第2話 月季翠雨
伝説が本当にあったことなのかはともかく、その年は龍神退治が行われてからちょうど百年目に当たる年とされていた。村は伝説から百度目の祭りだと信じ、誰もが浮足立って祭りの準備を行っていた。
雨季が始まったばかりのある日、龍神池のほとりの要石に異変があった。
悪龍を封じたとされる大きな要石が、ぱっくり二つに割れて壊れてしまった。
雨雲から落ちた雷が要石を割ってしまったのだ。封印が解かれたのかと身構える村人たちだったが、村には何の異変もなかった。祭りの日が迫っていたので、ひとまずは楽しい祭りだと気を取り直し、要石のことは気に留めずに、村は変わらぬ日々を過ごしていった。
祭りは何事も起こらずに終わった。要石が割れても悪龍が復活するのではないかと身構えていた村人たちはほっと胸を撫で下ろし、杞憂を笑い合った。
祭りが終わった翌日、村の傍で行き倒れが発見された。
雨雲が空に垂れ込めている。
空模様はどんよりと暗く、曇っている。またすぐに雨が降る。
下駄をつっかけて外に出た。そのまま庭へ向かう。
庭といっても、私有している土地ではない。村の共有物だ。ただ翠の家が一番近くにあり、暇を持て余して花の世話をするうちに村の誰もが翠の庭だと認識するようになったに過ぎない。
一面を花と緑が埋め尽くしていた。
月季花(げっきか)。
濃い桃色の、八重咲きの低木である。他の地では「そうび」とも「ばら」とも呼ぶらしい。
森に囲われた村は、他の村とも離れていてほとんど孤立している。そのせいなのかはわからないが、この村にのみ伝わる天女と龍神の伝説をとても大事に語り継いでいて、今も村人たちの信奉を一身に集めていた。
それは行き倒れた翠のような男にとっては理解できるような信仰ではなかったし、村人たちも「他の地の者にこの伝説の素晴らしさがわかろうか」という態度をいつも言外に滲ませていた。
翠は表向き村に受け入れられてはいるものの、真に伝説を信仰する者とはみなされず、村人からはやんわりと敬遠されていた。
実際、村人たちの伝説に関する言動についていけないときは多い。そうした伝説を語る由来のような出来事はあったのだろう。そうでなければわざわざ龍と天女が戦うという、他の地にない伝説を語るはずがない。
ただ、伝説をどう語ろうが、翠には関係ない。好きに語り、好きに信じればいいと思う。
そんなことより、まだ十代と思われる祥姫のような少女が、伝説を通した村人たちの視線に傷つき、苦しんでいるということの方が大事だった。
あんな出来事からもう百年が経っている。伝説を信じようが天女を信仰しようが、それは村人たちの自由だ。ただ、その信仰のために祥姫は苦しんでいる。天女の生まれ変わりなどと言われ、本人とは何の関係もない差別を受け続けている。物事が正か負かの違いがあるだけで、祥姫は村人から敬遠されていた。
掟や信仰に人が縛られている。百年前とほとんど変わらない。
雨の少なかったこの土地で、雨をもたらしていた村の守り神。
それが荒ぶる前の、龍神の正体だった。
翠は月季の花をいくつか摘むと部屋に戻った。座敷の中では、長い黒髪の少女がこちらに背を向けていた。その肩越しに摘んだ花を突き出す。少女は振り返らずに花を受け取った。
「翠は、天女伝説についてよく知っているの?」
「聞いていなかったのか。私は行き倒れの余所者だ」
よく遊びに来るようになった祥姫が無地の白い花瓶に月季の花を活け始める。
板張りの座敷。常に薄暗く、彩度の低いこの部屋に、月季の鮮やかな色が飾られていく。
翠は彼女から少し離れた位置に腰を下ろした。また雨が降り始めている。祥姫は花瓶に向き合いながら、よく何の変哲もない話を始める。
「でも、どうして龍は暴れたのかな」
祥姫の問いのような、独り言のような言葉に翠は目を逸らした。
村の禁足地である龍神池のほとりのことを思い出す。龍神が、守り神として祀られていた祠が池の後ろにある。今は天女を祀っているものだ。
あのとき、ひとりの少年が池を訪れた。
他の同世代の少年に、よく弱虫だといじめられていた大人しい少年だった。少年はひとりになる場所を求めて、入ってはいけない龍神池にやってきた。
身体中に痣を作っていた少年を、龍神は憐れに思って怪我を治してやったのだ。
それから、龍神と少年は龍神池のほとりで会って話すようになった。
この地を長く守る龍神にとって、少年と語らう日々は龍の心中にいつの間にか空いていた空虚感を満たした。そしてお互いに友と呼ぶことが当たり前になったとき、二人の交流は終わった。
少年が死んだ。
龍神池に入っているところを村人に見とがめられ、掟を破った者として村人たちに囲われて延々と暴行を受け続けたのだ。
その日は雨が降っていた。農具で幾度も打たれた少年は服の上からでもわかるほど血塗れになっていた。血が飛んだ月季を、雨が洗い流していたのを覚えている。
龍神が村の異変に気づいて少年の元へ行ったときには、彼はもう息をしていなかった。
怒りに身を任せた龍神は、嵐と大雨を呼んだ。
そして天女と戦い、龍神は要石に封印されることになる。
「翠、聞いているの」
目の前に祥姫が迫っていた。翠は息を詰まらせた。初めて会ったとき、傘の下で暗い顔をしていた少女は、思っていたよりも勝気そうな快活さを瞳に宿していた。
「父は詳しいの。今度伝説のことを聞きに行かない?」
「お前、天女伝説が嫌いなんじゃないのか」
天女の生まれ変わりとして見られることを嫌っているから、てっきり伝説の方も嫌いなのだと思っていたが。
「伝説自体は嫌いじゃないよ。父も、よく話してくれるの」
過去に浸っている間に、花瓶に花を活け終わったらしい。
「私には、興味のないことだ」
伝説がどう語られているかなど、どうでもいいことだ。
何が起こっていたのか、当事者さえ知っていればいい。そして心に秘めて仕舞っておきたいことは、自分の胸ひとつにあればそれでいい。
それに、彼女の父の士季にはあまり会いたくないのだ。
祥姫から離れるようにして縁側に立った。雨は吹き込んでこないが、端の方が少し濡れている。雨戸はしていない。雨の匂いを深く吸い込む。
この雨は、失われた龍神の力そのもの。
翠の身体から別たれた分身のようなものだ。
翠は、要石が壊れてようやく外に出たものの、もう天候を操るような力は持っていない。あれから百年、村を守っていた龍神は悪龍となり、力を失くした翠はこの村に居座り続けている。
それはこの村に、まだあのときの少年がいるからかもしれない。
「翠、何を見ているの」
祥姫が後ろをくっついてきて翠の脇から外へ顔を突き出した。雨が降り続ける薄暗い村にあって、この少女は真昼の太陽のように無邪気だ。翠は百年前とはすっかり変わったこの少女の明るさが嫌いではない。久しぶりに可笑しいと思った。
「ただの、雨だ」
翠は降りしきる雨の音に耳をそばたてながら、濡れた月季の花を見下ろした。
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