レティシアの本音

『おい、待て。我も連れていけ。たまには貴様の部屋以外の景色を見たい』


「はいはい。じゃあ一緒に行きましょうか」


さすがに一ヶ月も一緒に生活していると、マルクの声色に初対面の頃のような緊張は無い。一応レティシアとは目的を果たした後は友人になってもらう約束になっているのだが、既にそんな関係のように見えなくもなかった。


マルクはレティシアを抱えて部屋を出る。台所では夕食の支度をしている祖母が大鍋を掻き回している。芳しい香りに混じるミルクのような芳香から察するに、夕食はシチューといったところだろう。


「どうしたの、おばあちゃん?」


「絵を描いてる最中にごめんなさいね。ちょっと今は手が離せないから、お外から薪を持ってきてもらえないかしら?」


見てみると、かまどの横にある薪置き場がほとんど空になってしまっている。春先とはいえ夜は少し冷えるため、暖炉に薪を使ってしまったせいだろう。


「うん、わかった。行ってくるね」


「あらあら、またあの本も一緒に持っていって。よっぽどお気に入りなのねぇ」


『まったくもって困ったものだ。連れ回されるこちらの身になってもらいたいものだな』


「貴方が連れていけって言ったんじゃないですか……」


「マルクちゃん、何か言った?」


「な、何でもないよ!すぐに持ってくるから!」


普段は祖母の前でレティシアと会話をすることはないのだが、慣れてきたこともあってつい反応してしまった。訝しむ祖母の眼差しから逃げるようにマルクはレティシアを抱えて外に飛び出した。


マルクが外に出ると、閉めきられて淀んでいる自室の空気とは全く違う、澄んだ気持ちの良い風が頬を撫でる。


『ふぅ……心地よい風だ。一仕事終えた後では、普段の見慣れているはずの景色が色付いて見えるな』


「仕事をしたのは僕のような気が……」


『阿呆。貴様に意見し、手を抜かぬよう見張ることが我の仕事よ。それはさておき、さっさと用件を済ませてしまえ。もう陽が沈む』


太陽は既に傾き、山の向こうにほぼ半分ほど隠れてしまっている。村外れにあるマルクの家からは小さな村全体を一望することができ、沈み掛けた太陽の赤みの差した陽光が村を照らし、まるで燃えているかのような光景だ。縁起でもないような気がするが。


そして、レティシアに急かされるまま自宅の裏に回ったマルクだったが、割られた薪がほとんど無いことに気付いた。最近はレティシアの絵に集中していたこともあって補充が疎かになってしまったようだ。


「しまった、もう残ってない。急いで割らないと」


『大丈夫なのか?絵描き道具以上に重い物を持ったことのない貴様では困難なのではないか?』


「バカにしないで下さい。薪割りはいつもやってる僕の仕事なんですから。そこで見てて下さい」


マルクはレティシアを積み上げられた薪の上に置き、そこから一本の薪を手に取って自信満々に斧を片手に切り株の上に置いた。


「せー……のっ!」


気合いと共に斧を振り上げる。だが、そこで思わぬアクシデントがマルクを襲った。


「わっ、た……っ!?」


ただでさえ非力な上に、今のマルクは疲労困憊。足下が覚束無くなるのは必然だった。


バランスを崩したマルクの身体は斧の重さに堪えきれず後ろへと傾いていく。このままでは無様に転倒してしまう。それを避けるべく、マルクはとっさに斧から手を離しーーー


『ちょわぁッ!?』


マルクの手を離れた斧は、その背後で事の成り行きを見守っていたレティシアのすぐ隣の薪にめり込んだ。


「あっ、ごめんなさい」


『ご、ごめんなさいで済むか阿呆!あわや我が割られるところだったではないか!』


「そんなに騒がなくてもいいじゃないですか。どうせ傷もつかないのに」


『黙れ軟弱非力小僧!感覚は有ると常日頃から口酸っぱく言っているだろうが!この間のように白湯を溢される程度とは訳が違うのだぞ!』


「そこまで言うなら手本を見せて下さいよ。参考にさせてもらいますから」


『出来るならやっておるわ!こちとら文字通り手も足も出んのだからな!』


そんなやり取りをしながら、マルクは改めて斧を手に持った。


レティシアが来てから、毎日が楽しくなった。薪を割りながら、マルクはしみじみとそう思った。


今までの生活に不満は何もない。祖母はやりたいことを応援してくれているし、村人達も皆優しい人ばかりだ。きっと、自分もこの村で大人になって、この村に骨を埋めることになるのだろう。


あまりにも平凡すぎる人生だが、マルクはそれでも構わなかった。前世では、その平凡な生活を送ることさえ許されなかったのだから。


しかし、少しだけ心配事があった。それはレティシアが肉体を手に入れた後のことだ。


その心配とは、友人になってくれるという約束をレティシアが律儀に守ってくれるか、というのが理由なのではない。その約束が彼女をこの村に縛ってしまうのではないか、というのがマルクの心配であった。


レティシアは気の遠くなるような間、ずっとあの魔導書に封じられていたと言っていた。当然、その束縛から解放された後は自由に世界中を見て回りたいはずだ。


彼女がようやく手に入れた自由を自分の約束で再び奪ってしまうことに、マルクは申し訳なさを感じていた。


『どうした、手が止まっているぞ。何か考え事か?』


「えっ?な、何でもないですよ。ちょっと疲れちゃっただけですから」


そんなことを考えていると、無意識の内に手が止まっていたようだ。レティシアから指摘されたマルクは再び作業に戻るが、やはり集中出来ていないせいか振り下ろした斧が薪を捉えきれずに切り株に突き刺さってしまう。


『何が何でもないだ。今の貴様からは迷いしか感じられん。大方、我がこの忌まわしい魔導書から解き放たれた後のことを考えているのだろう?』


「な、何で僕がそんなことーーー」


『我は一月も貴様の顔を見ているのだぞ。貴様の考えなどお見通しだ。さっさと話せ。さもなくば貴様の今夜の安眠は保証出来んぞ』


「う……」


元よりレティシアに隠し事など出来なかったらしい。完全に心の内を見透かされたマルクは渋々自分の悩みを話して聞かせた。


『はっ、甘っちょろい貴様のことだ。どうせそのようなことだろうと思っていたが、案の定といったところか』


「だ、だって、レティシアさんも自由になったらいろんなところに行ってみたいですよね?それを僕との約束が妨げになるのなら、僕との約束なんて……」


『マルク』


「……!」


マルクは驚きながらレティシアを振り返る。今ここにおいて、初めてレティシアがマルクの名を呼んだのだ。この一ヶ月間、彼女がマルクを呼ぶ時といえば『おい』か『貴様』かのどちらかであっただけに、さすがのマルクも驚きを隠せなかった。


『確かに、再び肉体を得ることは我が悲願。我が封じられている間に世界がどのように変遷したのか興味が無いこともない。だが、我はそれ以上に貴様と……ん゛ん゛っ、ここでの生活を気に入っている』


「えっ……?」


何やら妙なところで咳払いが入ったような気がするが、レティシアの発言が意外だったマルクは気付かなかった。


『敵意もなく、怒りもなく、恨みもなければ嫉妬も無い、穏やかなヒトの営みを包み、ただ穏やかで静かな時間が緩やかに流れていく……あれほど退屈を嫌っていたはずの私だが、何故か苦痛もなく今この時間を享受出来ている。それは恐らく、貴様という存在も少なからず関係があるのだろう』


「僕が、ですか?」


『ああ、認めたくはないことだが。ならば、我が自由を謳歌するのは貴様の友としてこの粗末な村で存分に時を過ごした後でも遅くはないと思ってな。ヒトの命などせいぜい百年足らず。その程度、我がこの魔導書に封じられていた時間を思えば一瞬に等しい。だからこそ……今の、この時間が我にとっては非常に価値あるものだと、そう思っている』


普段の高圧的な雰囲気はなく、まるで幼子に言い聞かせるかのような優しいレティシアの声色にマルクは思わず聞き入ってしまっていた。


だが、同時に彼は確かなレティシアの本心を聞いていた。マルクの願いは、彼女にとっても決して無価値なものではなかったのだ。


『…少し、話し過ぎたらしい。休憩はもう十分だろう。早く終わらせてしまえ』


「あ、あの、じゃあレティシアさんは僕と友達になってくれた後も村にーーー」


『うるさい、黙れ。いちいち言わせるな阿呆。さっさと終わらせんと尻を蹴り上げるぞ』


「はいはい……」


蹴り上げるための足も無いのに、やや早口に捲し立てるレティシア。それは彼女にとっての照れ隠しだったのかもしれない。今のレティシアがどんな顔をしているのか、表情がわからないのが非常に残念だと思うマルクだった。


迷いが断ち切られると、単純な作業はすぐに終焉を迎えた。レティシアを小脇に抱えながらマルクは出来上がった薪を持てるだけ抱え上げた。


『……!おい、後ろをーーー』


「そこのボウヤ。ちょっといいかね?」


「はい?」


レティシアの声と同時に聞こえてきた背後からの声に振り返るマルク。そこには、立派な長く白い髭をたくわえた老人の姿があった。

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