異世界で、紡ぎ編む〜加護持ちアトラの「糸」からスローライフ〜

子猫のこ

1 スローライフの始まりへの始まり

第1話 殺し屋に憑依しましたが編み物がしたい!


 身体が、重い。

ここは……どこだろう。

わたしは、一体どうなったの? もう、死んでしまったのだと。

酷い病気だった。

最後は麻酔で記憶も痛みも朧げだった。

お父さんやお母さんの顔が、ぼやけて見えて、だんだん視界が暗くなって、てっきり天国へ行くのだと思っていたのに。


わたしは路地裏に倒れていた。

狭い壁に黒い空が聳えている。

身体が、重い。

わたしの身体じゃないみたいだ。


そ、そうだ。たしかにわたしの身体じゃない。わたしは日本人だ。褐色の肌じゃないし、服はこんな黒いシャツに、ぶかぶかの黒いローブなんて着てなかったし。じゃあこれは? わたしは誰なの?

思い出せない……かろうじて思いだせるのが、わたしが酷い病気だったことと、死ぬ間際の記憶と、それと、

「編み物がしたい」

それだけだ。


 ゆっくりと起き上がる。頭の奥がぼんやりしていた。

雨が降った後なのか、鉛色の水溜りにわたしの顔を映す。

フードをのけると、褐色の肌に、ウェーブのかかった金髪。赤いリップが唇を彩っている。さらにこれでもかというほどの豊満な胸にくびれ。まさに夢のボディ。


誰やこれ。誰やこれ!(大事なことなので二度言った)

こんなのわたしじゃない。じゃあ、この顔は?体は?誰かに憑依した、って言うのかな? なら、この身体の主は、今はわたし?


「わたしの名前は、アトラス……」


ふと口に出た言葉を聞いた瞬間、わたしに「わたしではない」記憶が流れてきた。あまりの衝撃に、しゃがみこむ。

アトラス。それがわたしの名前。この世界で生きるフリーの殺し屋だ。ついさっきも、仕事を終えてきたところだった。


ここは日本ではない。日本とは違う世界にある、ゾーラス帝国の帝都。

つまり、ここは異世界ってことだ。


は、と横に光るものを見た。

かぎ針だ。わたしが愛用していたかぎ針。

それと、白い毛糸玉。

死ぬ二日前に、お母さんが窓辺に置いてくれたもの。


 わたしはかぎ針と毛糸玉を手にとると立ち上がり、フードを深々とかぶって雑踏の中へ身を投げ入れた。ゾーラス帝国は、名前だけあってこれでもかと人が多く紛れやすい。そのまま誰も見向きしないであろう小さな宿屋に泊まると、ベッドに体を預けてしばらく天井を見つめた。


「ウソ、だよね?」


死んだと思ったら、異世界の殺し屋になっているなんて。

これからわたし、どうしたらいいの?

どう生きていけばいい?

わたしに殺しなんてできないよ。

不安でうっすらと涙が浮かぶ。空は夕暮れで、不思議な形の月が輝き始めていた。


「……編み物、したいな」


ずっとずっと願っていた事。

元気になって、たくさん編み物をしたい。

死ぬことを気にせず、のびのびと生きたい。

静かな場所で穏やかに暮らしたい。

日は暮れ、月が本格的に輝き出した。

月明かりがわたしを照らす。


かぎ針と、毛糸玉も。


おもむろに起き上がると、かぎ針と毛糸玉にそっと指先を置いた。

毛糸玉から糸を出し、ゆっくりと編み出す。

そう。そうだ、この感じ。

わたしは夢中で編み続けた。

久しぶりに編んだから、練習がてらただただコースターを作り続けた。さまざまな編み方で。


 朝には、毛糸玉がなくなってしまった。

でも、気分はなんだかスッキリしている。


「なったものはしょうがないよね」


わたしはうんうんとうなずいた。

アトラスは貧しい孤児の少女だった。極貧生活に嫌気が差し、孤児院を飛び出し裏の世界に足を踏み入れた。

それもこれも、生き抜く為。

そのためなら、人を傷つけ、殺しても……生きるためだと情を捨てた。


でも、もうそんなことをしなくても良いとわたしは思う。

だってわたしは、アトラスであって、アトラスではない。

死んで、また、生まれ変わった。

今度こそ好きに生きよう。編み物をしなが、のんびり暮らすんだ。

朝一番に、わたしは帝都を出た。馬車にゆられながら、帝国から離れていく。

目指すは、故郷のカルゼイン王国。

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