深淵の希望

「おばあちゃん!良かった、ここに居たんだ!」


マルクは駆け寄り、地面に垂れる手を取る。握り返してくる力は無い。だが、まだ温かみが感じられた。


「動けないの?ちょっと待っててね、すぐに出してあげるから。レティシアさん、ちょっと地面に置きますね。よい、しょ……っ」


マルクは抱えていたレティシアを地面に置くと、幾重にも積み重なった柱を持ち上げようと試みる。だが、たった一人の力でどうにかなるものではない。それでもマルクは柱を持ち上げようと、煤にまみれながら両腕に力を込める。


「ん、くっ……重い、けど……大丈夫だから!僕が絶対に助けるからね!」


『マルク……』


「痛っ……あ、あははっ、心配しなくても大丈夫。ちょっと指を切っちゃっただけだから。これでもおばあちゃんのお手伝いはたくさんしてるからね。これくらい僕一人でも……」


『マルクッ!!』


怒声のようなレティシアの声に、マルクが動きを止める。乱れた呼吸を繰り返すマルクの柱を持つ手元に、幾つもの滴が落ちる。熱気による汗ではなく、瞳から落ちた涙が。


『わかって、いるのだろう?貴様の祖母は、もう……』


「…ふっ、ぐ……う、うあぁああ……!」


そんなこと、言われなくてもわかっていた。だが、理解していたからこそ、わかりたくなかった。


マルクはその場に膝をつき、祖母の手を握った。小さい頃からずっと包まれていた優しい温かさ。もうすぐ、この手から温かさは失われていくのだろう。もう褒めて撫でてくれることのない祖母の手に、マルクは頬を擦り付ける。


「おばあちゃん嫌だっ!嫌だぁっ!僕を置いていかないで!僕を一人にしないでぇ!もう……もう、一人になりたくないよぉ……っ!」


それは、孤独を知る者の魂からの慟哭。真の孤独を知っていたからこそ、その日常が奪われることは何より堪え難いものであった。まるで幼子のように泣き叫び、祖母の手に縋り付く姿は悲壮感に満ちていた。


『マルク……軽々しく気持ちがわかるとは言わん。だが、ここに留まれば貴様の身も危うい。貴様の祖母とて、それを望んではいないだろう。だから、早くここを離れろ』


「嫌だ……一人に、なりたくない……嫌だ……」


『マルク、聞け!今は、今だけは我の言うことを聞いてくれ……!』


レティシアの呼び掛けに、譫言のように何か呟くマルクはその場を動こうとはしない。ただ祖母の手に頬を擦り付けたまま、まるでこのまま生き絶えることを望んでいるかのようであった。いや、恐らく彼は実際にそれを望んでいるのだろう。


手も足も無いレティシアには、マルクを抱えることも、この場を離れることも出来ない。ただ彼の心を虚しく素通りする言葉しか向けることしか出来なかった。レティシアはこの時ほど、ままならない自身の身体を呪ったことはなかった。


そして、彼女はこの時ばかりは失念していた。彼らへと向かってのそり、のそりと近付いてくる、巨大な存在に。


『う……っ!?』


レティシアが気付いた時には、もう遅い。既にその存在は、彼らをその貪欲な食欲の籠る瞳に捉えられていたのだから。


それは、紅蓮の巨軀を持つヤモリに似た生物であった。濡れたような艶のある表皮に炎を纏い、その大きな口でボリボリと何かを咀嚼しながら、次なる獲物をマルクへと定めていた。


一歩、また一歩と距離を詰めるたびに足下の地面に炎が上がり、炭化する。この惨劇を引き起こした張本人であることは明らかであった。


伝承に伝わる炎の精霊サラマンドラに酷似する見た目をしているが、その瞳に知性や理性のようなものは感じられず、あるのは底無しの食欲だけ。何者かによって創喚された存在であることは容易に想像がついた。


『マルク、立て!立って走れ!貴様も奴の腹の中に収まりたいか!?』


「…………」


『マルクッ!!』


マルクは動かない。ただサラマンドラを一瞥しただけで、声すら上げずにその場に蹲っている。唯一の家族を失った彼に生きる意味は無く、そして孤独な世界を生きたいという願望も無い。ただ、この無意味になった生を終わらせて欲しい。マルクの思考を埋め尽くすのはそれだけであった。


その間に、サラマンドラがマルクを射程圏に捉えた。水分の多い人間を生で食べる趣味は無く、口を開いて大きく息を吸い込んだ。


吐き出される炎は魂すら焼き尽くす獄炎。人間一人を焼き尽くすのに数秒と掛からないだろう。


『マルク立て!マルクッ!』


「…………」


『マルクッ……我に、我に友の死を見せるつもりかァッ!!』


レティシアの悲痛な叫び。その時、虚無だったマルクの瞳に僅かな光が灯る。だが、マルクが動く暇を与えることなく、サラマンドラが溜め込んだ空気を吐き出そうとしたーーーその刹那であった。


「うおおおおおっ!!」


気合い一閃、煌めく白刃。焼けた地を蹴り、飛び掛かると同時に振り抜かれた揺らぎなき刃はサラマンドラの左目を捉え、深い傷を刻み付けた。


「ーーーーーーーーーッッ!?」


思わぬ不意打ちに声にならない悲鳴を上げてサラマンドラが体勢を崩し、陸に打ち上げられた魚のようにのたうち回る。真っ赤に赤熱した剣を振るい、鞘に納めたのは、グウェンであった。


「遅くなってしまったが、間に合って良かった。マルク君、怪我は無いかね?」


「…………」


「マルク君……?」


マルクに駆け寄り、抱き起こしたグウェンだったが、彼からの反応は皆無。生気の無い瞳を、握りしめた祖母の手に向けるばかりであった。


「その手は、もしや……そうか、辛かったな、マルク君」


その様子に全てを察したらしいグウェンは、自身の両手でマルクの手を祖母の手ごと包み込んだ。


「一宿一飯の恩を受けておきながら、お助け出来ず申し訳ない。だが、その代わりに貴方が遺した宝は、この私が必ずお守り致しましょう。どうか、安らかに眠ってくだされ」


そう語り掛けると、グウェンはマルクの手を祖母の手から優しく引き離す。再度祖母へと手を伸ばそうとするマルクを、グウェンは強く抱き締めた。


「マルク君、祖母君を守ることが出来ず、本当にすまない。だが、どうか祖母君が大切に守ってきたその命、散らそうとは考えないで欲しい。キミを育て守るために生きてきた祖母君の命を、願いを、無碍にしないために」


「…………」


何も語らないマルク。しかし、その瞳から一つ、また一つと涙の雫が落ちる。まだ彼の心は死んではいない。まだ生きる活力を失ってはいないのだ。グウェンは静かにマルクの涙を受け止め、この残酷な世界で一人きりになった彼の小さな背中を撫でていた。


「おや……」


その時、轟音が辺りに響き渡る。グウェンが顔を向けると、サラマンドラが腹いせのように納屋を叩き潰し、表情の無いのっぺりとした顔からでもハッキリとわかるほどの憤怒に満ちた顔を彼らへと向けていた。どうやら、よほど食事の邪魔をされたことが腹に据えかねているようだ。

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