第14話

「ジナイーダ・ツァリアノフ……?」


 名乗られた名を無意識に反芻し、甘粕あまかすは驚愕に声を震わせた。

 九頭竜創設以来の類稀なる才気の持ち主。極寒の地を統べし当世のロシア皇帝が直々に見出した事から皇帝の嫡子とも称される才女が、観光名所に前振りなく現れたのだ。甘粕の困惑も止むを得ないというもの。

 甘粕の緊張が伝わったのか、もしくは別の要因か。少女は怜悧な眼差しを向け、首を傾げる。


「そう畏まることもない。それよりも質問があるんだ」

「あ、あぁ……俺に答えれる範囲なら、な」


 入学して一月で既に三年も混ざる大会での入賞記録を保持する少女が、いったい何を要求するのか。出会ったばかりの甘粕には検討もつかない。

 息を飲む音が殊更大きく聞こえたのは、彼の緊張から来る幻聴であろうか。


「ここの食堂がどこにあるか知らないだろうか、プリンが絶品と聞いたのだが」

「…………プリン?」

「そうだ、クリーミーな舌触りとカラメルの味わいが見事なハーモニーを生む……とネットでも書いてあった」


 何故であろうか、加速度的にジナイーダへ抱く緊張が薄れてきたのは。

 現在地がどこなのか判断もつかない、といった風勢に首を左右に振る様は評判から想像し得る第一印象から乖離し、ただの方向音痴な食いしん坊といった認識を与える。

 ちょっと待ってくれ、と手で制すると、甘粕は付近の地図を眺めて食堂への道程を確認。

 幸いにも、展望台から複雑な道程を必要とするものではなかった。指を差すだけで甘粕にも容易に道案内が行える。


「食堂なら、ここを真っすぐ行った先にあるエレベーターで二階まで降りてすぐだ。看板があるらしいからそれを目印にすればいい」

「なるほど、看板か……ありがとう。恩に着る」


 気が抜けた甘粕に、少女は白髪を揺らして頭を下げる。

 そして頭を上げてから踵を返すと、迷いなき足取りで指差した先を目指す。

 鼻歌の一つでも奏でそうな上機嫌さが背中越しでも伝わり、思わず深読みしていた甘粕は何だったのかと困惑を深めるばかり。

 辻斬り事件に際して、他校の生徒の内一部が国統領へと足を運び見回り隊を結成していたのは甘粕も把握している。だが、桜子の手でアバドが逮捕された段階で見回り隊は解散、生徒の多くが一定の滞在期間を経て退去しているはずなのだ。

 中には選抜戦観戦を理由に滞在している生徒もいるらしいが、わざわざ自領でも頂けるプリンを求めて足を運ぶ者がいるとは想定外というもの。

 もう少し、目をつけていてもいいかもしれない。

 甘粕の心中、奥底の昏い感情が上機嫌の少女へ声をかける。


「おい、ジナイーダ」


 自身を対象とした声に反応し、ジナイーダが振り返る。

 その顔に混ざる感情は、多量の疑問と早くプリンを口にしたいという一つまみの焦燥感。


「せっかくだから食堂まで案内してやるよ」

「本当かッ、イイ人なんだな。君は」

「まぁ、こっちも時間潰してるようなもんだし」

「そうか。実は方角には自信がなくてな……道案内をしてくれるとなると嬉しい」

「そいつは好都合」


 頭を掻き、薄っすらと笑みを浮かべる甘粕。

 人の感情に目敏くあらば、笑みの裏に潜む含みに感づいたのかもしれない。

 しかし、皇帝の嫡子とすら称せられる少女は甘粕の表面的な好意のみを純粋に受け取り、腹の奥で何を思っているのかなど意に介さない。

 故、少女はどこか硬い表情に笑みをつけて告げるのだ。


「そうだ、私のことは親しみを込めてジーナと呼んでくれ」



 ジーナと共に食堂へ向かう道中、特筆すべき会話はない。

 彼女が決して口上手な人種ではなかったことも一因であるし、甘粕もまた必要以上に口を開く類の人種でなかったことも一因であろう。

 ただ物静かな方向に整ったジーナの表情が、長い付き合いがあれば把握できる程度には笑みを綻ばせているのを、甘粕が不審がって覗いているだけの道程。

 通行人がいない幸福を誰も指摘することないまま、二人は終着点たる総合通信商社ビルの食堂へと到達する。


「ここが食堂、らしいな」

「そうか、ここまで案内してくれてありがとう」


 律儀に頭を下げるジーナを前に、甘粕は言うべきかと頭を掻き口を開閉した。

 食堂へ向かう道中、具体的にはエレベーターで二階を指定した辺りで疑問に抱いたことである。が、一年だとしても低身長側である彼女の喜色に水を差すのかと、実際に口に出すかを悩んでいた。

 しかし、食堂に到達してしまえば無視することもできない。

 意を決すると甘粕は口を開く。


「なぁ、こういう場所の食堂ってよ……その……」

「なんだ、まだ何かあるのか……そういえば名前を聞いてなかったな」


 言い淀む甘粕の気持ちを知らず、ジーナは今になって彼の名も知らぬ事実に直面する。


「いや、そういや名乗ってなかったけどよ……それよりも、こう……

 これってよ、社員食堂ってヤツじゃねぇのか?」

「社員食堂……もしかして社員が作ってるから休日にはやってないってことか?」


 ポジティブなのか、それとも単に甘粕の指摘が差す意味を把握していないのか。

 検討違いな発想を浮かべるジーナへ、正確な意味を突きつける。


「いや。そもそも社員じゃねぇと、ここで食えねぇんじゃ……?」

「……?」


 首を傾げるジーナには理解の及ばないことであろうが、社員食堂の主な商売相手は設置された企業に務める社員である。

 如何に一般向けへ開放しているエリアがあろうとも、読みづらく流動的な来客のために料理の準備を進めるのは無駄が多い。となれば、そのようなことはまず行わないか、特定のイベントに合わせた限定開放が鉄板であろう。

 甘粕がビルへ足を運んだのは桜子の対談インタビューのためであり、別の催しが併設されているという話は耳に運ばれていない。


「つまり、どういうことだ?」


 平坦に務めたジーナの言葉でこそあるが、脳裏に過った最悪を隠すことは叶わない。微かな震えた声音が、甘粕に多少の罪悪感を抱かせる。


「や、うん……認めたくないのは分かるけどよ」


 素直に直視することができず、甘粕は視線を逸らして口を開く。

 なんだか、期待に満ちたジーナの表情が漂白されるに従って、居た堪れなくなったのだ。


「そ、そんなことはないはずだ……ひ、ひとまず、店員に聞いてみるッ!」


 予期された最悪を振り切るように駆け出し、食堂の準備をしていた店員の元へと向かう。

 白エプロンを着用した男性はテーブルを磨くために曲げていた姿勢を正し、足音の方角へて視線を注ぐ。そこにいるのは枹と学ランを混成した服装の少女。

 国際統合の指定服ではない容姿に警戒の意志を見せるも、両手を合わせてすり合わせる姿を一目すれば危機感も薄れるというもの。


「ここのプリンが絶品と聞いたのだが、食べられないだろうか……?」

「プリン、かぁ……今日は一般開放してないからなぁ」

「そ、そんなッッッ……!」


 この世の終わり、世界最期の日、死者すらも罪業から逃れられぬ最後の審判。

 美貌が台無しとなる大口を開けて目を見開いた表情からは、ジーナが彼の日を迎えたかの如く。あまりの衝撃に思考が停止するも、ただ安寧と事実を受け入れる訳にもいかない。

 声を自然と荒げ、訴えを行う。


「そ、そこをなんとかッ! 必要ならジンに掛け合って何かをしてもいいからッ」

「ず、随分とうちのプリンを楽しみにしてたんだね……」

「あ、そうだッ。私はジナイーダ・ツァリアノフッ、困った時には名前を出せばなんとかなるって金がいっていた。なんとかなるかッ?」

「ジナイーダ……まさか、あの皇帝の嫡子かいッ?!」

「あぁ、そうだッ。私がそのジナイーダだッ!」


 彼女が自らの名を告げた途端、男性は顔色を一気に蒼白へ染め、驚愕に声を上擦らせた。

 皇帝の嫡子の名は九頭竜領を離れ、国統領にまで影響を及ぼすものなのか。遠目で一部始終を眺めていた甘粕が感心していると、ジーナは過剰なまでに首を縦に振り出す。


「そ、それでしたら話も変わります……プリンが御所望でしたねッ」

「あぁ、十……いや、一一個頂こう」

「一い……い、いえ、分かりました。少々お待ちくださいッ」


 相手の地位に理解が及んだためか、一人で食すには過剰な量の訴えにも僅かな動揺を示しこそすれ、否定の言葉を口にすることなく厨房へと足を運んだ。

 男の様子に喜色を浮かべたジーナは、甘粕の方へと振り向くと手招きをした。

 意味を理解できず──正確には理解したくない甘粕も、彼女が声を出してしまえば無視する訳にもいかない。


「スーツの男ッ、一緒にプリンを食べよう!」

「はぁ……」


 国際統合所属のトレーナーが九頭竜第三でも有数の実力者である皇帝の嫡子と共にプリンを食す。広告屋が実に好みそうな内容であるが、今更引いたところで次はそれをネタにするだけの話。

 意を決すると彼女の招きに応じて、食堂入口付近の机に腰を下した。

 片肘を立てた不機嫌な様子の中、ジーナは彼の機嫌に検討もつかないままに正面の椅子へと座る。もしくは、感情の機微を感じ取るには精神が未熟なのか。

 やがて男性がお盆の上に一一個ものプリンを持って足を運ぶ。


「プリン一一個です、ご注文は以上ですか」

「はい、ありがとう。店員さん」

「……」


 恭しく頭を下げた男性が顔を上げる一瞬、甘粕の喉元へ鋭利な眼差しを突きつけた。

 皇帝の嫡子にならともかく、特に実績の一つも積み重ねていない一トレーナーが知り合いの越権で無理を通しているように見えているのだろうか。

 否定しようにも状況証拠的にはそう見るのが自然な状態故に甘粕は反論を口にすることなく、視線を逸らして舌打ちを零すばかり。

 それでも職務にだけは忠実なのか、スプーンはジーナと甘粕でそれぞれ一つづつ揃えられている。

 食事というものは単に食材や料理だけではなく、食器などの視覚、脇を彩る要素も重要である。と断じる美食家もいる程に、人によっては偏執的に拘る者も存在する。

 甘粕の前に置かれプリンを乗せた硝子細工の食器は、そのようなオーダーにも応え得る素質を秘めている。ように彼は感じた。


「そういえば、まだそちらの名前を聞いていなかったな」

「あぁ。甘粕灰音はいね、国統のトレーナーだ」


 特段、隠す程のことでもない。

 甘粕は正面に置かれたプリンへスプーンを伸ばし、瑞々しい黄金色を放って波打つそれを掬おうとし──


「いただきますは?」

「ん。あぁ、忘れてたな。いただきますっと」

「手を合わせろ」

「……へいへい」


 食の作法にうるさいのか、ジーナに指摘されて甘粕はスプーンを一旦机に置く。

 結果的に奢ってもらっている立場のため、わざわざ反感を買うこともない。相手がそうしろというのなら、その手法に従うのが道理。

 手を合わせての挨拶は日本独自の代物とばかり思っていた甘粕であったが、認識を改める必要があるのだろう。


「いただきます」

「それでいい。いただきます」


 甘粕が感謝を口にして満足したのか、ジーナもまた手を合わせて感謝を言祝ぐ。

 改めてスプーンでプリンを掬う。

 僅かに波打つ一欠片を口にまで持っていき、咀嚼。


「……美味いな、これ」


 単純に甘い、というだけではなく濃厚な味わいが口内に広がり、舌の上でとろける。

 あくまで一報道機関の食堂の範疇を逸脱する程ではないものの、相応の手間をかけねばこうはならないだろう、という確信にも似た予感すらも甘粕は覚えた。

 再びスプーンを手に口へ運ぶ。

 再度広がる味わいに、自然と口角が緩んだ。


「本当に美味いな。そりゃ評判もいいわけだ。

 そっちはどうだ、ジーナ。満足か?」


 相手はどうなのかと、甘粕は正面に立つ少女へ声をかける。

 無心で手を動かしていたジーナが顔を上げると──


「んあ?」

「……聞くまでもねぇか」


 甘粕の視界に飛び込んできたのは、口の端々に黄金色の欠片やカラメルをつけた子供であった。視線を少し落とせば、三つもの空の食器と半壊しているプリンが一つ。

 口を拭いてやるかと思考を掠めたものの、今のペースを維持するのならばどうせすぐに汚れると判断。

 手を軽く振ると、食事の再開を促されたと判断したジーナは再度プリンを頬張る。

 甘粕も意識をプリンへ落とすが、懐から微弱な振動を察知。


「あぁ、もうそんな時間か」


 片手で端末を操作すると、そこにはインタビューが終わったこと。だから早急に桜子を引き取って欲しいとの旨が書かれた連絡が届いていた。

 料理を急いで食べるのは趣味ではないのだが、と嘆息を一つ。


「悪いジーナ。さっさと来いって連絡が入ったから、行くわ」

「そうか。ここまで連れてきてくれてありがとう。

 誰を見てるのか知らんが選抜戦、出るのだろう。応援するぞ」

「ハッ。有名人に応援されてる、って知ったら骸銘館も奮起するだろうな」


 席を立ち、互いに言葉を交わすと踵を返して甘粕は食堂を後にした。

 後に残されたのはジーナと多数の空食器、そして、これから空になる食器。

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