クリームソーダ流星群
おおはしカフカ
第1話
股の間のぬるりとした生温かい感触が、
「すみません、ちょっと10番に行ってきます」
10番とは、菜都の勤務する美容院でお手洗いを意味する隠語だ。
生理用ナプキンの入ったポーチを乱雑にとり
トイレに駆け込む。
使わなくて済みますように。
杞憂でありますように。
今度こそ大丈夫だって思ったの。
生理予定日から一週間遅れていて、
今夜、妊娠検査薬を試みようとしていたのに。と逡巡しながら下着をおろす。
ああ……
落胆の声が思わず溢れる。
生理だ……。
リセットされてしまった。
三度めの人工受精もダメだった。
なんで、またダメだったの……?
マグマのような熱く沸々とした想いが
腹の底から込み上げる。
歯を食い縛るが、それは食道を、気管を、
乱暴に押し通り口をこじ開ける。
呻くような声が漏れだしていく。
菜都は精一杯の力で体の反応に抵抗していたが、すればするほど目は熱くマスカラを洗い流し頬のファンデーションをつれて、さらに重みを増してボタボタと流れ落ちていく。
制御できない自分への悔しさか、哀れみか、
菜都は自分の太ももを拳で打った。
*
「お疲れ様でございます。篠宮様」
菜都は、メイクを急ぎ直しフロント業務へと
戻っていた。受付は笑顔が命。
研修時代に叩き込まれた経験はこの場所に
くると、笑顔の仮面を作れるようになっていた。
「本日のヘアスタイルもとても素敵です」
「あら、佐倉さんありがと」
常連の篠宮様は60代ながらも年齢を感じさせない面持ちで清潔感の溢れる女性だ。
「篠宮様、今度お食い初めのお祝いでご家族と記念写真取られにいくそうですよ。」
篠宮様を担当した美容師の門倉千恵子が会話に加わる。
お食い初め……そのワードに一度体が強張ったが、仮面の笑顔で相づちをうつ。
「そうなんですね、お孫さんに会えるの楽しみですね」
「ふふ、そうなのよ。初孫だからね、私も主人も浮かれちゃってね」
お会計の手続きをしながら世間話をすることはよくあることだ。
ただ、この話題はもうやめたい。そう思っていたのに。
「佐倉さん結婚されて結構経つのよね?
あなた子供はまだなの?」
ええ、生理初日ですから。
仮面にヒビの入る音が聞こえた気がした。
*
朝、パルパルに顔を舐められ目を覚ます。
シーズーは顔がぺちゃんこだから、
顔を押し付けてくる感覚に近い。
短頭種特有の香ばしいような鼻まわりの匂いはなぜかホッとする。
「ごめんね、パルパル。朝ごはんまだだったね」
生理二日目の重い体は布団に縫い付けられているようだ。起き上がる前に手探りで体温計を掴み取り口の中に差し込む。
36度4分。うん、低温期だ。
昨日若干体温が下がってしまっていたのは
生理を迎える体の準備をしていたのだ。
妊娠じゃなくて。
菜都は手や背中を無理矢理引き剥がすように
起き上がる。
頭を起こした瞬間、軽い貧血で目の前が
白んで見えた。
体の中を泥のような体液が動いてるようだと菜都は思う。
ゆっくりとキッチンに進み、ストックケースに入れ換えたドッグフードをカップで掬い、パルパルの食器に盛り付けていく。
カラン、コロコロと陶器のお皿の上を跳ねるドライフードの音に反応して、パルパルも
尻尾を振り、跳ね回っている。
「パルパルお待たせ」
余程待ちきれなかったようで鼻息を荒く立てて頬張っている。あっという間に食べきってしまった。
腰が重く、下腹部には常に鈍痛のある不快な体を動かしながらモーニングルーティンに
取りかかる。顔を洗い、歯を磨き、食欲が
湧かないのでお茶だけ飲むことにする。
ノンカフェインの有機ルイボスティーの
ティーバックを取り、お湯を注ぐ。
妊活を始めるまでは朝はいつもブラックコーヒーと決めていた。コーヒーが好きで朝昼晩と絶えず飲んでしまっていた。
カフェインの取りすぎは妊孕力の妨げになると聞き、今では専らノンカフェインのお茶を飲むようにしている。
どうしてもコーヒーが飲みたくなった時は
ノンカフェインを選ぶようになった。
温かいルイボスティーは滋味に溢れていて
昨日からの刺々しい気持ちを少し和らげて
くれた気がした。
生理二日目が公休日で本当によかった。
と安堵の気持ちでテレビをつけると、
『本日の午前0時頃から、みずがめ座流星群の見頃です!』
と初夏を感じさせるような
若草色のカーディガンに白いブラウスを着た爽やかな女性アナウンサーが意気揚々と話していた。
「あ」とルイボスティーを飲む手を止める。
スマホを手に取り、LINEを開き
『出張最終日、流星群の日だった!今回、
方学的にベランダから観察できそうなんだよね。体しんどくなかったら一緒に見ない?』
『見る見る!たまには夜更かししたいし!
なんか夜食用意しておく?』
『いいの?ありがとう!クリームソーダのみたいな~あとチーズとサーモンサンド!』
このやり取りをしたのが3日前。
生理が遅れていて、浮かれはじめていた頃の自分を思いだし少し目が熱くなる。
夫の実はバイヤーの仕事の関係で度々出張
することも多い。
「そっか、今日実の帰ってくる日だ…」
まだ実には、生理が来たことは言ってない。
今夜直接伝えようと思い、LINEを閉じた。
ふと足元を見ると、パルパルがお散歩用の
リードを加えてこちらを見上げていた。
*
トットットッ
尻尾を軽快に降りながらパルパルが歩いていく。午前中の日差しは清々しく、もう少し
歩いてみたくなった。
「今日はあの公園寄ってみよっか」
パルパルに問いかける。公園まで着くと
え?嘘でしょ?と体が強張る。
『ペットとの入園はご遠慮ください』
と公園前に建てられた掲示板や公園まわりを
囲う柵に数枚ポスターが張り出されていた。
つい先日は、中に入って広場で遊ぶことも
できた。
「あっ!佐倉さーん!おはよぉ!」
唖然と棒立ちしている菜都にフレンチブルドッグを連れたふくよかな女性が明るく声を
かける。
「木村さん!おはようございます~」
お散歩仲間の木村さんのフレンチブルドッグの花ちゃんとはパルパルも仲良しで、フガフガと短頭種特有の鼻息をたててお互いに挨拶をしている。
「ここの公園、ペット禁止になっちゃったんだよぉ。砂場に始末されてない糞とかが沢山あったらしくて遊ぶ子供達の衛生上よくないって自治会で決まっちゃったらしいよぉ。でも私は野良猫が原因だと思うんだよねぇ」
少し世間話をして、その場を後にする。
柵の周りをパルパルと一緒に歩く。
公園の中からは、小さい子供を連れた親子連れのグループの楽しげな声が聞こえてくる。
「きゃー!キャッキャッ」
「こら!前みて走りなさい!」
「そろそろお昼だから帰るよー」
「やだー!まだ遊びたいー!」
きっとこれは世間では微笑ましい光景なんだろう。
私はこの中に入れない。柵の中に入れない。
入れてもらえない。
痛い検査をしても、痛い治療をしても、
副作用のある薬を服用しても、
授かれない。何万年前からも生命が
行ってきた子供を授かること、産むことが
私にはできない。自然の理から外されている。
そんな自分を比喩してるような状況に、
菜都はまた抑えきれず涙を溢す。
人に見られるかもしれないのに、でも抑えられなかった。
*
夕食を軽く済ませ、流星群の観賞のために
夜食作りに取り掛かろうとした時、スマホの着信に気づく。実からだった。
「ごめん……。今日帰れなくなっちゃったんだ。同僚の佐々木に引き継ぎの予定だったんだけど……急遽代わりに俺が出る事になって……」
夜食用に購入した食材を入れたスーパーマーケットの袋を掴む力が強くなる。
「佐々木さんどうかしたの?」
「あの、今奥さんが出産中らしくて立ち合う為に病院に行くことになって……」
下腹部がギュッと締め付けられるように感じた。
「……それじゃあ、仕方ないよね。おめでたいことだもん。でも実の代わりに出てくれる人いなかったの?」
「そうなんだよね。今回は……。それにほら、今の部署で子供いないのはうちだけだし……こう言うときは率先して代わらないと……」
もうダメだ。と思った時には止められなかった。
「悪かったわね!子供も産めない妻で!今回もダメだったんだよ!もう何回目!?もううちら37歳だよ!?皆に出きることが私にはできない!そんな仕事、幸せな人達にやってもらえばいいじゃん!こんな時だから話を聞いてほしかったのに!」
「……菜都だけが悪いわけじゃないじゃん。何でそんな卑屈なこと言うの」
「なんで分かってくれないの!?これまで痛い思いもしてないくせに!!なんで寄り添ってくれないの!?」
「……話は帰ってから聞くよ。今回は本当にごめん……。仕事の手続きとかあるから、もう切るよ」
ツーツーツーツー
一方的に切られたスマホを握りしめる。
自分が吐き捨てた言葉を反芻する。
心臓がバクバクしている。手が震えている。
呼吸が荒い。
もう嫌だ。ずっとずっと出口の見えない
トンネルの中にいるようで、好きだった子供も見ると心が痛くなる。妊婦さんを見ると、羨望の目で見てしまう。子育ての愚痴を溢す母になった友達に嫉妬してしまう。
こんなに私は醜かったのか。妬んで僻んで。もう、耐えられない。
勢いに任せて、ベランダの鍵を乱暴に開ける。一気に夜風が部屋に舞い込んでくる。
勢いのまま手すりに手を掛けそのまま夜に
溶けようと身を乗り出した。
その時、力強く腕を何かに掴まれた。
隣のバリケード越しから身を乗り出しこちらを見ていたのは16、17歳くらいの少年だった。
口許にホクロがあり涼しげな目元で、猫っ毛が夜風で揺れていた。
「あっぶな……怒鳴り声が聞こえたから、覗いてみたら飛び降りようとしてるんだもん……」
少年はまだ菜都から手を離そうとしなかった。
「あの……ごめんなさい。もう大丈夫です……」
力強く握られた手が緩められていく。
それと同時に少年は手すりに素早く手を掛け
ふわりと舞った。声も発する間も無く、少年は菜都の家のベランダへと降りたっていた。
「なっ……何してんの!あっあ、危ないじゃないの!」
「自分だってさっき飛び降りようとしてたじゃないですか。心配だからしばらく一緒にいてあげようと思って」
何目線?と思いつつ菜都は改めて12階の
高さから見下ろすと、下にいく程濃くなる闇に足がすくんだ。あの闇の向こうに行っては
こっちの世界にはもういられないと実感した。
「ていうか!こんな時間に部屋入り込もうとして変なこと考えてないでしょうね!」
少年は猫っ毛を揺らして笑顔で答えた。
「俺彼女いるし、ご安心を」
菜都は自分と少年との年齢差を考えて顔が熱くなる。
お互いにその気もないし犯罪の可能性もないとわかると、
「じゃあさ、ちょっとだけ流星群見るの付き合ってよ。旦那と見る予定だったのに、今日はもう帰って来ないの。折角用意した食材無駄になっちゃうから」
高校生かもしれない未成年であろう少年に
何を言い出すのだろうと頭を過ったが、
今は一人でいたくない。
「うん、いいよ」少年は快諾する。
「私、佐倉菜都。名前は?」
少年は何か言いいかけていたが口を噤み、
ややあってから答えた。
「名乗るほどの者じゃございません」
「何それ」
クスクス笑いながら少年を家に招き入れる。
雲のない夜の空を、星が一つ駆け抜けていった。二人はまだ星の瞬きに気付いてなかった。
クリームソーダ流星群 おおはしカフカ @kyonkyonkyon82
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