【紀行文】嵯峨野紀行

紀瀬川 沙

本文

 春三月とはいえ、それはむかしむかし遥か彼方のローマ国の皇帝が定めた暦の上でのこと。こんな極東の、名ばかりの黄金郷じゃ当地の自然と合致するはずもない。まぁ皇帝はそんな天涯地角の遠い国からはるばる遣わされた天正遣欧使節一行とも引見しているから、グローバリズムのご時世、まったくの無関係というわけでもないだろう。無下にはできまい。さて日本においてグレゴリオ暦が採用されたのは文明が開化してからだという。もとい、明治になってからだという。押し付け甚だしいがわたしには抵抗するすべもない。ただ、梅雨も明けないうちに七夕七夕とやかましくして曇る夜空を仰ぎ、彦星と織姫の一年ぶりの燃えるような交合をのぞこうとする人々をシニカルに笑うことしかできない。いずれも愚かだ。

 ローマ国で天文博士か誰かの努力で新しい暦ができたのと同じ頃。こちらでは天下布武というたいそう恐ろしいスローガンを掲げまずは仏を斬り殺し、ついにはこちらの皇帝をもおびやかすに至った尾張のウツケが、目を血走らせてやりたい放題。今宵は本能寺に陣をとり、どちらもご寵愛の女衆と美形のお小姓・森蘭丸とをかわるがわる相手にし、あれやこれやとお楽しみ。これを大義のためか、単なる私怨か、なんとか天にかわって誅殺したいと願うインテリ文化人の部下が一人。プライドは高く、頭でっかちで体は細い。思い詰めるとどこまでもとどまるところを知らない。まるで東大卒の誰かを見ているかのよう。今まさにそのウツケの命で中国攻めへと向かうため、兵を率いて丹波の居城・亀山城を出たところ。ところがその時、彼は騎馬の鼻をくるりと反対のほうへと向け直し、本能寺のある都の方角を軍配でもって指しつつ叫ぶことには━━━━━

 ようやく嵯峨の亀岡、古称亀山が導けたので、マクラの明智日向守光秀公にはここでご退場いただく。あとは好きに義挙でも謀反でもして、英雄にでも逆賊にでもなればいい。最後に一言だけ言うならば、羽柴の猿よりも先に天王山にのぼれということだろうか。

 さて、およそ四百年をたった数行で飛び越えて、今は平成の御代、京都は亀岡の地。冒頭で示した通り、新暦の上では春三月、旧暦の上では一月の終わりか二月のはじめ、とにかく春まだまだ浅い時分に当たる。

 亀岡の駅を出ると吹きすさぶ寒風にたちまち首をすぼめざるをえない。なぜ、より高名な観光地である嵯峨嵐山を通り過ぎ、乱世には山城が築かれたような山あいの土地へと至ったか。それは、まずここ亀岡から桂川(亀岡から嵐山までは保津川と呼ばれる)の急流を舟で下って渡月橋のすぐ手前まで乗り付け、そこから改めて嵯峨の社寺を巡ろうという旅程に基づいているためだった。なるほど、同じ電車でここまで来た人々はみな歩を同じくしながら舟乗り場までゆく。辺りは一面に畑が広がっており、京野菜でも生産しているのだろう。嵯峨では品種は何か、京野菜では聖護院カブラと九条葱しか知らぬからもとより見当がつくはずもない。

 ふと目を上げれば、春の盛りを前にした枯れ色の山なみが西方浄土と我々とを隔てている。古来、都で発心し浄土を志して西方を拝む人々の尊崇を、この山なみは受け止めてきたのだろう。さらには煩わしい世を遁れて隠棲する人々をも。神仏を失った現代のわたしでさえ、その悠久の歴史を前にすると何か拝みたくなってくる。それでもやはり拝むことを実行しないのではあるが。もっとも、神仏ではなく歴史を重宝するポジションなのだから拝む必要はないか。保津峡を下ったのち、嵯峨野にゆかりのある六条御息所か明石の君にでも思いを馳せていればこと足りる。

「〇〇県からお越しの□□さん」

舟乗り場の待合室の放送ではこうして順番が告げられる。わたしを含め、前後の一行も同じく△△県から来ていた。いよいよ急流下りの舟に乗る。簡単な木造りの舟で、腰掛けもただの木の板である。全員が舟に乗り終えた後の喫水線は船べりから大体二〇センチほどしかなかった。しかしまさか浸水することはないだろう。およそ十五人ほどの客を乗せ、三人の水手(かこ)が櫂を執る。三人の位置は舳先に二人、艫に一人である。舳先の二人のうち一人は西洋でいうオールのようなものを漕ぎ、もう一人は長い木の棒で川底を突いては速度を加える。艫の一人は行く手全景を眺めて舟の進路を定めているようだ。何せ保津峡は急流かつ入り組んだ岩場が多いため、前を向く客の視界の外で一人が真剣に進行方向を選ばなければ、一葉の軽舟など岩に当たって木っ端微塵であろう。ましてや川面の下にも姿を現すことのない岩礁が数多く存在しており熟練した舟運びの腕が必要である。艫の一人が船頭なのかもしれない。と偉そうに描写するわたしも溺れ死にたくはないので、前の二人の水手(かこ)にはにこやかに客へ愛想を振りまいてもらっていてよいが、後方の一人には、もはや無愛想でも何でもいいから、とにかく安全な進路をとって無事に舟を進めてもらいたい。結局、彼らも当然それをわきまえていた。

 左右の上方に枯れ山、下方に巌、時折川を横切って飛ぶ川鵜を見ながら舟は常緑の樹々を映したかのような翠色の川面をすべってゆく。川風に乗っているためか、寒いことは寒いが駅を出た時のような突風がおもてを打つことはない。自舟の前方には、修学旅行だろうか、学生服を着た一団の乗る舟が二艘縦に連なって下っていた。我々の下る急流から外れた瀞では、ラフティングや飛込みをする子どもたちがいた。

 昨日見た宇治川はまさに宇治茶のような深緑であったが、ここ保津川は川底に岩多い渓谷であるためか、それよりもやや薄く優しい翠色を呈している。途中、舳先の一人の水手(かこ)によって山肌に自生する植物に関する説明が始まるが、なにぶん季節が季節なので彩色は豊かではない。オフシーズンというものだ。まぁ桜の最盛期などは舟に乗るだけで半日待つというから、それにぶつからなかっただけよしとするほかあるまい。一昨日訪れた姫路城などは凄まじい混雑ぶりであった。話は逸れるが、姫路城はこの四月を最後に修築のため数年間閉鎖されてしまうそうで、駆け込むようにわたしのような観光客が殺到したらしい。それと比べれば四辺を囲む広大な景観もあいまってか、ここ保津峡は急流とはいえ遥かに悠々とした時が流れている。

 それにしても、先ほどから舳先の一人が、枯れた山の中で紅一点鮮やかな実をつけた植物を指して「マンリョク」「マンリョク」と言い、年配の客もそれにまっとうな反応をしているのだが、わたしにはその「マンリョク」が何かわからない。万緑という言葉はあるが今の枯れた山や紅の実のどちらにもそぐわない。のちに調べてみて「マンリョク」というのは聞き間違いで、正しくは「マンリョウ(万両)」という庭木にも植えられる植物であると知った。ただ、その時は、わたしはそれまで受けてきた学校教育の唯一の賜物である方法を用い、まるで「マンリョク」を知っているかのような素振りでほかの客とともに川を下っていったのだった。

 保津峡に架かる鉄橋は、川から見上げると、暴力的に山をぶち抜いているトンネルが見えないのでまるで山と山とを繋いで天に架かる橋のように見える。そこに折よく列車が通り、嵐山方面から嵯峨方面へと、山から山へ飲み込まれていった。

 突然、舟の揺れが激しくなった。ここにきて一番流れの激しい場所に至るらしい。今のはその前哨のような地点か。舳先が川浪を砕いて生み出すしぶきを防ぐため、わたしは船べりのビニールシートを引っ張った。

 してすぐさま激流へ。翠色の流れが岩に当たって白くなる。さらにその白さを舳先が微細に砕いて空に舞わす。水の砕かれる音が美しい。

 しぶきは袖に少し掛かったくらいであったが、それよりも船べりすれすれまで迫る岩には驚いた。急流のなか水手が川底を蹴っていた棒で突いた大岩には、はっきりとわかる凹みができている。これは、保津峡が角倉了以によって開削されたおよそ四百年前より、すなわちまだ観光船ではなく木材運搬船であった頃の舟の船頭の時代から代々同じ箇所を突いてきたためにあいた凹みだということだった。京の歴史は伊達ではないと感じた。川の岩の凹み一つを取っても四百年とは、容易に江戸東京と同じ長さの歴史を持っている。

 急流下りがひと段落したのち、物売り船が舟の横につけて、酒やつまみなどを売りに来た。無論、わたしのような者には、京都に数多ある寺社の浄財という霊験あらたかな名前の拝観料を出すのに精いっぱいで、余計な物を買い求める余裕はない。水手たちはわざとらしくその物売り船から飲み物を買っていた。サクラというほど悪意のあるものではないが、それに準ずるようなものなのだろう。しばし気まずい時を過ごす。渡月橋が見えてきた。手前で下船。

 渡月橋の橋詰めは学生で雑踏していた。彼・彼女らの学生服姿を間近に見て、わたしは修学旅行の中学生として京都を訪れた頃を少し懐かしく思った。すると俄かにある思い出を思い出した。そして、それが別に懐かしむべきものでもなかったことを悟った。仔細をここから書き始めたいが、それでは紀行文の時系列から逸れてしまうのでやめる。紙と時に余裕があれば、末尾にでも付しておこうと思う。まぁ他愛もない、屈折した青春時代の挿話だ。

 話を本筋に戻す。わたしは舟を降りた当初、天龍寺へ向かおうと思っていた。天龍寺には過去一度来たことがある。ただその時は、天龍寺船も、夢窓疎石も、京都五山も、池水回遊式庭園も知らなかった。それらを知る今、再び同じ寺を過去とは異なった目で見てみたかった。しかし、舟を降りて天龍寺の入り口まで来たところでわたしは、どこかの学校の生徒たち大勢がその寺へ騒ぎながら雪崩れ込んでゆくのを目撃した。ついにわたしの足が天龍寺の総門のほうへ向かうことはなかった。そのまま竹林の小径を常寂光寺へと歩いた。

 その常寂光寺でこそ、わたしは千年前から変わらない遁世・隠棲の雰囲気のようなものを感じた気がする。まぁ周辺の雑踏と比べて寺の境内にわたしとほかの観光客数人しかいないという静けさが余計に際立ったためかもしれないが、険しい山肌を切って建立したような当寺の、急な石段だらけの伽藍配置や高台からの京の町の眺望も、少なからず人の世から隔絶されたような気を催させた。聞こえるのは絶え間ない笹の葉擦れと、時折弱々しく響く鶯の音だけだった。京の町を挟んで見える対面の山には、送り火のための大文字が苅ってあった。

 続いて二尊院へ。法然上人足曳きの御影なるものを見た。なんでも、法然上人は生前謙遜して自らの肖像画を残すことを拒否していたが、ある時弟子と絵師がひそかに湯浴み後の上人を絵に写した。この時上人は油断しており、足を投げ出しただらしのない姿勢であったのだが、弟子と絵師は構わず描き写した。あとになってこれを聞いた上人が、自らの修行の至らなさを反省し、絵に向かい念を込めたところ、なんと絵の中の上人が投げ出していた足を引っ込めたという。たしかに今の絵の中の上人は綺麗に座していた。わたしはその真偽について何も述べるべき立場にない。ただ、そのような聖物に出あうと邪念のむらむらと涌いてくるを抑えられないのが、返す返すも遺憾である。

 清凉寺。小堀遠州の庭園。平日の昼間のことで、清凉寺本堂裏の庭園を眼前にするこの廊下には、わたしのほかに誰もいない。いにしえに当代随一の庭師であり風流人であると言われた小堀遠州が貴人のために造った庭は、今忠実に復元されて、わたしのようなアヅマエビス一人によって眺められている。この庭園を前にして書院造りの一室の畳に座り、しばらく庭の木々と石とに時の過ぎゆくを忘れた。わたしはまったく意図せず、旅行者に対し「ご自由にお書きください」とされたノートに、ノートに名を連ねているほかの旅行者同様、旅の者らしい明るい一言を書いた。

 以上をハイライトにしてわたしの一旅行の一シークエンスが終わる。紀行文であることにかこつけて、全体を整斉にくくるような結びを設けない筆者の怠惰をお赦しいただきたい。

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