第一章 新たな出会いと日常の崩壊

柔らかな陽光が射し込む小さな部屋に、細く削られた炭が黄ばんだ紙の上を走る音が響く。


描かれているのは、草原を疾駆する一頭の馬。立派な鬣を靡かせ、その逞しい馬体を躍動させながら地を蹴り、野を駆ける勇姿を正面から捉えたその構図は、静止画にも関わらず今にも紙面から飛び出さんばかりの迫力を醸し出していた。


だが、何より恐るべきはその筆の早さだろう。紙の隣には修正用の古いパンが置かれているが使われた形跡はなく、まるで完成図の上からなぞるかのように微かな迷いもなく紙の上に炭を走らせていく。


そして、机に向かって炭を握るのは、一見して少女と見紛う中性的な容姿が特徴的な銀髪の少年である。華奢な体格で身体の線も細く、本当に男なのかと疑ってしまうような見た目であったが、それは彼自身も密かに気にしているところ。


それでも筋肉をつけようと努力していた時期もあったが、山道でのランニング中に力尽きて卒倒。ちょうど山に入るところだった樵のおじさんに発見され、祖母に泣かれながら叱られたこともあって挫折していた。


「……ふぅ、こんな感じかな」


最後に荒々しさを感じさせる瞳を描き入れ、その少年、マルクは炭を置いた。野性味溢れる表情、筋肉の隆起、そして舞い上がる土煙。なかなかの自信作にマルクは腕組みをしながら自画自賛するかのように顔を頷かせる。


「うん、なかなか良く描けたかも。やっぱり馬は走ってる姿が一番カッコイイよね」


満足げな表情を浮かべながら、マルクは紙の端をつまんでしみじみと力作を眺める。誇張抜きで高名な画家が描いたものと遜色ない出来映えであったが、これを十分足らずで描いたと聞いて一体誰が信じるだろう。


その時、閉ざされた扉から控えめなノックの音が響き渡った。


「マルクちゃん、ちょっといいかしら? 」


開かれた扉の先に立っていたのは、白いエプロンを身に付け、人の良さそうな柔和な微笑みを浮かべた老婆であった。マルクは絵を置き、立ち上がりながら自身の祖母を振り返った。


「大丈夫だよ。ちょうど描き終わったところだったから 」


「あらあら、今日も絵を描いてたのねぇ。ちょっと見せてもらってもいいかしら?」


「うん。良かったら感想を聞かせてくれると嬉しいな」


足が悪いのか、杖をついて部屋に入ってきた老婆にマルクは完成したばかりの絵を差し出した。


「今日はお馬さんの絵なのねぇ。よく描けてるじゃない」


「ありがとう。今日はバレットさんのところのシュウをモチーフに描いてみたんだ。この間怪我した足が治ったみたいで元気に走り回ってたから」


「まぁまぁ、それは良かったわ。じゃあ、後でお祝いを持っていかないといけないわね」


マルクが描いた絵を一番に見るのは決まって唯一の家族である祖母だった。足が悪いせいで、あまり外出の出来ない祖母のため、マルクはよく村で見掛けた光景を絵にしていた。


「そういえば、何か用事があったんじゃない?」


「そうそう、忘れるところだったわ。今日は行商人さんが来る日でしょう?手が空いてたら行ってきてもらえないかしら?」


「うん、わかった。ちょうど絵も溜まってきたし、紙も買い足さないといけないと思ってたからちょうど良かったよ」


マルクは壁に掛けられていた大きな肩掛けカバンを手に取り、机の端に重ねられた紙の束を端が折れないように押し込んだ。


「助かるわ。売り物は表にあるから持って行って。あと、お塩と洗濯用の石鹸を切らしちゃったからついでに買ってきてちょうだい」


「うん、わかった。それじゃ、行ってきます!」


マルクは部屋を出ると、祖母が紡いだ生糸と織物の入ったバスケットを手に村外れにある小さな家を出た。


外は雲一つ無い陽気で、山間にある村を吹き抜ける涼やかな風が頬を撫でる。何かしら名物があるわけでもなく、冒険者もわざわざ足を運ぶこともない小さな村だが、この過ごしやすい環境こそこの村の財産と言えるかもしれない。


引きこもり勝ちの身体に優しい陽光を浴びながら軽い足取りで村の中心にある広場に向かっていくと、商品を満載にした五つほどの行商人の馬車の回りには既に人だかりが出来ていた。


この村は王都へと向かう街道から少し外れた場所にあり、王都と港町を往復する行商人がよくやってくる。物流を彼らに頼っているため村人は余程のことがない限り村から出ることはなく、行商人が運んでくる珍しい品々はどれも魅力的だ。特に港町から運ばれてくる塩漬けの魚は特に人気で、集まっているほとんどの村人はそれ目当てだ。


だが、マルクは樽の中にこれでもかと詰め込まれた魚には目もくれず、人だかりの間を縫うように、ある一台の馬車へと歩み寄っていった。


「こんにちは、ローガンさん」


「おう、マルクじゃねェか!相変わらずちっこくて細っいなァ!がははははッ!」


マルクが声を掛けると、口にくわえたパイプから紫煙をくゆらせていた大柄の熊の獣人は、豪快な笑い声を上げながら彼の頭をその大きな手でガシガシと撫でた。


彼の名はローガン。この村をよく訪れる行商人の一人で、港町に大量に集まる異国の雑貨を王都の商会に卸しながら、その片手間にこうして村に商品を運んでくる。実はこの村の出身で、故郷に貢献しつつ王都に自分の店を出すべく日々商売に励んでいる。


「今日はジーナ婆さんのお使いか?あの婆さん綺麗好きだからな。今日も質の良い石鹸を持ってきたぜ!」


「話が早くて助かります。じゃあ、先にこっちを買い取って貰えますか?」


「おお、こりゃ生糸か!あの婆さんの生糸と織物は質が良いからな。こっちも助かってるんだよ」


ローガンはマルクからバスケットを受け取ると、一つ一つ数を数えながら真剣な眼差しで品質を確かめていく。顔馴染みとはいえ、この取り扱う商品に妥協はしない姿勢はさすがは商人といったところか。


「ん、あの年で酒は止めねぇくせに相変わらず良いモン作りやがるな。これなら喜んで買い取らせてもらうぜ。代わりに何か欲しいモンあるか?今なら南の島国から運んできたっていうこのよくわからん黄金の毛玉精霊の像がーーー」


「それは結構です。石鹸と塩を貰えますか?」


「ノリが悪ィなぁ。ここは乗っかって買っとけよ」


「無駄遣いしたらおばあちゃんに怒られちゃいますから。それに、そんな得体の知れないものなんていりませんよ」


「得体が知れねぇか……意外とイイと思うんだがなぁ」


ボヤキながら、ローガンは空になったバスケットに数枚の銀貨と馬車の積み荷の中から石鹸と塩の包みを幾つか入れてマルクに差し出した。


「ほらよ。他に何かあるか?」


「いえ、とりあえず大丈夫です。これなら、きっとおばあちゃんも喜びます」


「そうかい。そりゃ商売人冥利に尽きるってもんだ。そんじゃ、ジーナ婆さんのお使いは終わったところで……今度はお前との商談だ」


「わっ!?」


ローガンは辺りを見回し、周囲の目が向けられていないことを確認するとマルクの肩に腕を回して引き寄せた。

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