【短編】デリヘルの私を呼んだのは幼馴染兼元カレだった。

じゃけのそん

第1話

 連日に続く大雨。

 窓に打ち付ける雨音で目を覚ませば、時計はもうお昼の十二時を回っていた。


 今日は土曜日。普通なら休日でこのまましばらくゴロゴロしていたいところだけど、あいにくと私——椿原愛紗つばきはらあいさにとっての今日はただの平日だった。


 軽くシャワーを浴びて、歯を磨いて、最低限の化粧をして家を出る。着ているのはスーツでもなければ、仕事に必須な作業服でもない。


 この間駅中のセールで揃えただけの私服。思い入れも何もない、ただ着るためだけに買ったこの服で、私はいつも通り事務所を目指した。


 事務所に着いたらまたシャワーを浴びる。そして落ちてしまった化粧を今度は丁寧にし直して、マネージャーに仕事が入っていないかどうかを確認しに行く。


 いつもならお昼の利用者は夜に比べて圧倒的に少ないけれど、今日は休日ということもあって、早速宅配の依頼が一件入っていた。


 場所はここから電車で三十分くらい。

 年齢も私と同じ23歳と、うちの利用者にしては随分と若い。その他希望の欄が『特に無し』なことから、「ああ、誰でもいいからしたい人なんだ」なんて、勝手な妄想を広げていた。






「えっ……」






 でも私が平静だったのはそこまでだった。


「“ハシバ トモキ”って、まさかだよね……」


 ふと名前の欄を見た瞬間、私は胸の辺りに確かな引っ掛かりを覚えた。


 カタカナで書かれたその名前は、一見何の変哲も無いただの顧客情報。


 普段はあまり関心を持たないそれも、今回だけは聞き覚えがある上に、なぜか私の頭の中では『羽柴智樹』という漢字の名前に即時変換されていた。


「嘘よ……そんなはず……」


 頭の中で復唱すればするほど、確かな動揺が私の心を乱した。なぜなら羽柴智樹は私の幼馴染——そして半年前に別れたばかりの元カレだったから。


 軽く流してしまった詳細をもう一度よく確認してみる。すると住所は彼が以前住んでいた場所とは全く別のところだった。


 でも年齢と携帯番号は彼が持つそれと完全に一致していた。


「智樹……なの……?」


 住所は違う。

 でも年齢と携帯番号は同じ。


 この詳細を見る限りだとほぼ間違いなく智樹なんだろうけど……でも彼が休日のお昼にデリヘルを呼ぶような人だとは到底思えなかった。


 もしかしたら彼と名前が同じだけの別人かもしれない。携帯の番号を変えて、元のものを新しい誰かが使っているだけなのかもしれない。


 一度はそう解釈することにして、でも妙な緊張を覚えながら私は事務所を出た。





 * * *





「愛紗……お前どうして……」


 案の定玄関から顔を出したのは、私の幼馴染兼元カレである智樹だった。


 半年前から家でよく着ていたそのグレーの部屋着。女の子が来るというのに、飾り気ない格好をしているのは、やっぱり智樹なんだな……なんて思ったけど。


 顔をよく見ると、髭はしっかりと剃られてるみたいだった。


 それに寝癖のないその頭と、ほのかに香るシャンプーの香りから、今さっきシャワーを浴びたことがわかる。


(なんだ。結構ノリノリじゃん)


 彼を前にして懐かしさを覚えるくらいには、心の余裕も復活していた。


 でも相手が私だと知らなかったであろう智樹は、依然として驚きが顕著に、大きく開かれたその口に表れていた。


「お前何してんだよ」


「何って何」


「春から銀行に勤めたんじゃねぇのかよ」


 そして彼の驚きは、やがて軽蔑の眼差しに変わる。


「なんでデリヘル嬢なんてやってんだよ」


「これは」


 ここへくる前から当然わかっていたことだけど、いざそれを智樹の口から言われると返事に困った。


 智樹と喧嘩した半年前のあの日から、私たちは会うどころか連絡すらまともに交わしていない。


 だから私は最近の智樹を知らないし、今の私が智樹の目にどう映っているのか……何となく想像はついても、正直深く考えたくはなかった。


 じゃあなんで私はここに来たんだろう。

 相手が智樹とわかってて、どうしてこの仕事を引き受けちゃったんだろう。


 私自身も自分の気持ちがよくわからない。

 まだ未練があるから、好きだから仕事を理由にして会いに来たのか。それとも全部割り切って、一人のお客さんのために自分の職務を全うしようとしているのか。


 とにかく私は半年ぶりに智樹に再会した。幼馴染としてではなく、元カノとしてでもなく——彼に依頼を受けた”デリヘル嬢”として。






 追い返される覚悟はとっくに出来ていた。

 もちろん嫌われる覚悟も……。



 でも——。



「まあいい。とりあえず中入れ」


 智樹は私を追い返そうとはしなかった。

 それどころか。



「紅茶でいいか」



「それ飲んだらシャワー浴びてこい」



「風邪引いたら困るだろ」



 雨に濡れた私を気遣って温かい紅茶を淹れてくれたり、着替えの服を用意してくれたり、ましてやシャワーまで使っていいと言ってくれた。


 本当は凄く気まずいはずなのに。私の顔なんか見たくもないはずなのに。智樹はそれを一切態度に出すことはなく、ただ淡々と私のためにと動いてくれていた。


「脱いだ服はその辺のハンガーに掛けとけよ」


「ごめん。気遣ってもらっちゃって」


「別にいい」


 こうして智樹が優しくしてくれることに、理由がないのはわかっていた。きっとこの人は相手が見知らぬデリヘル嬢でも、同じように親切をするのだと思う。



 でもね。



 久しぶりに見た智樹の優しい一面。

 渡された白いシャツから感じる智樹の匂い。


 彼を感じられるものを前にすると、何だか付き合っていた頃を思い出して、幸せだった、心から笑えていたあの時のことを思い出して、少しだけ心が虚しい。



 だから——。



「ほんとに何もしなくていいの?」


 気づけば私は自らそんなことを聞いてしまっていた。


 断られるのはわかっていたけど……でも、智樹に少しでも求められたいという想いが、堕ちた私を突き動かしていた。


「お金を貰っておいて何もしないのは、私の良心に反するんだけど」


「んな事知らねぇよ。お前の尺度で勝手に物事決めつけようとするな」


「今なら幼馴染のよしみで入れるのもありにするよ?」


「バッカ。んなもん誰も望んじゃいねぇよ」


「そうなんだ」


 でもやっぱり智樹は私を求めようとはしなかった。

 どうやら元カノのことは、何が何でも抱きたくないみたい。


「お前だって嫌だろ、俺に抱かれるのは」


「別に嫌とかはないけど。前は普通にしてたし」


「前してたから嫌なんだろうが」


 智樹の言い分はもちろんわかる。実際私はこの仕事を始めて二週間になるけど、その間本番を求められて了承したことは一度もなかったから。


 マネージャーも新人の私を気遣って、なるべくライトな仕事を斡旋してくれているし、もし本番をするのだとしたら、私だって好きな人がいいに決まってる。



 でもね。



 私にとっての好きな人は、昔から智樹しかいないの。元カレだからとか、喧嘩別れしたからとか、そんな些細な理由であなたに抱いてもらえることを拒むはずがない。


 たった一回でもいい。もうこの先、私のことを思い出さなくてもいい。だから今だけは……今この時だけは、私のことだけを見ていてほしい。







 胸の内でそう願っていたけど。

 やっぱり智樹は私を求めようとはしなかった。


「それで、銀行の方はどうなんだよ」


 やがて話題は必然的に仕事のことに。


「四月から勤める予定だっただろ。ちゃんと続けられてんのか」


 私がしつこくし過ぎたからか、智樹は目に見えて気が立っているようだった。ほんとは触れて欲しくない話題だったけど、ここに来たからには正直に話すしかない。


「辞めたよ」


「はぁっ⁉︎」


 私は至って平静に、何食わぬ顔でそう言った。


「辞めた⁉︎ 銀行を⁉︎」


「うん」


 でもそれは智樹まで同じとはいかなかった。私が銀行をやめてデリヘル一本で稼いでいることについて、見過ごせない何かがあるみたいだ。


「お前……それ両親には話したのかよ」


「まだ何も」


「はぁ……お前なぁ、ちょっとは親の身にもなってみろよ」


「そんなの……関係ないし」


「関係なくねぇよ。自分の可愛い娘がたった二ヶ月で仕事を辞めて、こんな低俗な方法で金を稼いでいるんだぞ? もしその事実を知ったらどんな顔すると思ってんだ」


 智樹が言っていることは正しかった。もちろん私だってお父さんやお母さんを悲しませるようなことはしなくない。


 ほんとなら普通に働いて、普通ぐらいの給料をもらって、そして普通に結婚して……そんな普通の中にある幸せな生活を求めていたはずだった。





 半年前の智樹と喧嘩をしたあの日。付き合って三年の記念日を間近に控えたあの雪の日から、私の生活は色味の無い、ただ繰り返すだけの日常になってしまった。


 多分あの時の私は、何もかもを楽観視し過ぎていたんだと思う。


 今は少し距離を置いているだけ、またいつか智樹の側に居れる日が必ず来るって、心のどこかで思っていた。



 でも——。



 現実はそうじゃなかった。


 いつになっても智樹に連絡する覚悟ができず、やがて私は銀行に就職。初めこそ新しい環境に前向きだった私だけど、入社して一月足らずでいじめの対象になった。


 理由は私の指導係だった青木さんを巡っての恋争。ただ後輩として親しくしていただけの私を周りの女性スタッフたちは誹謗し、まるで親の仇かのような扱いをした。


 まだまともに仕事も覚えられていない、頼れる人がいないその状況で、私が唯一逃げ込めた先は、指導係である青木さんの元だけだった。


 事情を話し、それでも私の力になってくれていた青木さんのおかげで、周りの目が痛くても、嫌われているとわかっていても、何とか仕事を続けることができていた。






 でもそれは、一時の幻想に過ぎなかった。






 青木さんに相談を聞いてもらうようになってから、数週間が経った頃。やがて青木さんは私が相談をする度に、その見返りを要求するようになった。


 内容は主に肉体的なこと。相談を聞くという名目で私を食事に誘い、アルコールが苦手な私にお酒を強要しては、無理やりホテルに連れ込もうとしてきた。


 当然私は断った。


 まだ智樹との恋に未練を残しているその状況で、他の男性と何かしようとはこれっぽっちも思わなかったから。


 でも私一人の力では、どうすることもできなかった。



 ——自分の置かれてる立場よく考えた方がいいよ。



 多分青木さんは、全てをわかった上で私の相談に乗っていた。


 周りの女性社員から好意を向けられていると知っていて、新人の私に親しくすることで、私の立場がなくなることもわかってた上で。


 無理やりホテルに連れ込まれたあの日。青木さんが私に吐いた一言を今でも鮮明に覚えている。最初から味方なんて誰もいなかったんだって、私はあの時人生に絶望したんだ。



 それから私は事あるごとに男性社員に声をかけられるようになった。


 理由はだいたいわかっていた。きっと青木さんが『相談に乗ればあの子はやらせてくれる』とでも周りの人たちに噂したのだろう。



 結局私は二ヶ月も経たずに仕事を辞めた。

 あれだけ求めていた普通の生活を、私は自らの手で捨ててしまったんだ。







「……しらな……せに」


「えっ」


「何も知らないくせに!!」


 智樹は何も悪くない。何も悪くないけど……この半年間私がどんな思いで過ごして来たのか、どれだけ辛い思いをしたのか、智樹にだけはそれを誤解して欲しくなかった。


「智樹は何も知らないくせに! 知ったような口聞かないでよ!」


「知ったような口って……俺は別に」


「だってそうでしょ⁉︎ 半年間も離れ離れになって、その間は私はずっと智樹とのことを引きずってたのに……智樹は連絡すらくれなかったじゃない!」


 違う……そんなこと言いたいんじゃない。

 ただ私はあなたに側にいて欲しかっただけで。


「それにお母さんたちが悲しむのは、私だってわかってるよ! でも生きていくためにはこうするしかなかったの! お金を稼がないといけなかったの!」


「だからお前は銀行に就職したんじゃないのか?」


「ええそうよ!」


 そう、私は普通に暮らしたかった。

 普通に暮らせるだけのお金があればよかった。


 でもね。

 そうはいかなかったんだよ。


 いじめられて、信頼していた先輩にも裏切られて、あの職場に私の居場所はもうどこにもなくて、銀行を辞めた後も結局私には普通の生活なんてなかった。


 ただでさえ給料の低かったあの職場。たった二ヶ月働いたぐらいじゃ、まとまった貯金なんてあるはずもない。


 就職するにあたって引っ越した八万円のアパートも、今となっては私を追い込むだけの負担にしかなり得ない。引っ越しも考えたけど、そんなお金はどこにもない。


 ここまで私を育ててくれたお父さんとお母さんに少しでも恩返しがしたい。そう思って始めた実家への毎月2万円の振込も、仕事を辞めた後は続けられる自信がなかった。


 でもそれを辞めてしまったら、それこそお父さんやお母さんに余計な心配をかけてしまうから、迷惑をかけてしまうから……だから私は何も言わず今でも振込を続けてる。


 毎月の家賃、生活費、携帯代、実家への振込。それに加えて来月から奨学金の引き落としまで始まる私には、もう普通のアルバイトじゃダメだった。


「ほんとはもっと早く誰かに慰めて欲しかった。話を聞いて欲しかった。でも私の隣にはもう誰もいない。智樹だって……」


 やがて私は長年維持してきた黒髪を捨て、夜の街に飛び出した。


 銀行を辞めてから間も無く、仕方なくで就いたキャバクラの仕事。給料だけで選んだその仕事も、私のお酒嫌いと内気な性格が仇となって、始めて一週間でクビになった。


 今までたくさんの人に守られて、支えられて生きてきた私にとって、普通じゃない世界で生きることは凄く難しいことだった。


 それでもお金を稼がないといけなかったから、だから私は自分を押し殺すことに決めた。


 生きていく上で今の自分に必要のないプライドを全て捨てて、辿り着いた先にあったのが今のデリヘルの仕事だった。







「なんでもっと早く言ってくれなかったんだ……」


「そんなの言えるわけない。だって私たちはもう……恋人じゃないから」


「俺はお前の幼馴染だろ?」


 どれだけ智樹が優しくても、私のことを幼馴染として思ってくれていても、恋人だった私たちの関係は、半年前のあの日に途絶えてしまったの。


「辛い時は俺を頼ればいいだろ。何でお前は一人で背負い込もうとするんだ?」


 私が相談できなかったのはきっと……智樹にだけは嫌われたくなかったから。ここまで堕ちてしまった自分の姿を、智樹にだけは見せたくなかったから。


「我慢しなくていいんだ愛紗。辛い時は誰かに泣きついてもいいんだよ」


「私だって……ほんとはそうしたかったよ」


「じゃあなんで——」





 嫌われたくない。失望されたくない。


 一度は覚悟したはずのなのに、諦めたはずなのに、そう思ってしまうのはきっと……。





「だって智樹のことが好きだから!」


「えっ……?」


 胸の奥底に押し殺していたはずの想いが涙と共に溢れ出した。


「今俺のこと好きって……」


「そうだよ! 智樹のことが大好きだから、連絡したら色々思い出してもっと辛くなるから……だから智樹には何も言わなかったんだよ!」


 ほんとはこんなこと言うつもりじゃなかった。でも思わず溢れてしまった私の本音に、あれほど堅実だった智樹の表情は困惑の色に染まった。


「まだ俺を好きでいてくれたのか……?」


「当たり前でしょ! 初恋をそんな簡単に忘れられるわけない!」


 智樹が驚くのも当然のことだと思う。だって私は好きだと言いながら、この半年間一度も連絡することはなかったんだから。


「どうやったら智樹とやり直せるかな、許してもらえるかなって、必死になって考えてた。でも連絡する勇気はなくて、諦めるしかないって思った時に偶然智樹に再会して……私、ほんとは凄く嬉しかったんだよ?」


 この仕事を始めた時点で、私は全てを諦めてたはずだった。人として堕ちてしまった私が、昔みたいに智樹の側にはいられないと思ったから。



 でも——。



「温かい紅茶を淹れてもらって、濡れた私を気遣って服まで貸してくれてさ。ああー、やっぱり智樹は優しいな、大好きだなって、そう思ったの」


 こんな私でも、智樹は変わらずに接してくれた。

 俺の幼馴染だと言ってくれた。


 それが嬉しくて、初めて誰かに寄り添ってもらえた気がして、失っていたはずの何かを取り戻したような……凄く温かい気持ちになれたんだ。






 でもそれはいけない感情だから。

 もう終わってしまった初恋だから。


「だから智樹、今日はありがとね。智樹のおかげで少し気が楽になった」


 私は今できる精一杯の笑顔でそう言った。これ以上大好きな人を困らせないためにも、最後くらい笑ってる姿を見せておきたかった。


「それじゃ服も大丈夫そうだし、そろそろお暇するね」


 今日を最後にもう智樹とは会えないかもしれない。そう思うと胸が張り裂けそうなほど辛かったけど……でも今の智樹に私の存在は邪魔なだけ。


 智樹にはもっと幸せになってほしい。

 私のことを忘れちゃうくらい幸せに。



 じゃあね智樹——。







 * * *







「……居ればいいだろ」


「えっ?」


「このままうちに居ればいいだろ」


 覚悟を決めたはずの私の心に智樹の声が刺さる。


「それってどういうこと……?」


「仕事辞めて金に困ってるからデリヘルなんてやってんだろ? 親を頼れる状況でもないだろうし、どうせ一人暮らしするならこのままうちに住んじまえばいいじゃねぇか」


 帰り支度を済ませた私に智樹は言った。

 お金に困ってるならここに居ればいい。今更お前と一緒に住んだとしても、これっぽっちも迷惑にはならないんだと。


 意外だった。

 何て返事をしていいのかわからなかった。


 だって私たちは恋人じゃなくて、ただの幼馴染のはずだから。私は今でも智樹のことを忘れられないけど、でも智樹は違うはずだから。


 この半年間一回も連絡をくれることはなくて、ましてや今日みたいにデリヘルを家に呼んじゃうくらいには、私とのことを吹っ切れているはずだから。




 なんで今更になって、私に優しくしてくれるの——⁉︎


 


 当然私はそう思った。でもその疑問を一振りで切り裂いてしまうくらい、智樹から出た答えはとても単純で——そして私が求めていた言葉だった。




「それに、俺も愛紗のことが大好きなんだよ」

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