自殺禁止区域

丹野海里

第1話 こんな世界クソ喰らえ

—1—


『神奈川県が自殺禁止区域に指定されてから1年が経ちました。昨日の自殺者も0人。これで自殺禁止区域では1年連続で自殺者が出ていないことになります』


「自殺者0人って本当かよ。オレには信じられないなー。シロ、お前もそう思うだろ?」


「ナー、ナー」


「はいはい、シロはそんなことよりもご飯が食べたいってか」


 オレは台所から持ってきていた猫缶の封を開けてそっとベランダに置いた。

 その様子を近くで見ていたシロが待ってましたとばかりに飛びついた。


 毎日決まった時刻に報道される自殺禁止区域の自殺者数。

 ある時からこの時間帯に合わせてシロがベランダに顔を出すようになった。


 今では数少ないオレの話し相手だ。


「聞いてくれよ。今日から大学の2学期が始まるんだけど、また退屈な日々が始まると思うとどうもやる気が起きなくてさ。毎日同じことの繰り返しで、オレって何のために生きてるのかなって考えちゃうんだよ」


「ナー」


 シロが猫缶から顔を上げて優しく鳴いた。

 空っぽになった猫缶を見るに「おかわり」か「ご馳走さま」とでも言ったに違いない。


 オレの話は難しくて猫には理解できないだろう。

 シロはオレの顔を1度マジマジと観察するように見た後、どこかに走って行った。


 さて、オレも大学に行くとするか。


—2—


 人は人と繋がっていることでしか生きていられない。だから私たちは人間の心理を理解しなくてはならない。


 大学2年生の9月。

 心理学の講義を受けていたオレは、あくびを噛み殺しながら講師の話に耳を傾けていた。


 本当に人と繋がっていることでしか生きていられないのであれば、今のオレは死んでいるも同然だろう。

 大学内での友人はゼロ。いや、それどころか友人と呼べる存在自体思い浮かばない。


 人と関わればその瞬間から自分にとって不利益が生じる可能性が生まれる。それなら他人とは距離を置くべきだ。

 そんな極端な思考がオレの中で固まってしまったのには理由がある。


 高校3年生のとき、こんなオレにも彼女がいた。

 同じクラスだった彼女は、あまり目立つタイプではなかったけれど笑顔がよく似合う可愛らしい女の子だった。


 放課後の教室で運動部の様子を眺めながら何でもない雑談をする時間は幸せだった。

『そこら辺の高校生カップルがやりそうなこととは何か?』なんてくだらないトークテーマで2時間近く話していたことを覚えている。


 休みの日には、街に出向いて食べ歩きをしたり、ゲームセンターに寄ったり。

 一緒に過ごす時間が増えれば増えるほど、オレの頭の中は彼女で満たされていった。


 付き合い始めて半年が経ったある日。

 いつものように教室で雑談をしていると、彼女がお手洗いと言って席を外した。


 彼女が席を立ってから15分。

 待っている時間は不思議と長く感じるもので、オレは外の景色と教室の時計とを理由もなく交互に見ていた。


 30分が経った頃、さすがにおかしいと思ったオレは教室を出てトイレに向かうことにした。

 長い廊下を歩いていると、トイレの手前にある階段から囁くような声が聞こえてきた。


「ちょっと、ここではダメだってばっ」


「誰も来ないから大丈夫だって」


「んっ」


 階段を見下ろすと彼女と隣のクラスの男子が濃厚なキスをしていた。

 あまりの衝撃的な光景に頭の中が真っ白になった。


「何やってんだよ」


 必死に絞り出した言葉だった。


「直斗……違うのこれは向こうが強引に——」


「お、おい何言ってんだよ。お前もノリノリだっただろうが」


 男が彼女を突き放した。

 人は憐れだ。これほどまでに醜い生き物だったとは。

 どちらも謝ろうともしない。謝ったところで許す気はないが。


「強引だったら他の男とそういうことをしてもいいのかよ?」


「そ、それは」


「お前もだ! 人の彼女に手を出すな!」


「……悪い」


 オレは教室に戻り、鞄を肩にかけて真っ直ぐ家に帰った。

 彼女が後を追ってきていた気がしたが1度も振り返らなかった。


 裏切られた。そんな負の感情がオレの胸の辺りをぐるぐると渦巻く。

 楽しかったあの日々は一体何だったのだろうか?


 他人を信用してはいけない。信頼してはいけない。

 それが例え彼女であったとしても。


 そう強く頭の中に刻んだ。


 彼女とはそれ以来しっかりとした話はしていない。

 こっちとしてはどう接すればいいのか分からなかったし、向こうも気まずかったのだろう。


 こうして彼女は、オレの彼女から他人へと戻った。

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