第14話 女の喧嘩(キャットファイト)は胃にくるのでマジでやめて下さいお願いします

 製パンの授業がある時は三限分の時間割が調理実習の枠で埋まってしまう。そのことが少しだけ不満でありどうしても時間がもったいないと感じてしまう。


 他の調理実習では流石に三時間も掛からないのだが……製パンだけは何かと時間がかかってしまう。


 時間がかかる主な理由は製パンの工程において必要不可欠な『発酵』という要素があるからだ。


 製パンの大まかな工程をざっくり説明するとパンの主材料である強力粉や水、塩などをこねてグルテンを引き出すミキシング、生地中にあるイースト菌と糖分を反応させパンにボリュームを出す一次発酵、パンの中にあるグルテンの動きを落ち着かせ成形しやすくするベンチタイム、成形で出来たパンの締まりを緩めパン特有の風味を出す二次発酵、そしてパンをオーブンで焼く工程の焼成。


 パン一つ作るだけでもこれだけの作業工程がある。

 専門学校で製パンの知識を学ぶまではパンを二回も発酵させるなんて知らなかったけど。これがやってみるとめちゃくちゃ時間を浪費してしまう。


 一時発酵だけでもおおよそ一時間。二次発酵と焼成を入れればゆうに二時間を越えてしまう。

 パン屋の仕事が早朝からなのも主にこの発酵時間が原因と言われている。


「よーし今日はみんなでフランスの代表的な菓子パン『ブリオッシュ』を作っていくぞ。みんな作業台に集合!」


 今日の製パンの担当講師は体格ガタイの良い男性教諭の熊谷くまがい先生だった。


「いやー、熊ニキ先生は相変わらず元気っすねー」

「おう、もちろんだとも。今日も元気にレッツベーカリー!」


 小虎のイジりにマッスルポーズで応える熊ニキ先生こと熊谷先生。相変わらず熱血というかむさ苦しいというか。


「いいか諸君っ、パン作りに必要なのは体力と根性だ。つまり筋肉によるフィジカルが大切なんだ。これぞまさに力こそパワー!」

「おお、何言ってるかちょっと分かんないですけど熊ニキ先生の熱意だけは伝わってきました」


 ムードメーカーの小虎だけは平然としているけど俺を含むクラスメイトの大半は熊谷先生のむさ苦しさに圧倒されていた。


 なんていうか製パンの講師って体育会系のノリの人多いんだよなぁ。個人的にはそういうのあまり必要無いと思うんだけど。


「熊谷先生、そろそろ授業を始めて下さい」

「おう、そうだったな。すまない鶴巻つるまき先生」


 眼鏡をかけた女性の助教師、鶴巻先生の冷静なツッコミでむさ苦しかった実習室内の温度は体感で三度くらい下がった気がする。


 基本的に調理実習では担当講師と補助役アシスタントである助教師の二人一組で授業を進めていく。


 助教師はいわゆる教師の見習で学校の卒業生がこの役職に就くことが多い。例に漏れず鶴巻先生も数年前まではここの生徒の一人だったらしい。


「よーし最初にミキシングの工程から始めていくぞ。油脂類であるバター以外の材料をボウルに入れて薄い皮膜ができるまで良く捏ねていくぞ。しゃあ、レッツベーカリー!」


 作業台でパン生地を捏ねる熊谷先生の腕はボディビルダーも顔負けのムキムキな豪腕だった。


「よーし諸君、製パンの基礎知識のおさらいだ。何故バターなどの油脂類は後に入れるのか、分かるお友達はいないかな?」


 熊谷先生の質問にクラスメイトの一人が「体操のお兄さんかよ」と先生を小馬鹿にする様にせせら笑った。


 そのツッコミは的確だがわざわざ笑う事では無いと思うんだが。


「はーい。バターを先に入れると捏ねてる時にグルテンの結合が油脂で阻害されるからです」


 空気の読めるムードメーカー小虎が率先して先生の質問に答えた。そのリーダーシップ、マジで助かる。


「その通りだ。小虎くんには特別に大変よくできましたの花丸をあげよう」

「あざーす」


 先生と小虎のやり取りに和むクラスメイトもいればその一方で不快に思い顔をしかめるクラスメイトもいる。


「アホくさ。幼稚園じゃねーぞ」


 誰に言ったか分からないその悪態は少なくとも俺を含めたクラスメイトの数人には聞こえているだろう。


 空気、悪いな。いや、ガラが悪いのか。

 やっぱり彼女が休んでいた日の方が平和だった。


「では各班に分かれて作業を始めてくれ。ミキシングの工程が終わったら発酵時間の合間にブリオッシュの起源とか逸話とか、良い感じに説明していくからな……鶴巻先生が」

「わ、私に振らないで下さいっ」


 予想外のキラーパスに珍しくあわてる鶴巻先生。普段の冷静沈着な鉄仮面がアワアワしているのを見るとそのギャップに少しばかり萌えそうになる。


「子川くんと猿渡くんの男子が捏ねる作業をメインでお願いね。女子は成形の時に頑張ってもらうから」


 各班に分かれた直後で小虎はいつもの仕切りで班メンバーに指示を出す。


 さて、今日は平和に終われるといいのだが──


「はぁ? そんなダリィことしてらんねーだろ。捏ねる作業は人数増やせばいいだろ馬鹿か?」


 突然の悪態。

 俺の悪い予感が的中してしまった。案の定というべきか、小虎の仕切りに不満の声を上げる人物がいた。


「うわっ、神楽かぐらちゃんこっわ。何も風花ちゃんに噛み付くことないじゃんかさ」

「ああ? カス猿は黙ってろよウゼェな」

「カス猿は酷いなー。せめて猿渡って呼んでよ。あーでもでも俺も風花ちゃんがパン生地をコネコネしてるところ見たいなーなんて」


 軽薄な言動の絵に描いたようなチャラ男の猿渡は邪な視線を小虎の胸に向けた。


「死ねやエロ猿」


 小虎と猿渡に噛み付いた彼女、戌井神楽いぬいかぐらのキャラクター性を一言で言い表すなら『やさぐれた狂犬』が妥当だろう。


 どう見ても地毛じゃない金髪と耳のピアスが校則違反をこれでもかと主張している。


 目付きも鋭い、口も悪い、なんなら生活態度も悪い。遅刻無断欠席当たり前の三拍子そろった生粋の不良。協調性ゼロでチームの輪を乱す不穏分子。


 あの龍ヶ花先生ですら手を焼いている問題児それが戌井神楽その人である。


「そっかー。ごめんね戌井さん。捏ねる人数増えると生地の捏ねにムラが出来ると思ったんだ」


 あくまでも平穏で冷静に小虎は戌井さんに自分の考えを話す。


「それにパン捏ねるのって結構な力仕事じゃない? わたしや戌井さんはともかく兎山さんや日辻さんには酷な作業かなって思ったんだ」

「はぁ? たかがパン生地を捏ねるのに何を特別扱いしてんだよ。そういうのは自分の『旦那』だけにしとけよ」


 ピクリと小虎の眉が不快そうに動いた。あっ、やばいこれはキレる寸前だ。


「……旦那って誰のことかな?」

「そこで突っ立ってるムッツリだよ。普段から二人でイチャイチャしやがって。見てるこっちは胸焼けするつーの。なぁ?」


 俺と小虎以外の班メンバーに同意を求める戌井さん。皆それぞれに反応に困っている様子だった。


「イチャイチャなんて、別にわたしは……」


 予想外の不意打ちに流石の小虎も困惑した様子だった。


「してるだろ。普段から楽しそうに乳繰り合ってんじゃねーか。そういうのは他所でやれよ」

「別にわたしと子川くんはそういう関係じゃ……」


 言い掛けて小虎は口をつぐんだ。それを良い事に戌井さんはさらに追い討ちをかける。


「それにあの教師イジリも寒いんだよ。お前はこの学校で漫才でも学びに来たのかよ?」

「そんなんじゃ……」

「リーダー面するのは勝手だけど迷惑してる奴もいるってこと忘れんなよ」

「…………っ」


 珍しく劣勢を強いられている小虎の瞳はわずかに揺れていた。


 キュッと握っている小さな拳は小刻みに震えていて、必死に我慢しているのが嫌でも分かる。


 流石にもう見てられなかった。


「……戌井さん。確かに小虎は人をイジるのが度を越している時もあるけど、それはあくまでも場の空気を和ませるためで決して悪気があるわけじゃないんだ」


 俺にしては珍しく女子相手でも普通に話せた。正直言って自分でも驚いている。


「ああん? なんだよムッツリ。嫁がイジメられてるからってしゃしゃり出てくんな。外野は黙ってろよ」


 心底不快そうな顔で俺を睨む戌井さん。その荒んだ目が妙なほど昔の小虎と重なって見えた。


「イジメてる自覚があるなら戌井さんのやってる事は小学生よりも幼稚だよ。それとも何かな、もしかして自分のことを『必要悪』とか思ってる痛い人だったりする? 戌井さんはとてもそんな人には見えないけど」

「ああん? テメェ喧嘩売ってんのか?」

「勝負の見えてる喧嘩なんて売っても面白くないよ」

「上等だよ。買ってやるよその安い挑発」


 戌井さんは力任せに俺の胸倉を掴んだ。そのあたりでようやく揉め事に気付いた熊谷先生と鶴巻先生が喧嘩の仲裁に入って来た。


 その後も場の空気は悪いままでその上に発酵時間の関係もあり授業中は無駄に重い沈黙が長続きした。


 その拷問めいた重い空気のせいか胃がキリキリと痛んで仕方がなかったので試食のブリオッシュは全て小虎にプレゼントした。

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