第3話

 悲鳴が木霊する。

 天井につり上げられた照明が視界を焼く。

 勝者を讃えるはずの実況が、舞台で激痛を訴える少年に心配の声音を送る。


『おぉっと、どうしたことだぁ?!

 甘粕あまかす選手、突然右足を抑えて叫び出したぞッ!』


 光刃交える戦場に、不躾な医療スタッフが大挙して押しつける。

 手には緊急用の医療器具と歩行に支障が生まれた甘粕を運ぶための担架を携えて。

 足音が鼓膜を震わすものの、甘粕に意識を注ぐ余裕はない。舞台の一角に鮮血を刻む血飛沫、その一助となっている右足から迸る激痛が彼の意識を尽く裂く。

 枯れんばかりに絶叫する甘粕が喉から血反吐を撒き散らして、慌てて医師が処置を行う。



 それは過去の追憶。

 過ぎ去った記憶の片隅。

 意識が潰え、現世に戻るまでの暫しに見せる、泡沫の夢。



「ハッ……!」


 悪夢の再現に目を見開き、視界に広がるのは薄暗い天井。

 身体を包む暖かい感触は布団であろうか。ベッドに寝かしつけられている。

 荒れる息のまま乱暴に身体を起こし、額に滴る汗を吹き飛ばして布団に染みをつけた。上着は脱ぎ去られ、裸に包帯を巻かれた状態。

 頭痛に頭を抑えるものの、寝起きで思考が回らないという事情も重なって、原因が思い出せない。


「あ、起きたの?」


 声のした左手へ首を回せば、薄暗く見慣れない部屋に呆れた表情を浮かべて一人の少女が立っていた。

 ラフなシャツに身に纏う少女のすぐ側には窓が窺え、外の光景は見慣れないながらも高層ビルと室内の明かりが零れる。夜の帳が降りたことは、誰の目にも明らか。

 目が光に慣れないがために確信が持てないものの、聞き覚えのある声から推測して甘粕は名を呼ぶ。


骸銘館がいめいかん……? どうしたんだ、それにここは……?」

「はぁ……記憶喪失の真似なら私の名前も消してよ」


 状況への理解が及んでいないことに呆れたのか、桜子は嘆息して頭に手を当てる。

 床には無造作に置かれた甘粕の上着と、壁に立てかけられた彼の得物。微かに刻まれた床の痕跡は、部屋まで持ち運ぶのに苦労した証か。

 甘粕がベッドから身体を起こしてスーツを簡単に羽織ると、桜子が見慣れない部屋に辿り着くまでの経緯を説明し始めた。右足に走る違和感は、意図的に無視する。


「裏・祝刀祭で威勢よく乱入してきたアンタと私で戦ってたのよ。最初はね……

 最初はいい感じだと思ってたのに、すぐアンタが右足を抑えて倒れたかと思えば、ぶった切っても意識が戻らないわ医療スタッフが飛び出してくるわで大騒ぎだったのよ」

「あぁ……そういえばそうだったか」

「それで医療室にぶち込んだままって訳にもいかないし、私が借りてるマンションの部屋にまで引きずってやったのよ」


 彼女に指摘されて、漸く甘粕の脳裏にも記憶が甦る。

 激しく動き回る桜子に対抗して、当初は右足を庇って不動の姿勢で迎撃のスタイルを選択した甘粕。ところが、様子見から意を決して突撃した彼女と僅か数度光刃を重ねただけで負荷に右足が悲鳴を上げ、膝から崩れ落ちる重大な隙を晒してしまったのだ。

 戦いに於いて、つけ入る隙を見逃す馬鹿はいない。

 薄桃に煌めく軽粒子の刃が、甘粕の胴体を抉り勝利をもぎ取り、そのまま意識をも刈り取ったのだ。


「……なっさけな。久々に血が滾ったと思えばこれかよ」

「本当。私の熱も返してってものよ」


 天を仰ぎ見て額に手を当てる甘粕を睨みつけ、桜子もまた眉間に皺を寄せる。

 彼女としても少なからず期待していたのだろう、甘粕へ向けられる桜の瞳には失望の色が透けていた。


「ってか、なんでモザイク街に来てたの。トレーナーってそんなに暇なの?」

「お前のようなサボりはあそこに訪れるもんなんだよ。どうせ学校でつまんない授業を受けるよりも実戦を重ねた方がいい、って思ったんだろ」

「ッ……どうして、それを」


 図星だったのか、甘粕の指摘を受けた桜子は息を呑む。


「何せ俺も昔はそうだった。

 学校なんぞで何が学べる、実際にコイツを振るった方が万倍効率がいい。ってな」


 立てかけられた重斬刀を片手で持ち上げ、わざとらしく桜子へ突きつける。無論、重粒子を纏わせはせず、ただ各所に螺子が露出した技術的に未熟な刀身のまま。

 向けられた刃へ視線を落とし、桜子は首を鳴らす。


「ちょっとだけ、私の考えとは違う。

 私は名を世界に刻みたい……一分一秒、一刹那でも早く」

「だから非公式でもいいから、とにかく実戦……嫌、実績を求めたと?」

「ご名答。当然、こんな方針を許すトレーナーはいないから話は全部断るつもり……尤も、今更勧誘に来る物好きもいないだろうけど」


 既に桜子をスカウトする、という思惑は読まれているのか。

 溜息を吐く。甘粕はその全部とやらの一つに加わるつもりはない。

 しかして、彼女の方針を全肯定する訳にもいかない。地盤すら固まらない形無しで刻める名など、程度が知れているのだから。


「とはいえ、このままじゃ祝刀祭に於ける著名な大会に参加することすら叶わない。原因が出席日数ってのは、流石に勘弁でしょ」

「仮にそっちを準拠して、突然事故にあったらどうするの?」

「……は?」


 予想外の切り返しに、甘粕は間抜けな声を零した。

 久遠にて主流の移動手段はモノレールと地下鉄の二種類。自動車は趣味で運用するのが八割で、バスの類も一部の大型ドームを利用した祝刀祭以外では用いられない。

 道路に出る機会も少ない上、余程の暴走運転でもなければ、現役高校生が乗用車如きとの正面衝突で命を絶たれる訳がない。骸銘館の心配など、杞憂にも当たらない。


「なんだ、光刃振ってチャンバラしてる奴が車にビビるってのか」

「たとえよ。でも人間なんてそんなもの、いつ死ぬなんて誰にも予想はつかない。

 ……だから私は、今すぐにでも名を残したい」

「でも今のやり方じゃ絶対不可能だ。断言できる」


 地盤が伴ってなければ勝利を収めることは叶わず、敗北すれば当然傷が重なる。

 過ぎた疲労と治す暇のない怪我の連鎖は、時として痛覚の遮断や才人のみが開ける扉という形で恩恵をもたらす。しかしそれは心身ともに多大な過負荷を与え、やがて限界へと至ったどちらかが致命的な欠落を引き起こす。

 足りないものを無茶と強行軍で補うやり方では、何れ代償を自らの将来で払うこととなるのだ。

 例えば、甘粕の右足のように。


「才能溢れるものの結果を残せず引退しました、じゃあ長くて数週間の掠り傷……自伝を書いても誰も買わねぇよ」

「だったらどうしろと?」

「せめて選別戦。一月近くでいいから俺の力を借りてくれないか。

 お前を倒した司馬国近を打倒させれば、信頼の証にはなるよな」

「……」


 大仰にわざとらしく、芝居がかった所作で両腕を広げる。

 彼女の打倒すべき目標がすぐ側にいたことが幸いした。

 たかだか一月を捧げるだけで、かつて倒すことの叶わなかった相手を超えられるのならば交換条件として悪くない。結果さえ残すことができれば、桜子も容易く掌を返すだろう。

 何も知らぬが故に甘粕はそう、早合点する。


「断る」


 短く端的に、否定の言葉を紡ぐ桜子。

 そこに他意を挟み込むことは不可能に思えた。



「随分と苦戦しているようですわね、甘粕も彼も」


 国際統合高等学校の出資陣営、ユニオン領が商業区。

 久遠を一望できる高層ビルの屋上、月光の仄かな明かりだけが頭上を照らす時分に一人の少女──マリステラが立っていた。

 金糸の髪を風にたなびかせ、世界を見下ろす眼差しは残酷なまでに空虚を映す。

 事実として彼女に見える世界は灰色。色彩障害ではなく、全ての光景が心の持ち様一つで色褪せてしまう。

 全てを見通す、未来視によって。


「あぁの様子では、桜子ちゃんも全く満足していないみたいでぇすし、しっかたないと思いますよぉ。マリステラ様ぁ?」

「……イラつくんだよ、レオ。その口調止めろ」


 マリステラの背後に浮かび上がる影が二つ。

 一つは軽薄。仮にも上司へ示す態度とは思えぬ口調は漆黒に包んだ服装とも乖離する。正規の所属を覆い隠す漆黒の衣に四肢の末端に巻きつけた鎖、雑に巻いた頭巾からは明るい金髪が漏れ出ていた。

 一つは重厚。軽薄な影への苦言こそあれど、それ以外に身じろぎ一つなく音を殺し尽くした様は漆黒に包んだ服装こそが相応しい。軽薄と似た服装に、差異があるとすればマリステラや軽薄とは比べようもない屈強なる体躯と髪が零れぬことない頭巾。

 二つの影は共通した主に頭を垂れ、マリステラは振り返ることすら言葉を紡ぐ。


「別に私は気にしませんよ、銀次ぎんじ。レオンハルトには普段から特殊な任務を与えていますから、会話でくらい息抜きが必要です。

 それよりも、彼の様子はどうですか」

「……今手掛けているので九件目。釘の支援が入ってから毎夜事に及んでいます」


 どうせ口にするまでもなく知っているでしょう、とは思いつつも口に出すのは事実の報告。

 マリステラの未来視は絶対的。神の御業が如き能力は、大筋に於いては一度たりとも外れた試しがない。多少の誤差や彼女自身が恣意的に情報を絞ったがための変異こそあれど、致命的な齟齬は起こり得ない。

 だからこそ、今行っている報告もまた、マリステラは知っている。


「やはりそうなりますか。彼はどうにも臆病者の気がありますから、安全の確保さえしてあげればその刃は驚く程に軽くなる。

 引き続きのサポート、お願いしますね」

「いい仕事でぇすねぇ、銀次ぃ。アタシもぉ、誰かをぶっ殺す系の仕事をやってみたぁいですよぉ」

「……これが本当に久遠の平和に繋がるんだな」


 低く、重々しい銀次の言葉は主たるマリステラに対して。

 自らの行為に疑問を挟む余地はない、正当な理由がなければ刃が鈍るなどという精神論を並べる愚者でもない。むしろ、血を浴び肉を削ぐ日々にこそ、銀次個人の快楽はある。

 しかし、何も彼は法よりも個人的快楽を優先する狂人ではない。


「えぇ。国統領で暴れる辻斬り犯を支援することこそ、私の悲願に繋がります。そして生徒会副会長であるこのマリステラ・クラフト・エーカーは、誓ってユニオンに不利益を被る予定はありません。

 そして久遠の平和は、全ての前提条件」


 言い、マリステラは影達へと振り返る。

 漆黒の衣を通り抜ける風が、金糸を揺らしてマリステラのシルエットを歪める。

 天使の羽にも、名状し難き存在にも。


「あの程度の辻斬り如きに敗れる三流は、誰かに手を下されるまでもなく脱落します。

 資源が一定である以上は盆栽の形を整えるように、人々の剪定にも明確な未来図が必要……ロベルタは実にいい言葉を遺してくれています。

 そして未来図を明確化させるための、未来視。

 私の言いたいことは分かりましたか、水島みずしま銀次。疑いは、晴れましたか」

「……あぁ」


 首肯し、銀次は改めて音を殺す。

 眼下で繰り広げられる惨劇の音を鼓膜に届けるためには、自らの鼓動すらも喧し過ぎる。


「ハァ……ハァ……ハァ……!」


 マリステラ達が見下ろす惨劇──即ち、辻斬り。

 土色の制服を赤く染め、左肩から右脇にかけてを袈裟に裂く。月夜にすら目を張る重症の一つがそれというだけで、下半身を中心として全身に擦過傷を生々しく刻んでいる。

 荒れる息で睥睨するは異形の剣士。

 三度笠を目深に被り、悠々と羽織るは純白の死に装束。僅かに覗ける細腕は、不安定に刀身を揺らめかせた二振りの光刃を力強く握っている。

 月光を背負って立つ肢体は、侍の時代を描いた書物の一片から現れ出でたが如く。


「何が、狙いだ……!」

「屍の玉座」


 異形が駆け出し、足下に転がり二つに裂かれた校章を踏み抜く。

 問い質した少年は後退して距離を取るものの、右手を肩に置いた姿勢ではたかが知れる。傷口から零れた血を光刃で払い、異形は地面を蹴るごとに加速。

 風を裂く凶刃は二振り。


「ッ……!!!」


 深く、深く。

 異形が手ごたえを覚えた直後、少年の肉体が破裂したように血潮を噴き出す。

 天より降り注ぐ鮮血を三度笠で受け止め、異形は電源の切れた機械のように静止。剣道に於ける残心を彷彿とさせる所作であるものの、異形に骸を思いやる気概は絶無。

 故、側に降り立つ影二つが代理として降り立つ。


「はいはぁい。今日もお勤めごっ苦労様ぁ」

「……」


 軽薄の影──レオンハルトが軽口を繰り返して距離を詰め、漸く異形は薄桃の刃を霧散させる。

 レオンハルトは異形に頭を下げると、重厚の影──銀次と共に犠牲となった生徒を持ち上げ、運搬を開始。二人がかりであらば、大した時間もかからぬ内に病院まで辿り着くだろう。

 続き、影達と同様に音もなく着地して見せるは金糸の少女、マリステラ。


「お疲れ様です、アバドさん」

「副会長か」


 背後に降り立った少女へ視線を向けるも目深く被った三度笠に遮られ、アバドの表情は窺えない。しかして早くも次の獲物を希求する肉食獣めいた目の輝きだけは、網目の隙間からでもマリステラの肌をひりつかせる。

 いつ抜刀されてもおかしくない気配の中、副会長は意に介することなく会話を続行。


「調子はどうですか。何か不都合があれば、遠慮なく私に申して下さい」

「何も……精々、カメラの隠蔽に不安が残る程度」

「監視カメラですか。そこはご心配なく。定期検査の日付はこちらで完璧に把握していますし、不具合という名目で回線の修理も頻出させています」


 今もほら、と顔を向けた先には、レンズが明後日の方角を向く監視カメラ。アームの補助が機能していないことこそ、メンテナンスを行っている何よりの証左。

 調べても調べても現れない不具合に修理業者の人間は不審がっている可能性こそあれども、末端の人間が何か口を挟んだ所で無意味。上層部に直接提言しているマリステラを止めることなど叶わない。

 そも、彼女が虚偽の申請をしていると気づける者すら存在しないだろう。


「ならば良し」

「不安が解消出来たのでしたら、そろそろ帰宅しますか。ほら、一目につかない場所へ誘導しますよ」


 差し出した声は、さながら共に下校すると告げる級友であるように。



 翌日。陽が昇り、カーテンで遮られた桜子の私室にも朝日が差し込む。

 尤も、彼女は目を覚ました甘粕を半ば追い出す形で帰宅させた後も眠らず、カフェイン錠を摂取しながら徹夜で起きていたのだが。


「もうそんな時間か」


 掠れた声で日差しの先、カーテンから零れた光へ視線を向ける。

 眠ろう、という気は起きなかった。

 即座に蹴ったものの、彼の提案そのものは充分魅力的であった。少なくとも、夜通しで自身の判断を振り返る程度には。

 それでも現在のやり口を維持できなくことと天秤にかければ、後者の方へ傾きはする。だから断った。

 時計の針が脳内で時を刻む。

 そろそろモザイク街も活気づく時間帯。桜子は慣れた手つきでロンゲラップの部品を組み込み、自主的な調整を終える。


「アイツの刃、重かったな」


 掌に視線を落とし、甘粕と打ち合った数度の体験を振り返る。

 僅か数回、刃を重ねたに過ぎなかったが、それでも手から全身に伝わる痺れは間違いなく本物であった。かつて経験のなかった感覚は、裏・祝刀祭に参加した連中とは比較にならない。

 頭を振って意識を切り替え、正面が赤く染まった無地のシャツに短パンという女子力の欠片もない寝巻から国統の学生服へと着替える。

 内心、不登校を繰り返すのならば制服指定のないクオンハイスクールにした方が良かったのではないか、と当時の選択に疑問を持つことがある。他の地区と比較して治安が著しく劣悪なクオン領の話が耳へ届く度に、認識を改める羽目になるが。


「面倒だな、やっぱり……っと」


 首元のネクタイを緩く締め、身支度を整えると借りた当時から風景の変わらぬ部屋を出て、玄関へと足を進める。

 今日はどのような相手と刃を交えるか、もしくは銃口越しに殺意を注がれるか。想像するだけで口端が上向く。そのような夢想の元、取っ手を捻ると──


「おはよう、骸銘館」

「…………は?」


 玄関先。共同スペースから覗ける青空をバックに、濡れ烏のスーツを纏った男が立っていた。

 親しげに手を上げ、まるでそうするのが当然だというように。


「おいおい。学校に行くんだったら、せめて鞄くらいは持っていけよ。形だけでも勉強します、ってポーズを取るのは大事だぞ?」

「……」


 何故いるのか、と問いかけるつもりはない。

 邪魔だ、と口にするまでもない。

 相手が当然のように立っているのだから、自分も当然のように脇をすり抜けて無視するだけの話。


「どこに行く気だ?」

「その質問に答える義理ある?」

「ない。が、答えてくれると個人的に嬉しい」

「アンタが勝手にぶっ倒れた場所」


 苛立ち気味に答えると、肩に置かれた手を振り払って桜子は足を進める。

 

「駄目だ、せめて放課後の楽しみに取っとけ」

「放課後……?」


 極自然に甘粕が紡いだ言葉。思わず桜子も素通りしてしまう程に自然であった単語を反芻し、彼女は足を止めた。

 それを好機と解釈したのか、甘粕はわざとらしく掌を叩く。


「そう、放課後だ。

 流石に毎日行くのはどうかと思うが、放課後に行くのであらば週四日くらいなら気にもしないぞ。実戦そのものはとても大事だと、俺も思ってるからな」

「……なるほど。可能な限り譲歩すれば、私と専属契約を結べるという訳ね」

「そりゃ、そうだが……なんか妙な勘違いしてない?」


 合点がいった。

 新人である甘粕がトレーナー契約を結べなければ、今後の立場に響くのは想像に難くない。何せ副会長が強引に呼び寄せたと専らの噂の彼だ、可及的速やかな成果を要求される。

 そこで態度に著しい問題を抱えた桜子。

 最低限学校にさえ顔を出していれば、トレーナーとしての管理不行き届きを追及されることはない。むしろ碌に学校へ通うことすらなかった彼女が形だけでも机につけば、それだけで一定の指導力が認められるというもの。

 即ち、自身に目をつけたのは──


「得点稼ぎでしょ」

「得点? テストが近いのか?」

「とぼけないで。素行不良な少女が通学する程度にマトモになった、そういう筋書きなんでしょ」

「いや全く」

「口ではなんとでも言える」


 糠に釘、暖簾に腕押し。

 自分の中で結論づけてから会話する癖でもあるのか。桜子が語っている理屈は、甘粕にとって言われて始めて気づいた話である。

 尤も彼女が口にしたように、それを証明する手段は存在しないのだが。

 頭を掻き、嘆息。

 慣れないなりに熱烈なアピールをしていたつもりなのだが、それでも彼女は気づかないらしい。

 ならばもう、口にするしかないのだろう。


「……惚れたんだよ、お前の才能に」

「何言ってんの?」

「その桜の瞳に宿した狂気。生き急いでんのかってくらい前のめりな戦い。観客席にまで伝わる殺意……

 それが、俺みたいにつまらん理由で潰れたら嫌だって。それだけの簡単な理由だ。

 お前が言う通り、口では何とでも言えるがな」

「……」


 頭を掻きながら、柄にもないことをしている自覚を持って口を開く。視線を逸らさないだけ、努力を講じたつもりではあるが。

 そのかいもあってか、桜子は間抜けに口を開いて佇んでいた。話を無視して過ぎ去っても良かったというのに。

 沈黙が一秒、二秒、三秒。


「……クッ」


 四秒。

 堪え切れなくなった桜子が腹を抱えて割れんばかりに破顔。


「アッハハハハ、ハハハッ。アハハ……何それ、バッカじゃないの、ハハッ……!」

「だから言いたくなかったんだよ……」


 甘粕の言葉を気にも留めず、歯を剥き出しにした大笑は続く。朝方のアパートという、こと音に関しては神経質なまでに配慮すべき共同空間で、彼女は自身に抱かれる印象など知らんとばかりに年相応の笑いを零した。

 爆竹の如き笑いが収まるのに、どれだけの時間が経過しただろうか。

 目元に浮かんだ涙を拭い、嘆く甘粕を上目遣いで見つめる。


「大の大人が、私に惚れた……ねぇ」

「才能に、だよ。勘違いすんな」

「どっちでもいいよ、そんなこと。

 ……そこまで言わせたなら、少しだけ話に乗って上げる」


 話に乗る。

 桜子が開いた言葉に、甘粕は頬がつり上がるのを止められない。


「それは、契約の話だよな?」

「当然。勿論、あの司馬君を選抜戦で倒せるようにする、って前提条件の下だけど」

「オーケー。交渉成立だ」


 甘粕が手を差し出せば、遅れて桜子も手を掴む。

 男性の硬い手と少女の柔らかく、しかしタコを幾度も潰した歪な手。相反する二つが握手を交わし、専属契約が成された。

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