第32話「由来」
ケンちゃんに救われた俺は、ほっと一息つく。
有栖川さんの言ってくれた言葉は、思い返してみても純粋に嬉しかった。
けれど、それ以上に俺はこれまで感じた事の無いドキドキに支配されてしまったのである。
『――それにですね、こうして一色くんの面白いと思っているものを一緒に共有出来ていることが、私すっごく嬉しいんです』
その言葉を思い出すだけでも、やっぱりドキドキしてきてしまう俺がいた。
――いかん、しっかりしなきゃ
気を取り直そうと俺は、無言は無言でキツいため話題を振って場を紛らわす。
「あー、ところでさ、ケンちゃんって何でケンちゃんって言うの?」
「え、名前の由来ですか? それはその……」
とりあえず、前からちょっと気になっていたケンちゃんの名前の由来を聞いてみる事にした。
俺からしたらケンちゃんはケンちゃんでしかなく、何か名前の略称なのかどうかすらも正直よく分かっていなかったから、タイミングがあれば前から聞きたい事の一つだったのだ。
だから俺は、何気なしにそんな質問をしてみたつもりなのだが、何故か有栖川さんは気まずそうな何とも言えない表情を浮かべる。
「有栖川さん?」
「えっと、その……笑わないで下さいね?」
「うん、分かったけど……」
笑うも何も、名前の由来を聞いただけなのだ。
そこに俺が笑うような要素なんてあるのだろうか?
そんな事を思いながら、俺は有栖川さんの返事を待つ――。
「――その、犬だから、ケンちゃんです……」
「……え?」
「
成る程、
理由は分かったが、犬だからケンか――犬だから――――。
「――ぷっ」
「あー! 今笑いましたねっ!? 笑わないでって言いましたよね!?」
「いや、ごめん! でも犬だからケンって、それ安直なんてレベルじゃ」
駄目だ。笑っちゃ駄目だと思えば思う程笑えてくる。
いくらなんでも、ネーミングセンスの有無なんてレベルじゃない。
「……もう、だから言いたくなかったんです」
結局笑ってしまった俺に膨れている有栖川さんと、気にせずトコトコと散歩を楽しんでいるケンちゃん。
そんな光景もまた、シュールというか何というか俺の笑いのツボをまた刺激するのであった。
「あー笑った」
「一色くんは酷いです。約束違反です」
「ごめんって、もう笑わないから」
いじける有栖川さんに、俺は何度か謝っておいた。
「でも、何でまたそんな名前の決め方したの?」
「私だって色々考えたんですよ? でも、どれもセンスがないってお母さんに言われたから、消去法でケンちゃんになりました」
不満そうに理由を説明してくれる有栖川さん。
しかし、消去法でケンちゃんが残る選択肢って何だ? と思った俺はもう、それを聞かずにはいられなかった。
「成る程、ちなみに他の候補は何だったの?」
「――嫌です。言いません。どうせまた笑いますから」
「もう絶対笑わないから、お願い教えて」
「むー、絶対ですよ? ――えっと、たしか『うれ吉』とか『かわ太郎』とかでしたかね」
ほうほう、『うれ吉』に『かわ太郎』か……。
きっと『うれしい』と『かわいい』を文字ってるんだろうな。
正直それでも良いような気がしなくもないが、それならばケンの方が無難と言えば無難な気もしてくるラインナップだった。
まぁ何が一番良かったかは俺にはよく分からないが、どうやら有栖川さんはネーミングセンスが皆無な事だけははっきりと分かったのであった。
「まぁ、ケンちゃんって名前良いと思うよ! ケンちゃんもそう思うだろ?」
「キャン!」
不満そうな顔をする有栖川さんに、咄嗟に俺はフォローを入れるとケンちゃんも同意するように応えてくれた。
それが嬉しかったのか、またふっと微笑む有栖川さん。
「――私、昔から名前付けるのとか苦手だったんです。なので、最初はお母さんに名前つけて貰おうと思ったんですけどね、この子の名前はやっぱり自分でちゃんと決めてあげたいなって思ったんです」
「うん、俺もそれが良かったと思うよ」
「えへへ、ありがとうございます。だから理由は恥ずかしくて言いたくありませんが、もう私にとってケンちゃんはケンちゃんであって、私の大切な家族なんですよ」
そう言って微笑む有栖川さんの姿は、思わず見惚れてしまいそうに成る程美しかった。
そして同時に、そんな大切な家族が増えて良かったねと、自然と俺も微笑んでしまうのであった。
「あ、ここ」
すると、有栖川さんが何かに気が付き小さく呟く。
何だろうと思ったが、ここは俺と有栖川さんがあの日出会った場所だった。
「――ここで、一色くんに会ったんですよね」
「そうだね、あの時は本当にビックリしたっけ」
「キャンキャン!」
「はは、あの時は怖がったりして悪かったねケンちゃん」
しゃがんで謝りながらケンちゃんの頭を撫でていると、有栖川さんも隣に並んでしゃがみ込む。
「一色くんにはご迷惑をおかけしてしまいましたが、あの日は私にとっては大切な想い出なんです」
「そんなに? ただ無様にビックリしただけな気がするけど」
「うふふ、でも、あの日があったから今こうして一色くんと一緒にお散歩だって出来ているんです。だからやっぱり、私にとっては大切なんです」
そう言って微笑む有栖川さんの姿を、俺はもう直視なんて出来なかった。
そしてこれはケンちゃんの散歩だけでは無く、俺と有栖川さんの散歩でもありそれが嬉しいのだと語る有栖川さんに、俺はもうどう返答したら良いのかまた分からなくなってしまった――。
「ねぇ一色くん、見て下さい!」
そう言って有栖川さんは、空を見上げた。
だから俺も、そんな有栖川さんに倣って一緒に空を見上げてみる。
するとそこには、輝く無数の星空が広がっていた。
見慣れているはずのそんな星空も、今だけは何だか違って見える自分がいた。
――それはきっと、隣に有栖川さんがいるからだろう
そう思い、俺は隣を振り向く。
するとそこには、綺麗な星空を楽しむように微笑む有栖川さんの姿があった。
「今日は星がとても綺麗ですね」
そしてこちらを振り向きながら、嬉しそうに微笑む有栖川さん。
その姿は、そんな夜空に広がる無数の星達にも負けない程、綺麗に輝いて見えたのであった――。
「――そうだね、とっても」
だから俺は、そんな有栖川さんの事を見つめながら微笑み返すと、そう一言返事をしたのであった。
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