本能と片思うとき
みとけん
第1話 追いかけた男1
四月から始まった新入社員研修は過酷で、早朝六時から午後十時までを社会人としてのマナーや新社会人としての心構え、社長のありがたいスピーチなどの座学、与えられた模擬課題を解決するためのグループ演習などに費やし、入浴を終えた夜の十一時半から三十分、束の間の自由時間を満喫した後に就寝時刻となる。二日目の行程を終える頃には同期の殆どがこの会社に入社したことを心の底から後悔していて、俺もそうだった。
幾らか残り日数が減ったある日の夜、自由時間。結束を高めつつある同僚たちの歓談から抜けて煙草を吸いに外へ出た。研修に使われる宿舎は無骨で、コンクリートを立方体の型に流して、そのまま平地に落としたような佇まい。周りは鬱蒼とした木々に囲まれていて、少し歩いたところに大きな駐車場がある。舎内には喫煙所があるが、食堂の一角に設けられたそれに分煙の設備は存在せず、非喫煙者の舎内スタッフと居合わせると、あからさまに咳をされて居心地が悪い。だから、喫煙するときは駐車場の一角に行く。
月だけが明かりで、煙草に火を付けるまでその女の存在に気づかなかった。周りの木々がざわめく音に紛れて、女の啜り泣く声が聞こえて、そちらの方向を向くと、驚いて煙草を落としそうになったが、その女が先日グループ演習で自己紹介し合った、田村英子だと、すぐに気付いた。嗚咽の理由を尋ねると、彼女は「つれえ……」と呻いた。
「じゃあ逃げちまえよ」
田村は鼻を啜って辺りの木々を見回す。
風が吹いて、木々の枝先、葉が擦れる音がした。月の光が届く駐車場の周りの、外縁に立つそれらから少し向こうは闇で、じっと見つめていると夜行性の生き物が息づいているような気がしてくる。熊が出るかも知れない。駐車場の出入り口からは砂利道が続いていて、そこを辿ればいずれ国道に行き着くのだが、歩いてここを抜け出すことを現実的な手段として考える人間はいないだろうと思った。
新卒で入社した田村は俺より二つ上のランクの大学を出ている。つまり高学歴ということになるが、根っからの文化系だった。同期は体育会系が多数派で、彼らはこのキツい研修にすら馴染みつつある。
田村は浮いていた。
それから折りに触れては俺と田村はなんとなく、示し合わせてはいないが、夜の自由時間には駐車場で短い会話を交わす。初め、大学時代のことを話した。授業の内容の差異だとか、留年した間抜けな人間のことだとか、卒論のことだとか、そんな思い出話。会話の話題はそこから高校、中学、小学と遡っていって、時折彼女の口から北海道弁が飛び出した。毎日互いに疲弊していて、それ以上の事は起こりえなかったが、俺は密かにいずれ男女の仲になるかもしれないな、と思っていた。
研修から一年が経つ頃には、同僚たちの多くは離職しどこかへ散っていった。俺も多分に漏れず、実家に帰りしばらく就職活動とバイトをこなす気忙しい日々が続き、気が付けばさらにもう一年、元旦になっていた。所謂ブラック企業が取沙汰されており、ワイドショーで俺が新卒で入った企業の名を見た時には驚いた。
あれから田村とは連絡を取っていない。不義理に思ったが、彼女には何も告げずに退社した。
そして、職場を辞したすぐの頃からだろうか。俺はよく眠るようになったのだった。自分でも理由は分からなかったが、昼夜問わず、ふと強烈な眠気に襲われることがままあって、抗いがたかった。インターネットで症状を調べたところには、自律神経失調症が可能性として上がりはしたものの、医者に掛かることはしなかった。
*
平戸美鈴は業界では割と著名なウェブデザイナーらしく、一昨年に独立をしたらしい。彼女が雑多な書類手続きを補佐する、所謂事務職を求人していると聞いた。年明けて、未だ休職中の身分である俺に、彼女の友人である三十代の従姉妹がそう教えてくれた。
一月の下旬に彼女に連絡を取った。面接の日時は二月の第一週木曜の正午に決まり、場所は目黒、老舗の喫茶店で、コーヒーに店主の婆さんが作るパスタがくっ付いてくる「パスタセット」を模したらしい絵と、その値段が店の入り口に貼り付けてあるような店だった。店内に入ると右手に注文をするためのカウンターがある。左手には手前にカウンター席が四。入り口からは右半分に掛かる仕切りで見えなかったが、左から店内奥へ入ってみると四人がけのテーブル席がこれまた四つあった。平戸さんは右手前のテーブル席、壁際のソファに座ってコーヒーを飲みながらタブレットを操作していた。彼女はタブレットから目を上げて、俺を素早く一見するだに「宮本さんですか?」と尋ねてきた。
「はい、宮本健司です。お時間を頂いて」
「ああ。いえいえ、どうぞ座って」
俺は向かいのチェアに座った。結構緊張していて、額がじんわり湿っていた。親指の腹で額を払うと雫になった汗が腿の上に落ちた。
「そんなに緊張しないで」と言って、平戸さんは笑った。
我ながら単純だが、それでいくらか心が解れて、「すいません」と言って俺も笑った。
改めて正面から平戸さんの顔を見る。二重だが細く流れた目元、やや太めの眉毛、痩せ型で、茶色がかったミディアムヘアで、左耳だけ曝している。
俺は左側のチェアに置いたカバンからクリアファイルを取り出して平戸さんに渡した。
「履歴書です」
「はい」彼女はタブレットを左に除けて俺の履歴書を読み始める。
その後、彼女はパソコンを使った作業は経験があるか、英語はどれくらい喋れるのか、などを確認した。俺が前の会社をおよそ三ヶ月で辞めたことには敢えて触れていないようだった。それから共通の知人である従姉妹の話など、雑談をしてから労働時間や給与、待遇といった仕事の詳細についての確認を行い、「それでは、取り敢えず明日から事務所に来てください」と住所が記載された名刺を渡された。
俺は驚いて、「明日からですか」と聞いた。
彼女はソーサーにカップを置いて、「書類の書き方、早く覚えて貰わないと困るので」と言う。
「書類って、どういう」
「見積書から発注書、契約書、受領書、請求書……英語でも。それに役所に提出する書類なんかも」
「はい」
「それでは、何か質問はありますか?」
「事務所には他に何名の従業員がいらっしゃるのですか」
「私の他にはデザイナーの子が一人います。まだ専門出たての見習いですけど」
俺は三人のみの職場を想像して、気詰まりにならないか不安になったが、そんなことよりはこれ以上空白期間を空けたくない欲求の方が強かった。
目黒から自宅に帰って、まずビールを飲んだ。
*
研修を終えた後に同期たちはごっそりと消えていた。それでも、当時の先輩が言うところの「やる気のあるやつ」や「根性のあるやつ」は残っていて、実際には新人の数はそれらで十分なほど社の人事は多めに新卒を採っていたのだった。田村とは「若者の将来を食い潰している」と居酒屋で愚痴り合った。それでも、俺たちの間には辞めたやつらよりタフだという自負があって、そのために余計辞めにくくなっていた。
残業代の出ない残業が連日続いて、退社時間は深く、深く夜の底に向かっていた。俺と田村は偶然だろうが、広告を担当する同じ部署に回された。この業界は気の短い人間が多いのかどうか知らないが、とにかくクレームの対応をする毎日だった。顧客から受ける文句の中には新人の自分では手に余るものも当然あって、それの対処を上司に頼む時には当然ように詰められた。それで、広告にかけるコストを縮小するように連日叱咤され、そうするとまた名指しでクレームが入った。
ある朝目覚めると、とうに出勤時間を過ぎていた。上司に連絡もいれないまま、習慣に従って駅まできたところでいろいろなことがどうでもよく、虚しいことのように思えてきた。それで会社とは反対方向の電車に乗った。
郊外へ向かう電車には殆ど乗客はいなかった。席に座ってぼーっと外を眺めていると、田村から着信があった。
「どこにいるの? 早く連絡入れなよ」田村の声はくぐもっていて、トイレの個室かどこかで、口元を抑えて電話している彼女の姿が思い浮かんだ。
「田村、すまん」
「え?」
「俺、もう無理だわ」
沈黙が降りた。しばらく田村の鼻息を聞いていた。
「逃げるのかよ?」堰を切るように田村が言った。彼女が怒っているところを、俺は見たことがない。
「逃げるよ、俺は。田村、頑張れよ」
「頑張っていこうって言ったじゃん」
「無理だよ俺には。本能だよ」
「はあ?……」
彼女の呆れたような声が聞こえた所で、通話を切った。電車はどんどん反対方向へ進んでいた。良い天気だった。
ビールを二缶空けていた。付けっぱなしのテレビでは野生動物のドキュメンタリーが流れている。一匹のチーターが、ガゼルに襲いかかるところだ。俺の部屋の床にはペットボトルやアルコール飲料の缶が散乱している。実家周辺のゴミ収集日を、俺は把握していない。足の踏み場がない頃合いになると、俺は決然としてそれらを分別し始め、残さずゴミ袋に叩き込む。ゴミ袋は一階の台所に置いておけば母が適当に処理する。一人暮らしの大学生活の頃と比べると、俺は堕落している。実家に帰って、瞬間的な母の同情に甘えきっている。
……フリーターだもんなあ……。
ただし、明日からはきちんとした社会人に戻ることができる。母に疎まれる前に仕事が決まってよかった。
西側の窓際には、小学校の頃から使っている学習机がある。俺が小学校に上がって間もなくの頃、当時存命だった父親とホームセンターへ赴いて買った机だ。この部屋で張り切って部品を組み立てる、父の背中を今でも思い出すことがある。
今、その机の上は俺のノートパソコンとビールの空き缶でスペースが埋まっている。俺は閉じたパソコンの上に置いていたスマートフォンを取って、従姉妹に平戸さんのところで働くことになった旨をメッセージで伝えた。アドレス帳の従姉妹の名前の下には田村の名前がある。彼女からの最後のメッセージは「人間には本能なんてない」ということだった。ついでに田村にも就職口が見つかったことを伝えておいた。彼女はずっとあの会社で働いている。今頃は出向なんかもしているのだろうか。
*
事務所は神田から、東に徒歩で六分ほど歩いたオフィスビルの一角だった。扉を開けると、正面には窓があり、ビル裏手の小汚い道を見下ろすことができる。長机が中央に一つ、窓に平行に備えられており、これが大きく、右に伸びる事務所の空間を占領している。ただし、さらに奥、木目のパーテーションで仕切られたスペースがあり、そこには平戸さんのものと思われるデスクが窓の反対側に設置されている。その反対側には薄汚れた窓を覆うようにキャビネットがある。
事務所の長机の上には誰かのノートパソコンが置いてあり、そばの床にはリュックサックが転がっていた。俺がパーテーションの奥側に顔を出すと、キャビネットの書類を弄っていた女がこちらを振り向いた。
「あなたが宮本さん? 初めまして」と、はきはき喋った。身長は一七○の俺よりも頭一つ分くらい低く、丸顔で、大きな目が印象的だった。
女は城之内と名乗った。平戸さんは間もなくオフィスに戻ってくるらしい。その間、俺は彼女と簡単に自己紹介をしあった。専門学校でウェブプログラミングを習得したというところまでは頭に入ったのだが、そこから何故か彼女の好きな漫画に話が飛んで、なんだかよくわからない話を一方的に聞かされた。彼女はどうやら栗ようかんが好きらしい。どうでもいい。彼女の食べ物の好みを聞いているうちにオフィスの扉が開いて平戸さんが入ってきた。
持参した雇用契約に関する書類をいくつか渡して、それから何枚かの書類にサインした。俺は正式に社員ということになった。その間、城之内は黙々と自分のノートパソコンで何らかの作業をしており、時折パーテーションの奥のキャビネットに歩いていって書類を出したり入れたりしていた。
日が傾いた頃に一通りの業務の内容と実際に相手する契約書類の書き方は教わった。前の会社で書いていた書類に比べると常識的な分量で安心した。
俺は会計に使うソフトをインストールしながら、書類に記載されている数字をパソコンの表計算ソフトに入力する作業をしていた。経理の仕事の一部らしいが、まだ重要な作業を任されていない感じがした。向かいに座っていた城之内が開いていた彼女のパソコンを閉じて、手早く床に転がしていたリュックにしまい込んだ。
「美鈴さん、上がります!」
背中を反らしてパーティションから顔を出した平戸さんが「はあい」とそれに答えた。
「それじゃ、お疲れ様です」と、今度は俺に城之内が言った。
「お疲れ様です」
それで彼女は退勤した。ソフトのインストールの進捗を知らせる緑色のバーは遅々としていて、俺は作業を止めるに止められなかった。
間もなく、平戸さんがパーティションの向こう側からやってきた。
「終わりませんか?」
彼女が聞いているのは、無論インストールのことだろう。
「はい。中々進みません」
「回線がへばってるのかなー。ここのビル」
よく分からないがそういうこともあるのだろうか。
彼女はそれからデスクの向かいに回って、暗い窓の向こうを見下ろしながら右へ左へうろうろし始めた。俺からは部屋の明かりで反射した室内しか見えない。
「何か見えるんですか?」
「近所の居酒屋の灯りが見えますね」
ちんたらしていた緑のバーが少し伸びた。俺は入力を終えた書類にチェックを付けて、立ち上がってキャビネットに戻した。平戸さんはじっと窓の外を見ていた。きっと俺が居るからオフィスを締められないのだろう。席に戻って進捗を確認すると、インストールは終了していた。
その日のうちに平戸さんからオフィスの締め方を教わった。オフィスの灯りを消して、窓が開いていれば閉める。そして重要なのは、くれぐれも平戸さんのデスクにあるパソコンの電源は落とさないこと。それらを確認してから俺たちはオフィスを出て鍵を閉めた。七時三十分を回ったところだった。
「狭い事務所で驚いたでしょう」古いエレベーターの中で平戸さんが言った。
「いえ……」
独立したての個人のオフィスならこんなものだろう、と思う。
「城之内さんって、結構長いんでしょうか?」
「彼女もそんなに長くないです。去年の九月か、十月からだったかな」
平戸さんが独立したのは一昨年だったはずだ。
「じゃあ今までずっと一人で回してきたんですか」
「はい。はじめは在宅で仕事してたんです」
それから平戸さんは独立当初のことを話した。在宅での仕事に理想を持っていた彼女だったが、実際にやってみると家にいても気が休まらないし、思いのほかメールで済まない案件もあって、精神的にまいってしまったらしい。
神田の、ここらの町並みには寂れたオフィスビルが多くて、電飾で光る掠れた看板、むき出しになっている施設の配管、錆の浮いたシャッターが目につく。その建物の、時代遅れの磨りガラスからは今も光が漏れている。まだ底冷えする寒さで、足の体温が地面に発散しているような感覚がある。事務所では私服で良いと言われていた。だから今日はジーンズにセーター、その上に厚手のコートを着ている。シャカシャカ前を歩く平戸さんも俺と同じくらいラフな格好をしている。紺色のダウンコートの裾と、それに重なっているロングスカートが揺れている。
私服の俺と、私服の雇用主が駅までの道を歩く、この時間がこれから何度もあるのだろうか、と思う。変な感じだ。
改札の前で、平戸さんは振り返って、「ああ、」と言った。俺と彼女はここで帰路が分かれる。コートのポケットの中で、携帯が震えた。
「再来週あたり、ささやかですけど新人歓迎会を開こうと思っています」
「あっ歓迎会」
そういうのもあるのか。
「月曜か火曜あたりかな」
「平日なんですか」
「今は仕事も管理業務だけなので。あ、でも年度末近くは忙しいですね、取り敢えず」
そこで会話が途切れた。特に何を話す訳でもないが、お互いが話題を探す時間が少しの間流れた。しかし、人の流れ電車の到着が近づいているのが分かったので、中途半端な別れの挨拶をして、俺たちは別れた。
電車の中で携帯を開くと、田村からメッセージが届いていた。俺の再就職を祝う、ほぼ定型なメッセージの後に今週末にでも飲みに行かないかという誘いがあったので了承した。
*
田村と再会したのは地上の通りから地下に続く階段を行き、突き当たりの左にある狭い扉を開いたところにある居酒屋で、前の会社に居た頃、彼女とはよくここで飲んでいた。一度だけ、酔った勢いで、ここの居酒屋からそのまま近くのホテルへ入ったことがあった。それが彼女との関係ではピークだった。忙しさに揉まれて恋愛にかまけている余裕はなかった。それから俺たちは友人のような恋人のような関係をしばらく続けて、俺が仕事を辞めた。
久しぶりに会った彼女は酔っていた。カウンターに突っ伏して、両手で頭を擦るように揉んでいた。酔っている彼女の癖だった。
田村は俺を見るなり「おっせーんだよっ」と言って、座ったまま俺の脛を蹴った。俺は遅刻したのだった。
「連絡したろ」俺は脛を擦りながら、右隣に座った。カウンター席を挟んで向こうには店主の高野さんが立っている。彼の背後の棚には日本酒や洋酒が並べてある。右奥の方には狭い調理場がある。俺は彼にビールを注いでもらった。
席に座れば何かを話し始めるかと思っていたが、田村はむっつり黙ったままだった。俺にしても、何故彼女が俺を誘う気になったのか分からなかった。俺が注文した焼き魚をつまんでいる間、彼女は右手の中指と親指でこめかみを揉みながらも、日本酒をちびちび飲んでいた。
店の奥から男女二人の客が出てきて、入り口近くで会計を済ませて出て行った。二人が出て行く時に開いた扉から冷たい風が吹いてきた。客は俺と田村しかいなかった。
「良かったじゃん。再就職できて」
田村の方を向くと、腕を組んでグラスを睨んでいる。右耳には控えめなピアスが付いていて、首元まで覆っている灰色のセータと、男物みたいなシルエットのチノパンを履いていた。俺の記憶の彼女はいつもスーツを着ていた。面影が一致しなくて、どうも不自然な感じがした。
「ああ、……独立したてのウェブデザイン事務所ってどうかと思ったんだけど」
「成長性あるのかよ」口をグラスの中に入れて、ふっと息を吐いて笑った。
「成長性?」
「あるだろ。これから事務所が大きくなるーだとか、社員の市場価値が上がるーだとか」
俺は少し考えた。皆無だと思った。
「ないと思う」
田村は愉快そうに肩を揺らして笑った。それで、俺たちの間の空気が和らいだ気がした。
「なんで遅れたんだよ」
「寝てたんだよ。ちょっと仮眠とるつもりだったんだけど、昼に寝て、起きたら空が暗くなってるし、びっくりしたよ」
「なんだよ。のんびりしやがって……」
それから彼女に、以前の上司だった男の近況を聞いた。近況というのは、ようするに彼のハゲ具合だった。田村の話によれば十円ハゲが複数発生して、ドット柄のハゲ方をしているらしかった。彼女は滑稽な話をするのが好きで、その場に居ない人間のそういった様子をよく話題に挙げた。俺は、そういうところに彼女の少女らしい残酷な幼稚さを感じて、曖昧に苦笑するのみだったが、彼女はそれを許容と捉えていたようだった。
……苦手、という程でもないのだが……。
瑕疵のある彼女の人柄だった。ただ、彼女は気の利くところがあって、小さな親切には余念が無い、というよりは彼女の生来的な人の善さがそれに現れていると思った。
玉に瑕だった。
高野さんの店から出る頃には田村はひどく酔っていた。俺にしても深く酒を飲んだが、彼女ほどではない。階段を踏み外しそうだったので、後ろから彼女の背中を押して上がった。彼女のダウンジャケットは丸めて、俺が持っていた。
地上へ出ると冷や水みたいな冬の風が一気に肺に入った。それで催したのか、田村は傍の電柱によたつきながら走って駆け寄って、勢いよく胃の中身を吐いた。疎らな夜の通行人が怪訝な目で彼女を見ていた。二十三時。俺は近くにあった自動販売機で飲料水を買って、彼女に持って行ってやった。彼女は背中を向けて電柱にもたれている。右手の人差し指をセーターの襟に突っ込んで喉元を開けている。肩越しに俺を一度見て、吐瀉物に視線を落とした。後ろ手に飲料水を受け取った。
「気持ちわりー……飲み過ぎた」そう言って、口をゆすいだ。
終電の時刻が近づいていた。
「タバコ取って」
煙草?
「ダウンの内ポケットに入ってるから。取って」
俺は丸まっていたジャケットの中を開いて、ポケットを弄った。出てきたのは、ピースの、俺が吸っていたのとはニコチンが幾らか軽いものだった。
「吸い始めたのか」
「ちょっとだけね。おはようおやすみに一服くらいだわ」それで田村は煙草を咥えて火を付けた。ライターは何故か彼女のチノパンのポケットに入っていた。
「早く行こう」
田村は俺に構わず、俯いたまま唇で煙草を咥えて火を付けた。
「早くしろよー」言いながら、俺は田村のジャケットを彼女の背中にぐいぐい押しつけた。彼女は鬱陶しそうに俺を睨んで、舌打ちをした。煙草をくわえたままジャケットに腕を通した。煙草の灰が落ちて、彼女のセーターの胸元にひっついた。彼女はそれに気づいていないようだった。
「煙草くらいゆっくり吸わせろや」
「終電ちけーだろ。明日仕事は?」
「無いよ。日曜だよ」
俺は突然、猛烈に家の布団で眠りたくなった。眠気があったわけではない。そういうことが、習慣として付いていた。通りまで歩いて、流れているタクシーを停めようとした。田村が早足で追ってきた。
「タクシー高いって」
「いいから、乗って帰れよ。お前酔いすぎだよ」
「……うん……」
田村は俯いてフィルターの縁が赤くなるまで煙を口に含んだ。吐いた煙が右の耳元から流れていった。
「仕事辞めてー……」
田村は左足を上げて、靴底で火種を潰した。右足でバランスを取りながら跳ねて、九十度回転した。ジャケットの外側のポケットから、携帯灰皿を出して、吸い殻を入れる。
「ずーっとパン。飯」
田村は両足でぐるぐる回転し始めた。彼女はまだまだ酔っている。
「パン。パン。パン。パン。パン。パン……」
俺はタクシーを捕まえた。
*
平戸さんの事務所で働き初めて分かったことは、彼女がよく働くことだ。規則としての出勤時刻は九時半だが、事務所には九時には出勤していて、そのために俺と城之内はそれよりも早い時間から出勤している。出勤してからは、各々が朝のニュースのチェックや、昨晩から持ち越した仕事の続きをこなし始める。十時半頃になると平子さんがパーテーションの向こう側からやってきて、朝のミーティングが始まる。現在抱えている案件の進捗報告や、顧客の要望を基にしたデザインの打ち合わせを行う。
俺は事務所に勤めて、初めてウェブデザイナーという職業に二種類の分別があることを知った。一方は他人のデザイン案を実装するエンジニアに寄ったもので、他方はニーズを基にウェブデザイナー自らがデザインをする。平戸さんは後者であるが、事務所では実装のみの業務も請け負っている。こちらの業務では下請けが主であり、安価であるもののシーズン問わず安定した需要があるらしい。
平戸さんはどちらかと言えば、一から自分でデザインする仕事がやりたいらしい。
城之内は純粋なエンジニアだが、現場の経験が浅く、度々パソコンの前で首を傾げている様子が目に入った。そういう時、彼女は大抵パソコンを持って平子さんにアドバイスを求めに行く。俺はというと、会計事務以外にも、顧客の注文を取る際に調書すべきことを覚え始めた。都合が良いのか悪いのか分からないが、その週に入った新規の案件は二件ほどだったので、早速これらで実践した。ミーティングで俺が新規案件のデザインイメージを伝えて、平戸さんと城之内が詳細にモックアップの仕様を打ち合わせ始める。それからの彼女たちの会話は専門用語が飛び交っていて、俺には理解不能である。勉強しないといけないだろうな、と思う。
そして、仕事を終えた夜はいつも、体を持て余すような気分を抱いて酒を飲む。今のところ、仕事は楽だと思う。前職では総合職の俺だった。結局、先輩のサポートの範囲を出ないうちに退職したが、今は取引先の人間との接待に神経を擦らない気楽さがある。
歓迎会の会場は神田駅前の大衆居酒屋だった。店は城之内が選んだらしい。煉瓦敷きの歩道は車道との段差が無く、平日の夜を行く人々の多くが駅に流れていく。スマートフォンを手に前を歩いていた城之内は立ち止まって、傍にあった入り口を指差した。
「私の友達から、このお店が良いって聞いて」
「へーえ……」平戸さんは入り口に掛かった看板を見上げた。そして、わずかに眉を顰めた。看板には<焼き串本能寺>と毛筆体で記してある。
混雑時から外したからか、店内には空いたテーブルが目立つ。木を薄っぺらく切断したようなテーブルの合間を店員に案内されている途中、「変な名前っ」と平戸さんが俺に言って笑った。三名の予約だが、奥の小座敷に通されて、そこは畳敷きだった。
下座、上座に関係なく適当に座った。向かいには城之内と平戸さん、こちら側には俺一人となった。店員が水を運んでくるなり、メニューを見ていた城之内が次々と注文をし始めて、せっつかれるように俺たちはビールを注文した。
話題の中心になったのは俺、というよりは俺の出身大学とその後に務めた企業だった。
「すごい、宮本さんエリートじゃないですか」城之内が串焼きを頬張って、口を手で押さえながら言った。
実際、俺の学歴は世間一般で言われる高学歴に属しているが、俺自身としては高学歴の中の低学歴という感じで、城之内の褒め言葉は素直に受け取りにくかった。専門卒の城之内はあまり私大のヒエラルキーに明るくないのかも知れない。
「どうして前の仕事辞めちゃったんですか?」
この辺りの事情は先刻承知の平戸さんは黙って微笑んでいるのみだった。
「まあ、色々ちょっと」
就業規則に則った退職では無かった。田村に辞めると言って、社とは反対方向の電車に乗り込んだその日、俺は上司からの連絡を取って退職する旨を告げた。結果、懲戒解雇となり、その後の就職活動はますます厳しいものになった。
はっきり言って、後悔しかない退職だった。あの時に感じた直感というか、危機感のようなものを憎んでさえいた。就職が決まった時は先のことなんて何も分からなかった。親や親しい友人に、学歴に見合わない程の大企業に入ったことを誇らしげに語ったあの日の自分を思い出す日々だった。同世代の中ではトップクラスに位置する給料が恋しかった。何故、耐えきれなかったのかと思う。
俺は田村が羨ましかった。
「飲み物注文しましょうか。このお店、面白いお酒がある」と平戸さんが話題を変えた。城之内もそれに食いついて、変な名前の酒でちょっと場が盛り上がった。それで、それぞれ酒を注文した。
注文した大皿の料理が二、三空く頃に腹が一杯になってきて、酒ばかり飲むようになった。平戸さんはもう少し前から料理に手を付けず酒を飲むのみだったが、城之内は一人で料理を次々に注文して、会話の合間にもそれらを平らげ続けていた。
「そんなに食べて平気なの?」と、割と真剣な表情で平戸さんが言った。
それを聞いた城之内は眉間に皺を寄せて、頬張っていた食べ物を水で流し込んでから、「平気ですよ! このくらい……」と声を高くした。そして、派手な名前のカクテルを一口飲んで、「美鈴さんは逆に食べなすぎです」と言った。
「うーん」平戸さんは腹を擦った。満腹らしい。「宮本さんも、もう駄目?」
「俺もあとは酒しか入りませんね」
「うっそー、私まだまだ食べられますー」
嘘をついているようには見えなかった。城之内は本当に大食いらしい。
「でも、あんまり食べ過ぎると太っちゃうよ……」平戸さんが労るような声で言った。
城之内は、「だって私、美味しい物を食べるために働いているようなものなんですよ」と、臆面もなく言い切った。俺はちょっとだけ彼女を尊敬した。
店に入って二時を回った頃、一気に料理を平らげて血糖値が上がったのか、城之内はテーブルに突っ伏して眠ってしまった。俺も泥酔こそしなかったものの、酔い疲れてきた頃合いだった。
平子さんは横で寝てる城之内を見た。店に入ったときと顔色は変わっていないように見えた。案外、酒に強いのかもしれない。お互い、グラスにはまだ酒が残っていた。
「平子さんは、独立する前はどちらにいたんですか?」
「独立する前から東京ですよ。前の会社は、まあ中規模の制作会社かな。三年くらい勤めたんだけど、その前も二年、別の会社にいましたね」
平戸さんは器に少しだけ残っていた牛筋煮込みを箸で突いた。城之内が頼んだものだった。
「でも独立って勇気いるでしょう」
俺が聞くと、平戸さんは控えめに吹き出した。
「勇気? うーん、どうかな……。退職金ありませんから。先の見通しも無いまま齢を重ねるのって、怖いから」
俺はそういうもんなのか、と思った。
「前に比べると、今は何かと楽なことは多いです。もちろんすごく大変なこともありますけど。でも、私この仕事好きなんですよ」
「そうですか」と、俺はそっけなく返した。
平戸さんは牛すじを一欠片箸で摘まんで口に入れた。
「まだ独立が正しかったかどうかなんて分かりませんけどね」
「そうですか。でも仕事も順調に入ってるんじゃ無いですか」
俺を雇ったのがその証左だ。
「ありがたいことに、はい。前に勤めていた頃からのお客さんも幾らかいるし、多分これからもっと忙しくなりますよ」
その日は割り勘だった。歓迎会だが、参加者も少ないので気を遣った。平戸さんは出すと言ったが俺が突っぱねた。眠りから覚めた城之内は一足先に外へ出て、店の前をふらふら歩いていた。駅前は冬の夜でも空気の寒さに切れ味が無い。人間の呼吸の数だけ肺にのし掛かってくる重さがある。俺は二人に別れを告げて電車に乗った。
夜の十時を回って少ししたところだ。埼玉の実家までは、ほぼ一時間掛かる。早く都内で手頃な部屋を見つけなければいけない。
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