第1章(その3)

 すぐにアルサスの脳裏に思い至ったのは、かつて彼が聖地奪還の遠征行に自ら志願し、出征したという事実だった。

 伝え聞いた話でしかなかったが、地方領主であった彼の父親は、息子の出征にはそれはそれは強く反対したという。跡目を継ぐべき長子が戦地へ赴くとあれば、人の親としてはそれも当然のことと言えたかも知れなかったが。

 だがそれ以上に――その遠征行は、王国にあまりにも深い傷跡を残した、記録的な負け戦であった。

 人や国家に歴史があるように、神の教えにも歴史はある。その発祥は遠く砂漠地方にあり、その砂漠に今現在住まう民たちは、今はまた別の神に従う者どもであるという。

 聖地たる土地を奪還し、本来の聖地たる姿に回復させる……それこそが、神の教えを守る者どもの責務である、などと説く声は確かに昔から少なからずあった。それが具体的に、遠征軍を結成しかの地を支配する砂漠の蛮族どもを駆逐しよう、などという声が大きくなったのは、ほんの十年前ほどのことであった。

 果たして何が人々をそういう方向へ駆り立てたのか、今となってはいささか不思議ではあるが――そういう気持ちになるのは、アルサス自身が僧職にありながらも、聖地奪回に対してさほど熱心な思い入れが無かったせいだったかも知れないが。

 ともあれ――人づてに伝え聞いたところによれば、ナイゼル・アッシュマンは騎士としてその遠征行に志願し、遠く砂漠の地へと旅立っていったのだという。

 だがその後無事に帰還し、故郷に帰還したのだと聞き及んでいた。そのうち父親の跡目を継いで、若き地方領主となっているような身分ではなかったのか……。

 それが何ゆえに、このような北部の薄ら寒い森林地方を旅しているというのか。

「何やら、この私に色々訊きたいことがある、という顔をしておられるようだ」

 アルサスがそのように思案を巡らせていると、ナイゼルの方からそのように切り出してきた。

 いいえそのようなことは――と否定しそうになって、アルサスは思いとどまった。彼の方からそう水を向けてきたのであるから、そういった込み入った話を聞き出すとすれば今こそが好機といえるのではなかろうか。

 ならば、とアルサスは意を決して、問いただしてみることにした。

「アッシュマン卿。あなたはかつて、聖地奪還の遠征行に志願し、かの地へ出征したという風に聞き及びました」

「……いかにも、それはその通り」

 少年時代のアルサスが真似をして騎士になると言い出したくなるくらい、ナイゼル・アッシュマンはその当時いくつもの剣技大会で優勝をおさめ、王国一の名うての剣士と評判の人物だったから、そのくらいの風評は知れ渡っていたものだった。

「僕が聞き及んだところによれば、あなたはその遠征行から無事に帰還し、故郷へ戻ったのだとの事でした。……そんなあなたがどうして、それこそただの一人の随伴もなく、このようなところを旅しておられるのです?」

「故郷へ一度帰ったのは確かだ」

 ナイゼルはぼそりとつぶやくように答えた。随分と昔の話だ、とも付け加えつつ。

「そうだな……あれ以来、故郷には一度も戻っていない」

「それは、またどうして……」

「色々あってな。結局、それから第二次の遠征軍に参加してもう一度砂漠へ行ったりもしていた」

「二次遠征軍に……?」

 アルサスは思わず問いかえす。

 聖地奪還の遠征行は、都合二度に渡って行われた。一次遠征軍がまずは橋頭堡となる城塞都市を攻略し、二次遠征軍はその都市を占領、教化しさらに砂漠深くへと進軍していく予定であったという。

 だが、二次遠征軍が現地に到着するより先に、一次遠征軍は敵の反撃を受け、ひとたび制圧したはずの城塞都市カラルフラルから潰走してしまったのだ。やむなく後退する二次遠征軍も、敵の追撃を受けてほぼ壊滅に等しい打撃を受けたという。王都に帰還を果たしたのはほんの一握りの将兵のみであり、その大半は砂漠で命を落としたという。

 とすれば、ここにいるナイゼル・アッシュマンはそんな二次遠征から、命辛々の奇跡の生還を果たした、ということになるのではなかろうか。

「あれ、でも故郷に戻られたのは二次遠征軍に参加する前の話なんですよね?」

「いかにも」

「どうしてです? せっかく生きて帰ってこられたのに、故郷にも帰らずじまいだなんて……」

「少々事情があってな。今更帰るわけにもいかないのだ」

「事情、ですか」

 それはまた一体どういう事情か、と問いつめたいところだったが、気楽に尋ねられる話題ではだんだん無くなってきているという事には、アルサスも気付いていた。

 果たしてその事情とは、何であるのだろう。

 そのまま余計な気を回して黙りこくっていても良かったのだが、好奇心の方が勝ってしまった。

「……それは、もしかすると、アッシュマン卿が戦地で体験された事と、何かしら関係があるのでしょうか」

「そうだな。関係ある、とも言えるな」

 ナイゼルはそのように、いわくありげにしみじみと肯定したのだった。

「それは、一体どういう……」

 そこまで立ち入った事を尋ねてもよいのかどうか、やや引け目を覚えて何とはなしに語尾を濁してしまう。どうしたものか、と思っていると、ナイゼルの方からこのように言ってきたのだった。

「詳しい話を是非とも訊きたい、という顔をしておられるようだ」

「そ、それは……ええ、そりゃもう。そもそも何故、そのような過酷な遠征行に二度も参加されようと思い立ったのですか?」

 アルサスが問いかけると、ナイゼルの表情がかすかに曇った。やはりそれは、安直に触れてはいけない話題だったのかも知れない。だが彼自身、何らかの形でこのように語る機会を持ちたいと思ったのか、敢えて話そうと思ったからこそ先ほどのように水を向けてきたのではあるまいか。彼が重い口を開くのを、アルサスは辛抱強く待つことにしたのだった。



(次章へ続く)

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