1. クレルシェンドの王妃
どこから間違えてしまったのか、と問われれば───自分が産まれた瞬間からだと言うほかない。
私、アイリス=アウル=クレルシェンドは、北の小国、イシュタリア皇国の皇女として生を受けた。そしてその時から……更に言えば産まれるずっと前から、クレルシェンド王国への嫁入りは決められていた。
『いいこと、アイリス』
母は私が幼い頃から、寝物語によく言って聞かせた。
『雪深いこの国で冬の間も豊かに暮らしていけるのは、クレルシェンドの皆様のお陰なのですよ。ですからアイリス、貴女はクレルシェンド王によくお仕えして、精霊の加護をかの国に届けなければなりません』
優しい母の絶対の教え。
だからそれは、そのまま私の存在意義になったのだ。
◇ ◇ ◇
「アイリス様、なんだか顔色がよくないですね」
気遣わしげな声に顔を上げれば、この国のものではない黒曜石の瞳が瞬いた。
「具合が悪いなら休まれた方が……」
「心配は無用だ、リオ。イシュタリアの人間は皆、普段から青白い肌をしているのだから」
少女を遮った堅い声の主は、苛立たしげにこちらを一瞥する。
ヴァン=クレルシェンド。一つに束ねた輝かしい黄金の髪、突き抜ける空のような鮮やかな蒼の瞳、最上級の生地で織られた豪奢な服。それらを見に纏った彼こそが、ここクレルシェンド王国の国王陛下その人であり───紛うことなく、私アイリスの夫である。
そしてその隣に寄り添うあどけない少女の名はリオ=カトー。紆余曲折あって王城で保護されている、所謂「異界の民」だ。
ここは週に一度の会食の場。王と王妃の歓談の場に何故当然のように少女が居座っているのか……考えるだけで頭痛と目眩に襲われる。
「……お心遣い痛み入ります、リオ。けれど御心配には及びません。陛下の仰るとおり、この顔色は国柄ですから。それにここは公務の場、途中で席を立つ訳には参りません」
「公務だなんて、そんな……せっかくお会い出来る機会なんですから、食事もおしゃべりも楽しみましょう?」
「………………そうですね」
陛下の視線が鋭さを増して、そう答える以外にない。
ここまで直情的な方だなんて知らなかった。……否、知れる筈もなかった。
彼は今、生まれて初めて「恋」を謳歌しているのだから。
『俺は精霊など信じていない』
王城で謁見した十七歳のあの日、陛下は事も無げに言い放った。
『古臭い慣習など堅苦しくてかなわん……貴殿の祖国を詰るつもりはないが、俺は現実主義だ。我がクレルシェンドの繁栄がイシュタリアの恩恵だとは微塵も考えていない』
『……左様でございますか』
『だが国と国の盟約ならば致し方あるまい。貴殿が我が国に嫁ぎ加護をもたらし、我らはイシュタリアを援助する……数百年前から続く慣わしならば俺の代で反故にする訳にもいかん』
『……左様でございますね』
『故に、アイリス=アウル=イシュタリア。貴殿を我が妃として迎えよう。ただし、あくまで形式としてだ。俺の寵愛など望まない方がいい』
『……心得ましてございます』
世界に名だたる強国としての矜持を以って、彼はそう言った。そして私も言い返しはしなかった。真実を、知らせる必要はないと思ったからだ。
イシュタリアの歴史書にはこう記されている。
クレルシェンドは強国であるが故に、周辺国家との戦乱が絶えず、戦火に焼かれた土地は次第に荒廃していった。作物は育たず、空気は淀み、飢饉と疫病が蔓延した。その事態を打開するために交渉したのがイシュタリアである。他国と距離を置き、精霊と対話して生きる民───その神秘による大地の加護と引き換えに、力無き小国の安寧を約束すると。
当時の皇帝が何を思っていたのかはわからない。けれど約定は結ばれ、クレルシェンドの王の代替わりごとにイシュタリア皇家の血を引く人間がかの国に招かれることになった。
精霊の加護を得たクレルシェンドの大地は蘇り、強国としての地位を確固たるものとした───
それがどうやら、クレルシェンドでは永い時間の中で歪曲してしまったらしい。
血の保証された皇国の姫を娶る代わりに交易で優遇してやる。それくらいの認識でいるようだった。
魔族の領域以外の人間世界において、神秘は薄れて久しい。
だから陛下がそのような認識でいることも不思議ではないし、私は自国の思想や文化を強要したいわけではなかった。
彼は形式的な婚姻だと言った。嘘偽りのない、真摯な言葉だ。
だから私は、そう在るようにと教えられたとおり、クレルシェンドに尽くそうと思った。
王を支え、大地を護り、民を慈しむ。
そういう王妃で在りたいと。
全てが崩れる日───異界からの迷い子が現れるまでは。
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