おおかみ
にゃりん
俺はもう、死ぬかもしれない。
弱気になってはダメだ、と頭では分かっているが、この状況を冷静に判断すると、どう頑張ってもその結論に辿り着く。
ソロ登山。
マイナーな低山。
過疎の進む奥地。
登山届なし。
山行計画の共有者なし。
おまけに長期休暇の初日。
連絡を密にする恋人もいない。
そんな中で、登山道から滑落。
たまたま木の幹に引っ掛かったから止まれたが、20m以上は落ちただろうか。
この場所からは登山道は見えない。恐らく向こうからもこちらの様子はうかがえないだろう。
そろそろ日が暮れる。たとえ俺以外の物好きが通りかかったとしても、滑落の跡に気づくとは思えない。
肩を痛めたようで右腕が動かず、左足首が腫れていて力が入らない。
匍匐前進を試したが、肋骨も痛めているようだ。
這い上がる事もできない。
動けない。
スマホもこの一帯は圏外。
どうあがいてもゲームオーバーだ。
思わず空を仰いだ。
広葉樹の葉の隙間からわずかに星が見える。
空が見えるという事は、何か光るものでもあれば助けを求める事もできるかもしれない。
それもまあ、近くの山域で要救助者でも出ない限り難しいだろうが。
暗い気持ちを振り払い、そんな一縷の望みにかける。無事だったザックからなんとかツエルトを探し出した。
片手しか使えないのをもどかしく思いつつ、歯で硬い肉を噛みちぎるようにして小さな巾着から引っ張り出したツエルトに包まる。
次からはこんなギチギチに小さい袋に詰めるのはやめよう。
どんなに邪魔になっても、コンパクトにし過ぎて非常時に使えないなら意味がない。
携行食と水を少し口にし、生き延びた先にする事を考えながら朝を待った。
ふっ、と意識が浮上した。
すぐに今の状況を思い出し、こんな状態でよく眠れたな、と自分の図太さに苦笑する。
時計に目をやると、時刻は深夜1時。
月が皓々と辺りを照らしている。
そういえば今夜は満月だ。光があるのは心強い。
その時、山あいにこだまする獣の声が聞こえてきた。
遠吠えだ。
野犬か?と身を固くする。
怪我と救助の可能性にばかり気を取られ、野生動物という危険もある事をすっかり失念していた。
野犬以外にも、猪や、熊もいる山域だ。
心拍数が上がる。
息がうまく吸えない。
都会暮らしの現代人に、動物の気配など分かるのだろうか。
もし襲われても、抵抗できる術はない。
万が一熊にでも見つかれば、喰われるかもしれない。
突然、獣の臭いがした。
思わずギュッと目をつぶる。
近づく気配。顔に息がかかる。
もう駄目だ。
目尻から涙が流れた。
どれくらいの間そのままでいただろうか。
気配が感じられなくなった。
恐る恐る目を開けると、少し離れた所に犬らしきものが座っている。
野犬?いや、犬というよりはむしろ――。
「オオカミ、なのか?」
掠れた声でつぶやくと、それは短くカールした尻尾で地面をぺち、と叩いた。
山犬か、オオカミか。
あるいは恐怖心が生み出した幻想か。
それでもいい。攻撃する気配のない生き物が側にいてくれると思うだけで、気持ちが安らいでいくのが分かる。
時折聞こえる遠吠えを聞きながら、俺はいつしか眠りに落ちていった。
目を覚ますと、すっかり日が高くなっていた。もう7時を過ぎている。
気が抜けたのか、熟睡してしまったようだ。
オオカミのような生き物の姿は見当たらず、獣の臭いも感じられなかった。
そうだ、誰かに見つけてもらわなければ。
慌ててザックからホイッスルと鏡を取り出し、周囲の音に耳を澄ます。
「おーーーーい!!誰かいるのかーーーー!!!?」
突然、頭の上の方から男の声がした。
登山道だ。
必死にホイッスルを吹き鳴らす。
吹きながら、動く方の足を目一杯動かしてガサガサと音をたてる。
動く方の腕を目一杯伸ばし、鏡で光を反射させるようにして動かす。
気づいてくれ、俺はここにいる!
まもなく俺の存在に気づいてくれたその男性に助けを求め、奇跡的に生還することができた。
擦り傷や打ち身と捻挫は多数あったものの、幸い骨折もなくすぐに退院できたので、その足で助けてくれた男性に会いに行った。
お礼を言うため、というのは勿論だったが、あの状況でなぜ自分を見つけられたのかが疑問だったのだ。
「前の日の夜にな、犬がやたらと騒いでなあ。ウチの犬も近所のも、この山に向かってしきりに遠吠えしていたんで、ああこりゃ何かあったな、と。
散歩ついでに山に入ってみたら、ちょうどあの辺りで獣が道を横切ってなあ。よく見たら滑ったような靴跡があったから見つけられたんだよ」
獣に助けられたな、男性はカラカラ笑った。
「その獣、なんの動物でしたか」
「へ?――そういや、何だったかな。速すぎてよく分からなかったよ」
「――俺、オオカミに会ったんです」
意を決してそう言うと、男性の笑顔が少し引きつった。
「昨夜会った、あれはオオカミだったんだと思います。遠吠えで犬たちに知らせて、俺を助けてくれたんです」
男性は何とも言えない表情を浮かべたが、やがてポツリと呟いた。
「まあ、そういう事もあるかもしれんなあ。
オオカミかもしれんし、ひょっとしたら神の使いの大神様かもしれん。今思い返してみるとな」
腕を組んで首を傾げながら、男性は言葉を続けた。
「あの獣が道を横切った時、確かに藪の中から出てきたんだが、まったく音がしなかったからなあ」
―終―
おおかみ にゃりん @Nyarin_AV98
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