煙シティ

朝比奈七々

第1話

 天気が良い日が好きな訳ではないけれど。さすがに毎日こうも分厚い雲が敷かれた、鉛筆の濃淡だけで描かれた空の下にいると当たり前に気持ちが沈んでくる。

 どこから来たのか分からない、恐らく相当遠いところから来たのであろう、大型トラック達がディーゼル燃料を栄養にして、砂埃の中を黒に最も近い白い煙を嗚咽しながら走ってくる。それを巧みに操るドライバーや工場のおっさん達がいつも、給料明細を見るように、眉間に皺を寄せながら何とも言えない目付きで煙草を咥え、この街を副流煙で充満させている。

 この街は日本で1番汚い街って言われている。誰が言い出したのかは知らないけれど、確かにそう呼ばれている。 電子レンジの中みたいな錆色の工場と小学生が学芸会の為に力を合わせて作った、書き割りみたいな簡宿しかないこの街だから仕方がない。

 だからといって、ここに住んでる人達は、日本で一番汚い街なんて言われても気にはしていない。日本の最先端技術を有する企業もあって、この街が存在しなければ、この国は暮らしていけないから誇りに思っている人達がほとんど。この街が好きな人もいなければ、心の底から嫌いな人はいない。たぶん。

 僕は生まれた時からずっとこの街で育ってきて、高等学校卒業後も年季の入ったスクラップ工場で磨耗しながら両親二人と三人で暮らしている。

 同級生達の殆どは、この街を思い出としてキラキラとした野望を抱きながら都会に飲み込まれていった。

 僕も逸時は皆と同じように都会に食われてやろうと考えたこともあったけれど、彼らのようにキラキラとした野望を持ち合わせていなかった。だからこの街を出ようと考えたことはなかった。

 ただ、低賃金の工場勤務を終えた後に気持ちよく、肺いっぱいに深呼吸が出来ないことだけが苦しかった。

 この街は一週間のうちに2、3日しかお日様が出ない。正確に言うと、工場が吐き出す煙が空を覆い、お日様の存在に気付かない。だから朝のテレビニュースの天気予報なんて見る必要が全く無い。今日もそして明日もきっと薄めた墨汁のような空だからだ。

 毎朝6時に起きて、バスに乗って職場へ向かう。バスに乗ると、しかめっ面のドライバーが無口でドアを閉める。工員で溢れかえった、文鎮みたいな無機質なバスは見てるだけで息苦しく、湿気で溺れそうになった。バスの中に4つ年が上の坊主頭で顔が岩みたいな山形さんがいた。山形さんは、ゴツゴツした顔に清々しい程正反対な、小動物みたいにクリクリした目をしている。

「うす」

口を動かさないで、5分前に起きたような声で山形さんが言った。

「おはようございます。金曜日ですね」

僕も10分前に起きたような声で答える。

「今日仕事終わったら ――」

金曜日は、僕と山形さんが仕事帰りに職場から歩いて15分の居酒屋で汚れた顔と汚い作業着のまま一杯するのがお約束だ。

「今日は、なんだかやる気がない」

山形さんが毎日同じことを朝から言う。これもお約束。

「僕もです。帰りたいです」

大してそんなこと思ってないけれど、とりあえず眠そうに言ってみる。

バスに乗って20分くらいで職場に着く。相変わらず事務所に掛けられた看板は錆で茶色になってボロボロで、入口は砂埃でザラザラとしている。何年も変えてないだろう足ふきマットで一応、ナイキのスニーカーに付いた砂を拭う。どっちが汚れているのか分からないけれど。

「おはようございます」

さっきより芯の通った声で、小学生二人の息子がいる小太りのおばちゃん吉野さんに挨拶をする。

「キヌタ君今日は第二で作業ね。山形さんは、ここでお願いします」

「了解」

「うーす。キヌタとは別か」

歳の近い人が僕しかいないこともあって山形さんは僕の事が好きだ。

僕も山形さんと同じ現場だと、ダラダラ話せるから、今日は少し残念だ。

本来なら山形さんと同じ現場で、海外やどこからかやって来た鉄クズ達を近くの埠頭からここに持ってきて、検量や荷降ろしする作業をする。

今日は山形さん達が持ってきた鉄クズ達を恐竜みたいな重機でスクラップしたり、恐竜がスクラップできないような鉄クズをガスカッターで小さく切っていく。

先日このガス切りの作業をしていた、足首まで刺青の入った、昭和生まれで汚い白髪の柴田さんが、作業中に火花が作業着に引火して大火傷をしてしまい自宅療養中だ。

その柴田さんの変わりに僕が作業する。火傷は痕になるし、ヒリヒリするから万全の注意が必要だ。

第二作業場は、事務所のある作業場から少し離れていて、基本二人から三人で作業をする。

今日は、自称元ヤクザの清川さんと同じ現場。清川さんは無口で柴田さんと同じく足首まで刺青が入っている。汚い白髪と昭和生まれってとこも同じ。ただ清川さんは柴田さんより、ヨボヨボで背中に入った錦鯉が従兄弟の家の金魚みたいによぼけている。

この街には清川さんみたいな自称元ヤクザがそこらじゅうにいる。でもみんな、ヨボヨボの昭和生まれで全く覇気がない。よっぽど事務の吉野さんの方が強そうだ。

「キヌター、飯にするべや」

休憩時間の正午まであと30分まであるのに無口な清川さんが言ってきた。休憩時間までまだ時間があるけれど、あの清川さんが仰っしゃるのなれば仕方がない。

「キヨさん、いつも僕第一作業場の近くのラーメン屋で山形さんと飯食っているんですけど、行きますか」

「馬鹿言え。今から行ったらサボってんのがバレるだろ」

「そうですね。じゃあ、時間になったら食べに行ってきますね」

「馬鹿言え。時間がもったいねぇ、食える時に食わねぇでどうする。さっさとあそこの弁当屋行ってこい」

普段なら第一作業場の近くにある、油まみれのボロラーメン屋「遠藤家」に行くのが唯一の楽しみなのに、清川さんには何も言えず、仕方なく工場が立ち並ぶ中で不自然に店を構えている、弁当屋で500円の唐揚げ弁当を注文した。店頭に並んでるあるプラスチックの弁当の蓋が、工場の煙やら砂埃のせいで黒く汚れている。

弁当の蓋だけでなく、ここにいると何もしなくても汚れてくる。高級車をこの街で走らせようものなら、そいつはきっと本物のお金持ちだ。

この街の寂れたガソリンスタンドのスタンドマンから、「 窓を拭きますか」なんて言葉は絶対に出てこない。どうせすぐ汚れるから。

500円の唐揚げ弁当を持って作業場に戻ると清川さんが作業場の外壁に向かって立ち小便をしていた。「キヨさん、先に頂きますね」

清川さんがポコチンを振りながら右手を挙げた。 唐揚げ弁当を食べる前にライターでLARKに火をつけて、主流煙で肺を満タンにする。そして溜め息と同時に呼出煙を吐き出す。

「いただきます」

小声で言うと、携帯電話が鳴った。山形さんからだ。

「はい、キヌタです」「お前、今日遠藤家来ないの?」「あっ、すみません。ちょっとここから少し離れてますから、適当に弁当屋で飯買いました」

「なんだ、ならいいや」

山形さんは、話し相手が居なくて寂しいのだろう。唐揚げ弁当は、そんなに美味しくはなかった。味は薄いし、サクッとしてないで湿っていた。

気がつけば時間が過ぎていて、薄めた墨汁色の空が真っ黒に染まっていた。街灯は少ないけれど、工場の光が煌びやかで、立ち込める煙がスクリーンのように光を映し出して、とても綺麗だった。腐るほど見てきた景色だけれど、この街の夜だけは好きだった。

「1週間おつかれー。乾杯!」「お疲れ様です」 山形さんが、いかにも体育会系のノリでビールを一気飲みした。

僕は下戸なので、ジンジャーエールを片手に一気飲みした。

「お前酒飲めないとか可哀想だな」「ほんとに無理なんです。美味しさが分かりません」「そのうち分かってくるよ」

このやり取りは、乾杯っていう言葉の次に必ず現れる言葉達だ。

「キヌタ、お前今いくつだ、二十歳だろ、もっと男らしくなれよ!」

「何言っているんですか、喧嘩とかならそこらの奴に負ける自信ないですよ」「お前中学生みたいなこと言うなよ」

山形さんが、顔に似合わない無邪気な笑顔で左肩を叩いてくる。現場仕事のおかげで筋肉がついていたから、腕っぷしには自信があった。

「女はいるんか」「いないです」少し恥ずかしい気持ちになりながらも、悟られないように乾いた声で答えた。

僕は女という生き物がどうも苦手だった。そもそもそれと関わることが殆ど無く生きてきた。

「お前寂しいな。ホモか」「そんなわけないです」「まさか、まだ童貞」驚いた表情を見せながら、人を見下すように山形さんが言った。

「いいえ、1度だけ」小声で言った。山形さんは少し残念そうな顔をしたけれど、相変わらず目をクリクリさせて楽しそうだ。

「誰とだよ、教えろよ」「嫌ですよ」

山形さんはまるで中学二年生みたいに前のめりになって聞いてくる。

「キヌタお前店だな。嬢だろ」「まぁそうですけど。星田さんに、無理矢理…」星田さんは以前まで同じ職場にいた先輩だったけれど、帰宅途中に駅のホームで女子高生のスカートを盗撮して、私服警戒中のてっけい隊(鉄道警察隊)に見つかって、そのまま現行犯逮捕された。今はどこで何をしているのか知っている人はいない。

「なんだよ!キヌタお前素人童貞かよ!二十歳にもなって」「童貞に素人も糞もないですよ」

 当たり前だ。女は女だ。それが1回だろうが、嬢だろうが、知り合いだろうが関係ない。ただもし、その相手が「男」っていうことなら大いに問題はあるけれど。そうではないから。問題はない。

この仕事に就いてから半年くらいの頃、自称ヤリチンモテ男星田さんに、山形さんと同じことを聞かれた。

 どうやら彼にとって二十歳手前の男が「童貞」だということは一大事らしい。

ソープランドの店内は少しカビ臭く、照明が薄暗かったせいで、緊張した顔や落ち着かない焦点がバレる心配がないと安心したのを覚えている。

僕は、通販番組のリポーターみたいな元気を押し売りにしているスーツを着た男性に案内されて、明らかに三十代半ばの二四歳の女性を紹介された。歯並びは悪く、下品な金髪に垂れた乳房と黒ずんだ乳頭が印象的だった。彼女に幼稚園児のように服を脱がされると――。「随分急だな」って思った。実際そんなに興奮しなかった、さすがに興奮できなかった。でも僕は、その日から「童貞」という名称は語れなくなった。だからなんだって話だけれど。

「あー、そうだ!」山形さんが思い出したように言った。

「今日お前遠藤家来なかっただろ、新しいアルバイトの人がいたんだよ」

僕は「へぇ」とあんなボロラーメン屋にバイトなんか募集する元気があったんだって思いながら聞いた。

僕と山形さんの行きつけのラーメン屋、遠藤家は年金受給者のじぃさんとばぁさんの夫婦が趣味でやってるようなお店だ。

「どんな人だったんですか、そのバイトの人は」どんな人が好きで、あんなボロ店のアルバイトをやろうと思ったのだろうと興味津々で聞いた。

 山形さんは小さく頷いてから、「それがな、びっくりしたよ俺は」と嬉しそうに言った。僕は少し眉間に皺をよせた。

 「無茶かわいいお嬢さんだ。黒髪でエクボよく似合った。キヌタが来ないから緊張しちゃったよ」山形さんが照れながら言った。

「へぇ女があんなボロ店でよく働こうとしましたね、女の人だったらもっと楽にお金稼げるのに。親戚か知り合いなんですかね」「キヌタ酷い言い方をするな。若いのに働いてて偉いだろ」

女性がこの街でお金を稼ぐことはとても珍しいことだ、ほとんどの人が市街の大学へ行って遊んだ挙句、男に孕まされて結婚するか、この街に残って水商売をしたりヤクザに惚れてシャブ漬けにされて、空き缶を拾う生活をするかだと思ってる。さすがにそれは言い過ぎだけれど、若い女性がこの街で働いていることに違和感を抱いた。

「キヌタ来週はなんとしてでも遠藤家で飯食えよ!びっくりするくらい、きゅーとだから」 山形さんの酔いがピークに達した。

それから山形さんは、ハイボール四杯とレモンサワー2杯を呑んで酒と油臭いまま帰宅した。

今週も終わった。一日も晴れることなく。先週と変わらず。

 寝る前にLARKに火をつけた。煙草を吸いながら、いつまで今週を繰り返せばいいのだろうと、見えない不安に怯えながら、今日は一週間分の疲れを呼出煙とも共に吐き出してから沈んだように眠ろうと思った。

 

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