第2章 遠征行

第2章(その1)



 ナイゼル・アッシュマンの脳裏にまず浮かんだのは、いつか故郷で見た夕暮れ時の風景であった。

 あれを最後にみたのは一体いつであったか……彼が一次遠征から帰還し、故郷に帰り着いたその日であったから、今から思えば随分と懐かしく感じられた。

 二次遠征軍が敗退し、聖地奪還が記録的な敗北に終わるのは、これよりもまだもう少し先の話である。一次遠征軍の戦いにしても決して楽ではなく、実際に戦地に赴いた者達にしてみれば相応に辛く大変な経験ではあったろう。だが異教徒の城塞都市カラルフラルを遠征軍が見事陥落させたという報に王国はまさに沸き立っていたし、人々はそんな戦勝の熱気に酔いしれていたさなかであった。

 そんな勝ち戦からの生還である。本来であればナイゼル・アッシュマンの帰還は非常に晴れがましく、相応に盛大に迎え入れられてもおかしくはなかったはずだ。

 だが、実際に彼が足を踏み入れた故郷の荘園の空気は重く、とても歓迎されているようには思えなかった。

 ナイゼル自身、故郷に入る前におおよその事情は聞き及んでいた。だが現地は、彼が想像していた以上に大変に居心地が悪いと言わざるを得なかった。

 父の訃報は、戦場で受け取った。

 ナイゼルにはとても手厳しい父親だった。彼は長子であったから、むしろ人の子の父としては、そのような子育てをしたのは立派と言えただろうが……。父はナイゼルの出征にも最初から強く反対し、ついに許可してはくれなかった。そんな父だったから、生きていれば生きていたで、どの面を下げてこの地に帰ってこられたものか、何とも想像がつかなかった。それを思えば、父の死去は寂しくもあり、ほっとするようでもあった。

 そのように複雑な思いがあるがゆえか、二年ぶりの故郷にそこまでの感慨はなく、それ故に成り行きを静かに受け止められたのは良かったのかも知れない。だが道すがらすれ違った荘園の農夫らの態度までもが心なしかよそよそしく感じられたのは、決して彼自身の心境のせいでそのように見えていたというだけではなかった。

 屋敷にたどり着いた彼を出迎えたのは、かつて許嫁であったコーデリアだった。彼女もまた、ナイゼルを前にして表情は固かった。

「ようこそお戻りになられました」

「ああ」

 ああ、と返事をする以外に、かけるべき言葉もなかった。

 弟は荘園に視察に出ているが、人を呼びにやったのでじきに戻るだろう――そういうやり取りを終えると、あとが続かなかった。

 故郷の邸宅だというのに、まるで他人の家に来たみたいだった。実際彼は客間に通され、来客として扱われた。コーデリアとも久々の再会であったが、心が浮き立つことは双方ともになく、むしろその対面は非常に気詰まりなものでしかなかった。苦痛である、とすら言えたかも知れない。

 ナイゼルにしてみれば、戦地であれほど焦がれていた再会だったというのに。

 屋敷の二階にあるバルコニーからは、西日に照らされ黄昏色に輝く、どこまでも続くような果樹畑の並木が一面に見渡せた。この地で生まれ育ったナイゼルには見慣れた景色であり、長くこの地を離れていた身にはとても懐かしく思える光景だった。

 そんな場面に、コーデリアと二人。ナイゼルは眼前に広がる景色を静かに眺める振りをして、この沈黙の重さに耐えた。何か言うべきだ、とは思ったが言葉が見つからなかった。

 ナイゼルの態度を恐る恐る窺うような――そんなコーデリアの態度にいい加減嫌気がさして、ナイゼルはようやく口を開いた。

「遺言だというのなら、仕方ないさ」

「……」

「私が戦死したなどと、誤報も良いところだが――王都からの通達だったというのであれば、信じた君らには何の落ち度も無かったと言わざるをえない。……驚いたのは、まさかあの父の倒れたのが、私の訃報に触れたせいだったとは」

「お父様は、それはそれは取り乱しておいででした。そのまま発作で倒れられ、長らく床に伏す事に……」

「私の出征を、父上は最後まで認めて下さらなかった。最初弟のエミールが家督を継いだと聞いて、てっきり私は勘当されたのだと思ったよ」

「まさか、そのような事は」

 コーデリアは必死に首を横に振った。彼女が言うには、父はずっとナイゼルの身を案じ、訃報に触れ床に伏せたあとも、それは何かの間違いだ、とずっとうわごとのように繰り返していたのだという。心労のあまりみるみるうちにやつれはて、やがて最後の最後になってついにおのが枕元に、兄に死なれた弟と、許婚に死なれた彼女を呼び寄せ……二人で所帯を持ち、自分の跡目を継いで領地を守っていくように、と遺言して死んでいったのだということだった。

 ふいに、戸口でけたたましい足音が響いたかと思うと、二人がいるバルコニーに慌てて駆け込んできた小さな人影があった。ナイゼルの弟で、今はこの荘園の若き領主であるエミールだった。

「……あ、兄上ッ!」

 二年ぶりに再会した弟は出征の前に対面したときとまるで変わってはいなかった。所帯を持ち、責任ある立場について少しは大人びたかと思ったが、慌てて駆け込んできたその姿はまだあどけなさの残るやせっぽちの少年そのままだった。

 だが、本人の器量がどうこうという以前に、この場にやってきたエミールは尋常ではないくらいに取り乱していた。

「ああ、兄上! まさか本当に、本当に、生きて帰って来られるなんて!」

 嗚呼、僕はなんという愚か者だ!と罵りの言葉を吐きながら、彼はがくりと膝を付き、床に拳を打ち付けた。

 コーデリアがそんな彼に寄り添って、そっと背中をさする。ナイゼルはエミールが落ち着きを取り戻すのを少し待ってから、ため息混じりに応えた。

「遺言だというのなら、仕方あるまい。父上が死するに当たってそのように言い残し、お前はその言葉通り、コーデリアを妻に迎えた。戦死した私が墓場から蘇って繰り言を言うわけでも無し、お前に一体なんの落ち度があるというのだ」

「ですが……兄上は現にこうして戦地から帰ってきたではないですか」

 つまりは本当に墓場から蘇ってきたわけだ……とナイゼルは自分の言葉に思わず苦笑いを浮かべそうになったが、このようなエミールを前にして茶化すような物言いも迂闊には出来なかった。

「そうだ! こうしてはいられません、兄上。僕が相続したこの家の財産、領地の所有権、そのすべてを、兄上にお返し申し上げねば」

「何を言い出すのだ、お前は」

「何をって、当たり前でしょう。兄上こそが、わがアッシュマン家の跡取りなのだから。もちろん、コーデリアとの結婚も解消します。それはもちろんコーデリアは素晴らしい女性ですが、何と言っても兄上の許嫁だもの」

 もはや取り乱して何を言っているのか、自分でも分かっていないのだろう。エミールは簡単に言うが、そんなことが出来るはずがないことは、大きく膨らんだ彼女のお腹を見れば明らかだった。

「落ち着け。家督はともかく、いまさら離婚など出来るはずがないだろう。お前は人の子の父親になるのだぞ」

 ナイゼル自身、弟が家督を継いだと聞いて、エミールにそのような役目が務まるのだろうかと不安に思ったのは確かだった。彼の知る弟は、常に兄の影に隠れているような頼りない少年だったから、そう心配してしまうのも無理はなかった。

 だが王都で故郷の様子を話にきく限りでは、エミールは父の死去後、荘園の運営に才覚を顕わにし、父の代以上に領地は豊かになっているという。

 現に屋敷に到着するまでの間にも、あちこちで新たな田畑を開墾している光景を目にしたし、戦時下で働き手が不足して何かと苦しいはずなのにも関わらず、領民たちの表情もナイゼルの出征以前よりも明るいように思えた。全ては順調で、むしろ最初からエミールの方が跡継ぎには適していたのかも知れなかった。

「どのような手違いがあったにせよ、今現在のアッシュマン家の当主はお前だ、エミール。人の上に立つ者が、その責任を放棄するなどと、迂闊に口走ってはならぬ。お前はすでにその双肩に様々なものを背負っているはずではないか」

「兄上……」

「それを今更放り出すなどと、誰が許そうとも、兄であるこの私が絶対に許さぬ」

 ――エミールとて、敬愛する兄の戦死は誤報で、生きて故郷に帰還するのだと知って、この日をどれだけ待ちわびたことか。その兄に真正面からそのように説教されて、途方に暮れたまま膝を折り、立ち上がる事も出来なかった。

「それでは……兄上はこれからどうするのです」

「ナイゼル・アッシュマンはひとたびもうすでに死んだのだ。今更蘇ってくる方が愚かだったという事だ」

 ナイゼルの突き放すような答えに、今にも泣き出しそうな表情をみせたエミールだった。そんな弟を前にして、ナイゼルは最後に一言、このように告げた。

「コーデリアの事、よろしく頼むぞ」

 彼はそれを言い残すと、バルコニーからきびすを返し、今しがたエミールが駆け込んできた戸口をくぐって部屋をあとにする。すでに夕日は沈み行こうとしていたが、このまま屋敷に逗留する気にもなれなかった。

「待ってください、兄上! ……兄上はどうして、そんなに簡単に背を向けられるのですか。僕の知る兄上はそんな人ではなかったはずだ。一体兄上は、戦地で何を見てきたというのですか」

 エミールの声、悲痛な叫びのようでもあり、彼をなじる声のようでもあった。

 ナイゼルは後ろ髪を引かれるようにほんの一瞬だけ、ためらうように立ち止まったが、結局は何も言い残さず、彼らの前から去って行った。

 一体彼の口から、何を語れば良かったというのか。

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