第四章

第28話 大好きなお兄ちゃん【莉奈視点】

 莉奈が見たその夢はお兄ちゃんと出会ってから一年にも満たない五歳くらいの時の思い出だった。


「あやと!」


 ママに連れられて日本に来たばかりの莉奈は日本の常識を知らないし、日本語も全然喋れなかった。だから、お兄ちゃんの事はいつも名前で呼んでいた。


「あやと! Zusammenspielen, bitte!(一緒に遊ぼ!)」

「ああ、いいよ。一緒にゲームしよう」


 不思議な事にお互いの言葉が分からなくてもお兄ちゃんとはある程度の意思疎通が出来ていた。ジェスチャーとか、顔の表情を見れば相手の気持ちはだいたいそれで分かったから。


 でも、それはあくまでもお兄ちゃんが特別なだけであって、莉奈が幼稚園に通い始めると他人とのコミュニケーションにおいて言葉の壁が嫌でも目立ち始めた。


「グーテンモールゲン。おはようございます」

「おはよーございましゅ?」

「違うよ。おはようございます」


 ぶっちゃけた話だけど、習うより慣れろって言葉があるくらいだし、読み書きして日本語を勉強するよりもお兄ちゃんと話して言葉を覚える方が断然に効率が良かった。


「この字が平仮名のあ、い、う、え、お」

「むぅ〜。schwierig!(難しい!)」

「シュフィー……いや、今何て言った?」


 お兄ちゃんの方も莉奈の言ってるドイツ語を聞き取るのに苦戦している感じで、莉奈と勉強する時はいつも困った様な難しい顔をしていた。


 でも日本に来て一年が経つ頃には流石に莉奈も環境に慣れてきたみたい。小学校に通う頃にはある程度の日本語は喋れる様になっていた。


「綾人、おはよう」


 そんな風に朝の挨拶をしていたある日、お兄ちゃんは莉奈にこう言った。


「莉奈、今度から俺の事は『お兄ちゃん』って呼んでくれ」


 優しく、頭を撫でて。お兄ちゃんは莉奈にそうお願いを言った。


「……なんで?」

「日本だと歳上の兄弟のこと『Bruder』は名前で呼ぶんじゃなくて『お兄ちゃん』って呼ぶのが普通なんだ」

「……綾人は莉奈のBruderじゃないよ?」

「確かに俺は本当のお兄ちゃんじゃない。でもな家族になったからには俺は莉奈のお兄ちゃんにならないと駄目なんだ」

「んー。よく分かんないけど、綾人のことはお兄ちゃんって呼べばいいの?」

「ああ、そうだよ。莉奈は偉いな」

「うん。お兄ちゃん大好き!」

「大好きまでは言わなくていいから。まぁ、嬉しいけど」


 そのお兄ちゃん呼びが原因でこの時期のお兄ちゃんは同級生から変な目で見られる様になった。だけど、お兄ちゃんは今でもお兄ちゃん呼びを止めろとは言わない。


 莉奈が本当の妹じゃないから、莉奈が原因で迷惑をかけることだってあったはずだ。


 それでもお兄ちゃんは莉奈のお兄ちゃんを続けている。もう十年以上も。


 ほら、お兄ちゃんって頑固でクソ真面目だから。世間体とかモラルとか変に気にするんだよね。


 お兄ちゃん。知らないかもしれないけど、義理の妹は結婚できるんだからね?


 莉奈はお兄ちゃんのこと最初からお兄ちゃんとして見てなかったけど。


 お兄ちゃんに対しての好きは恋心なんだって。割と早い段階からその気持ちは自覚していた。


 だから兄妹としての関係ではなく恋人としての関係を求めていた。ずっと、ずっと昔から。


 だから莉奈はお兄ちゃんに気持ちを伝えたいからあの時にキスをしたんだ。誤解だけはしてほしくなかったから。


 例えその気持ちがお兄ちゃんを困らせるだけだと分かっていても。


 今は生意気なガキだって思われても、きっといつかはって思ってる。


 夢がさめて。現実に戻れば周りは真っ暗だった。


 学校から帰って来て仮眠をしていたら時間は七時をとっくに過ぎていた。夜になってもお兄ちゃんは家に帰ってこなかった。


「もー、お兄ちゃん遅い!」


 どーせまたあの人と隠れてイチャイチャしてるんだろーけど。


 そんなにあの乳袋がいいのかっ。ああいう男ウケの良い清楚系エロかわ女子は絶対に何かの闇とか地雷抱えてるから。ソースはティーン雑誌、間違いないから。


 あーもー。怒るとめっちゃお腹空くんだけど!


 グーグー。莉奈のお腹も不機嫌な鳴き声をあげている。今日はお昼も食べてないから莉奈のお腹は腹ペコのペコリーヌくらいペコペコに空いていた。


「……お腹すいた」


 冷蔵庫の中は朝の時点でほぼ空っぽだし、お兄ちゃんがご飯の材料買ってこないとマジで食べる物が『ちくわ』くらいしか残ってない。


「……お兄ちゃん。年頃の男子がちくわ買うのは何か渋いというかチョイスがビミョーに変だと莉奈は思うんだ」


 腹ペコに負けて、ちくわを一本だけ食べると、生臭い匂いが口一杯に広がって──それが我慢出来なくて食べた物をトイレに吐き出してしまった。


「うっ、うぇぇぇ……」


 悪い予感が見事に的中。生臭いだけで味のしない食べ物がこんなに飲み込むのを拒絶するとは思わなかった。そもそも、ちくわを食べるのも随分と久しぶりな気がする。


「……やっぱり味がしない。なんで? また莉奈の舌おかしくなっちゃったの?」


 気になって。不安になって。確認するために莉奈はあの人が置いていったお菓子の袋を手当たり次第に開けて片っ端からお菓子を口に放り込んでいった。


 チョコレート、油っぽい粘土。グミ、何かブヨブヨした歯応えのあるスライム。クッキー、食べられる砂。ポテチ、ガリガリ噛める薄い板。


 どれもこれも味がしない。


「……うっ、ゲボッ。ゴホッ」


 味がしないのが凄く気持ち悪くて、莉奈は食べた物全部をまたトイレに吐き出した。


「……そっか、莉奈の舌。やっぱりまだ治ってなかったんだ」


 一昨日は朝ご飯も夜ご飯もちゃんと味がしたのに。てっきり治ったんだと思ってた。


 昨日のハンバーグもほとんど味がしなかったし怪しいとは思ってたんだけど。やっぱりか。


 莉奈の舌がおかしくなったのは割と最近になってからの事だった。まぁ、最近って言っても一ヶ月くらい前からなんだけど。


 お医者さんの診断では舌と脳には異常が無いって言ってたけど。


 本当にストレス性の味覚障害なら、あの家を出て来た時点で治ってもいいじゃんか。

 あの家を出て莉奈はストレスから解放されたんだから。


 食事にまでストレス感じさせないでよ。やっとお兄ちゃんと一緒の生活が送れるのに。


 でも、不思議だよね。お兄ちゃんの作った料理は、お兄ちゃんの作った食べ物だけはちゃんと味がするんだよね。


 しかもめちゃくちゃ美味しいし。やっぱり気持ちの問題なのかな?


 理由は分からないけど、美味しいご飯を食べるにはお兄ちゃんに作ってもらうしかないみたい。


 もー、お兄ちゃん早く帰って来てよ。昨日より遅いじゃんか!


 食べ掛けのお菓子を全部ゴミ箱に放り込んでテーブルを綺麗に片付けていると莉奈のスマホがピーピー鳴き始めた。


「お兄ちゃんだ! ……なんだ、おとーさんか」


 さすがに着信拒否は解除したけど。どうせ家に戻ってこいって話だろうから電話に出なくてもいっか。


 パーパー。ピーピー。プープー。


 いや、着信長くない? 何の嫌がらせ?


「もしもーし。ただいま莉奈は電話に出れません。ピーという……留守番のモノマネめんどい。てゆーことで切りまーす」

「いや、やるなら最後までやれよ」


 おとーさんのツッコミを無視して電話を切ろうとしたら「待って切らないで」と泣かれたので莉奈は仕方なーくおとーさんの話を聞いてあげた。莉奈ってばマジえらい。


「おとーさんなに? 莉奈は家に帰りたくないんだけど?」


 莉奈がそう言うとおとーさんは意外なことを言った。


「ああ、分かってるよ。その事は一旦置いといてだ。まずは“家族全員”で話し合いをしよう」

「……全員ってことは今度はお兄ちゃんも一緒なんだよね?」

「ああ、そうだ。ところで、綾人の方が電話に出ないんだけど何か知らないか?」

「むしろこっちが知りたいよ。お兄ちゃんまだ家に帰ってきてないんだけど!?」

「ふむ。まぁ、綾人もいい歳だから夜遊びの一つや二つくらいするんだろうな。夜遊びだけに夜に駆ける、なんつってな」

「駄目人間のおとーさんとお兄ちゃんを一緒にしないでよ。あとそのギャグクソ寒いから」

「クソ寒い!?」

「あとウザい、キモい、ついでに割と臭い」

「莉奈がおとーさんのこと嫌いになった……マジ病み。ぴえん通り越してぱおん」

「オッサンのパリピ語は痛いだけだから」

「…………っ」


 電話の向こうで泣きながら崩れ落ちるおとーさん。いや、見えないから知らんけど。


「なぁ、莉奈」

「……今度はなに?」

「このタイミングで言うのも何だけど、かーさんが家に帰ってこないんだ」

「……え?」


 莉奈はおとーさんが何を言っているのかを自分の頭でちゃんと理解できるまで何度も聞き返した。


「帰ってこないって……いつから?」

「お前が家を出て次の日からだな」

「それってつまり、行方不明ってこと?」

「まだ三日だから何とも言えないな。けど、かーさんの職場に問い合わせした感じだと仕事には行っていないみたいだ」

「もしかして、ママが一人でドイツに帰ったとか?」

「その可能性がゼロとは言えない。けど、連絡が取れないだけで日本国内にいる可能性もあるし、警察に相談するのは心当たりを全て探してからだと思ってな。莉奈は何か知らないか?」

「…………」


 心当たり。おとーさんにそう訊かれたから、それがパッと頭の中に思い浮かんだ。


「……メール。そういえば、ママからメールが届いてた」

「おい、それって──」


 プツリ。

 おとーさんの電話を切って、莉奈はずっと無視していたママからのメールを開いた。


 そのメールは全てドイツ語で書かれていた。たぶんだけど、莉奈以外の人には読まれたくないんだと思う。

 そのメールの内容を日本語に翻訳するとこんな感じになる。


『私はもう疲れました。私は自分の人生を生きたい。だから、莉奈の大好きな人に全ての責任を押し付けるつもりです。もしもその時に会えるなら、そこで最後の話をしましょう』


 その大好きな人がお兄ちゃんだとすぐに分かったから。莉奈は情報も当てもない状態で家を飛び出して、ひたすらに夜の道を駆けて行った。

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