリ甲板上のセレモニーに於いて、演説台に立ったリンドバーグ外務大臣の声が響く。


「我が国を脅かす国際ユダヤ・コミンテルン・アナーキスト、そして南部の叛乱軍に最終的かつ決定的で歴史的一撃を下す使命を以って、我々は決断的かつ断固徹底的に戦い、合衆国に"法と秩序"Law and Orderを立て直す使命は君たちにあるのだ!」


演説はいつにもましてヒステリックだった。

参加しているスプルーアンスや、ミッチャーと言った将校達はその事に対して一つの納得をした。

"あぁ、あいつら本気でやる気だ。"

合衆国は1860年代の復讐を、本当にやろうと言うつもりなのだ。

合衆国海軍の今までの歴史は屈辱の歴史といって良かった。

海軍は裏切り者を生まずに任務を励んできたが、リンカーンの歴史的失策と連合国の外交攻勢によりイギリスが海上封鎖を実力で突破すると脅迫しアナコンダ作戦を崩壊に追いやったのだ。

さらにはアメリカ連合国の軍艦<アラバマ>による通商破壊作戦を逆に行われ面子を潰され、ゲディスバーグ会戦に至るまで陸軍が記録的大敗を続けた。

チャンセラーズ・ヴィルの会戦ではストーンウォール・ジャクソンを殺せる寸前まで行ったが攻勢限界に達して逆撃を食らって崩壊し、その頃にはもう連邦軍に兵など残っていなかった。

連合国軍は連邦兵の捕虜から奪った武器でヌクヌクと強くなっていき、連邦軍は反比例する様に定員が4割になっていた。

投入した側から叩き潰され経験も積めない連邦兵は無為に死ぬ事しか知らなかった上に、この頃厭戦感情が爆発したからだ。

1863年には海軍ですら組織的抗命が頻発し、ニューヨーク州が連邦政府に反抗を公然と開始し、リンカーンがゲディスバーグ会戦後に演説しようとした所を連邦兵たちに射殺され、合衆国は世界の恥を晒す結末になった。


以降はさらに酷くなった、中南米に介入しようとしても海上ルートは常に他国の圧力を受けていた。

太平洋岸ルートは日本とイギリスの権益と勢力圏があり、カリブ海ルートはイギリスと連合国の勢力圏だ。

不安定な陸上ルートは襲撃に悩まされ、合衆国海軍は屈辱的軍縮、つまり対日英7割の制限で公然と世界の海から駆逐されたのである。

アメリカ連合国もイタリアと同じ比率であったが、彼らにとってはあまり関係がなかった。

彼らが正気である限り仮想敵海軍は合衆国海軍と南米大陸の海軍くらいだからだ、イギリス王立海軍と日本帝国海軍の権益に揉め事を起こすほど彼らは暇じゃ無い。


「戦艦の数と空母がもっと欲しい、熟練した搭乗員も欲しい・・・」


ミッチャー提督がやれやれといいたげに呟く。

戦争やるならもっともっと色々欲しい、だがそれが揃った頃にはもっと別のものが欲しくなる。

悲しいかなそれが人情である。


「我々は恐ろしく博打というか、投機的軍事行動を起こそうとしているのでは無いですかね・・・」

「せめて日英どちらかだけだったら良いんだがなあ・・・」

「或いは南軍だけだったら・・・」


ブキャナン以来栄光のない孤立をしている海軍にとって、戦争に対する認識は二つであった。

"我々に戦争は難しい"という消極主義者と、"奪われた持っているはずの栄光を取り返す"を掲げる拡張主義、又はアレなレッドネックの白人の様な暴論である。

ただそれでも、彼らにはプライドがあった。

驕り高ぶり我々の沿岸を彷徨く余所者に対する怒りはあった。


1939年7月19日、立憲君主大清帝国、紫禁城


大日本帝国陸軍戦車兵、西竹一は何故自分がここに居るのか分からなかった。

俺はなんでここにいるんだ、そう尋ねてみたくなった。

理由は日本が中国利権の間接的受益に切り替え、軍民物資を日本に依存させる戦略に切り替えたからである。

ソ連と交戦状態が続き禁輸されている上に、イギリスとの関係が良いわけない中国はドイツから以前より関係を深めていた。

だがナチスを危険視するチェンバレンは多種多様な妨害を敢行、特に危険であるという理由から中国との物流に嫌がらせを行い、ナチスから金属資源と兵器の取引を阻止していた。

また、海上における優位性を発揮して海峡臨検を行い難癖をつけるという手段も行われた。

全て英国領海での行為であり、公海上で一度も行われる事がなかったので誰も文句を言えない様にされていた。

この陸海の"任意同行"により八八式小銃--Gew88の国内生産型--以外兵器に不足する中国に、日本は軍需品を大量に転売したのだった。

11年式機関銃やハ号軽戦車と言った陸上車両や銃火器、また、旧式の複葉機なども転売されたが最も人気なのは山砲や歩兵砲と言った重火器と対空火力であった。

更に試験的に日本軍は技術調査として義勇軍を編成、師団規模の正規軍が中国入りし岡村将軍たちは軍事顧問団として同地に赴いていた。


「えー、黒板にある通りだが、

 我が軍の九十七式は限界があるとして改造を作ったが、貴官等も承知の通り敵新型戦車は強力である」


西竹一は47mm砲を積んだチハ改を指差しながら、新人たちに研修をしていた。

最近ジューコフ将軍がT-34という新型戦車を送り込んで、シリンホトから先の進出を阻んでいる。

基本的に中国軍は連隊規模以上を活動させる兵站能力が無かったので、戦車と砲火力で押し込まれると弱い。

それが中国軍の対日攻撃を躊躇わせていた理由であった、火力も兵隊も違うのに喧嘩を売るのは馬鹿げている。

ファルケンハウゼンが中国との交易及び軍事関連支援の縮小により解任され、顧問団が撤退したのも痛手であった。


「この新型敵戦車はT-34と呼称され、見ての通り傾斜を多用しこれにより実質的装甲を厚くして、弾く様に設計されている。

 快速で機動力と防御力も高く、火力も優秀だ。」


西住大尉製ソ連戦車関連の手引書を片手に、西竹一は中国の若い戦車兵を教導する様言われた。

コレが彼にとって全く理解できなかった、自分がそんな任を任じられるのがあり得ないと考えていた。

何故なら彼は実戦を経験したが、騎兵将校だ。

自分は鉄の馬にも乗れと言われて日が浅いんだぞ。

それに、俺の東京五輪の練習はどうなるんだお前。

西竹一は内心、蒙古あたりに行って馬賊に転職するか真剣に検討し始めていた。

ただ生徒たちは熱心で真面目な連中だった、そのため彼はコイツらを死なせない様にしなくてはとも、本気で思っていた。

彼は2ヶ月間の大陸生活で、無限に広がる麦畑とその大地の感動を駆け巡る馬上の自身というのを味わう機会が全く無かった以外、嫌な経験に遭わずに済んだ。

そして、彼が蒙古の草原を駆け回る機会を得られるのはしばらく先である。


そんなついていない教官達の訓練を受けた中国戦車兵達は、予期しない効果を及ぼしていた。

本来は対独戦プランを作っているはずだったジューコフが満州で対中戦を指揮する事になった事である。

RKKA労農人民赤軍STAVKA赤軍大本営は初期案として国境要塞化の死守を検討したが、ジューコフ率いる仮想敵軍に完敗したのである。

その結果ジューコフ将軍に本土防衛案製作を移したのだが、39年5月ノモンハン草原で中国軍越境部隊との戦闘で犠牲を生んだ事でソ連邦勲章第一号受章者が銃殺台送りになった。

しかもNKVD極東部長リュシコフが亡命したのもあり、極東の立て直しが必要になったのだ。

赤軍は人材の選択を誤ってしまった。

不毛なゲリラ戦の対処は、赤軍にとって深刻な問題になりつつあったのである。



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