第 一 章 想いに墜ちる太陽

第一話 僕はヵの人に恋をする

 僕、源太陽は師父、藤原洸大氏の奨めで日本を離れ、本国と政治的なつながりの強い国の一つ、シンガポールの地へ渡ってきていた。僕の勤め先は藤原医学研究所。おもにそこで研究する方々の精神衛生と健康管理を見る医者の役目を任されました。新任であり、多国籍な職場でまだ、医者としても未熟な僕を誰もが快く受け入れてくれるとても環境の良い処だった。

 仕事として、やりがいがとてもあって更に日本を離れる事により、国内じゃ見えない自国の良き処、悪しき所も見聞出来て洸大氏の言った通り、とても有意義だった。本当にここで勤められる事を嬉しく思っていた。更に・・・。

 僕は医務室で各職員の健康状態を示した表や薬品棚内常備薬の在庫確認や医療具の手入れ、仕事中で怪我をした職員方の手当や体調が思わしくないと申し出る方の診断などが主な日課でした。でも、あまり、怪我人や病院が多くはないので、雑事を片づけてしまうと暇な時が多いのが事実でした。

 仕事中暇なときでも時間を無駄にする事はせず、新しい医学の勉学に励んでいました。そして、今もそうしている処で、医学書を読み続けていた事で疲れた目を休ませるために瞼を閉じ、目頭周辺を揉み解しました。

 大きな欠伸を一回し、身体を反らし、両腕を広げ伸ばしてから、閉じていた瞼を再び、開いて、逆さに見える窓の方を向いていました。開け放たれた窓から注ぐそよ風が束ねていた飾り幕(カーテン)を小さく靡かせ、その風が僕の方まで軟らかく吹き抜けていました。

 意味もなく、小さくため息を吐いた僕は椅子からゆっくり立ち上がって、窓の方へ歩み寄り、枠に体を凭れ掛けさせて、外の景色を眺めました。手入れされた緑地が広く見える研究所内。今僕が見ている景色、それが少なからず、職員達の精神を安定させる清涼効果があるのではと思えるほどの風景が望めるそんな場所でした。

 あちら、こちら、眺めていると木陰の下にいる小さな生き物が僕の眼の中に飛び込んできました。興味を惹かれてしまった僕は医務室を出て外出に磁石板を合わせると、その木陰へと向かいました。

 医務室からそこまでの距離は回り込む様な感じでしたからちょっと離れていまして、僕がそこに到着した頃には先約がいました。

 木陰の下の芝生へ嫋やかに座り、その膝の上に乗せられ気持ち良さそうに眠っているのか眼を閉じている小動物・・・、小さな生後間もないだろう猫。

 膝の上に仔猫を乗せている人が僕に気が付き僕の方へ顔を向けると淑やかに微笑んだ。慌てて僕は持っている物を裏に隠し、少しばかり顔を赤くしてしまって挙動不審者の様にきょろきょろとあたりを見回してしまいました。その僕の仕草にくすりと小さく笑うその人。余計に顔を赤くしてしまいうつむいてしまう。そんな僕へ、

「太陽君も、この子に会いにきてくださったの?」と優しくも、柔らかい声で話しかけてくれました。

「そのような処に、立っていないで、こちらに来てくださいな」

 その呼びかけに申し訳なさそうに歩み寄った僕は、

「とっ、隣いいですか?」

「遠慮なさらずに、どうぞ、お座りください」

「すっ、すいません」

 意味もなく謝る僕へまた小さく笑うその人の隣に座り、その人の膝の上で眠る仔猫の頭を撫でてみた。仔猫なのに人慣れしているのか大きな欠伸をすると僕へ物欲しそうな愛らしい表情を見せてくれました。僕はその愛くるしさに負け、持ってきた物を取り出す。

 冷蔵室から持ってきた牛乳と針の付いていない口が大きい注射器。僕は注射器の先端を牛乳の入った瓶に浸し喞子(ピストン)を引いて、適量の牛乳を気筒(シリンダー)に満たして、その仔猫の口に当てようとした時に、

「駄目ですよ、太陽君。冷たいままのミルクはこの子のお腹を壊してしまうわ」

「判っています。持ってくる間に温まっています」

「それなら、いいのですけど」

 ちょっとだけ、不満げな顔でむすっとしても、その人の顔は微笑んだままでした。ゆっくりゆっくりと注射器の目盛りをみながら、喞子(ピストン)をおして、仔猫に牛乳を与え、その子のお腹を満たしてゆく。気筒から牛乳が無くなった時、仔猫が数回の空泡(げっぷ)をするとお腹いっぱいで満足しましたという表現の顔を作り、また眠たそうな仕草をし、その人の膝で眠ろうとした。眠ろうとする仔猫の喉を撫でやるその人。とその時、遠くの方からその人の名を呼ぶ声が届いてきました。でも、その人はその声に慌てもせず、仔猫を撫で続ける。

 やがて声が僕等の方へ近づき、

「詩乃さん、こんな処にいらしたのですか、もう、仕事をおさぼりして・・・」

「美鈴ちゃん、私はおさぼりなんてしていませんわよ、少し休憩をしている処です」

 僅かだけ見幕な顔を作る人へ、仔猫を抱きかかえる人はまったくの自分の行動は悪くないと疑わない表情?微笑んだまま、言葉を返していました。

 そんな彼女の顔を見た相手は呆れんばかりに溜息をして、

「判りました・・・。それよりも、会議が始まるのですよ。急いでください。いつもごめんなさい、太陽さん、この子をつれていきます」

「ぼっ、僕に断りなんか入れないでください。たまたま同じ場所に居ただけですから」

「詩乃、行かなければいけないみたいですね。この子、よろしくお願いします」

 彼女に胴を両腕でだかれて、下半身をぶらりとさせても目を覚まさない仔猫。その子を受け取り、正座をしている膝の上に乗せた。

「それじゃ、またね」

「それでは」と丁寧に頭を下げる彼女を迎えに来た人。その人は彼女の手を引き、足早に僕に背を向け去ってゆく。向こうへ行ってしまう際、彼女、猫と戯れていた人は僕へ振り返り、微笑んでくれました・・・・。その人、彼女の名は藤宮詩乃さん。ここの生命応用研究部の職員です。紐の切れた風船のようにいつも漂々としている人ですが、仕事の評定は健やかな方です。で、彼女を連れ立った方は詩乃さんと同じ部署の主任であり、ここ藤原医学研究所の所長でもありました。

 僕はまだ起きない仔猫の頭を一撫でするとその子を抱えて、医務室へと戻った。僕はその仔猫を飼う気でいます。この子が可愛いのも無論ですけど僕の処へ来てくださる患者が猫嫌いでなければ、医務室に来る事で緊張するその方の精神も和らぐ事が出来るとい言う理由からです。猫じゃなくて、犬でもよかったのですが僕の好きな犬種がこのシンガポールの地では手に入らない。

 医務室に戻った僕は机の中にたまたま在った鈴を取り出し、手ごろな紐でくくると毛布の上でまだ寝ている仔猫に掛けてあげました。いずれちゃんとした物を買ってあげましょう。躾に関しては医療機器研究部のアレニウス(Arrhenius)さんにでも聞きましょう。あの方は自宅に十匹も飼っている方ですから、その知識は豊富なはず。

 そのような事を想いながら、寝ている仔猫の喉を撫でました。ああ、そうです、ここに来る方で猫が嫌いな方が何人かいましたから、その時は注意しなくてはなりませんね・・・。それと名前、どうしましょうか?仕事を再開しながら仔猫の名前を考え、決まったのは就業時間の頃でした。寝ている仔猫を見て安易に『音夢』と名付けてしまう僕でした。

 僕の就業時間午後八時。自宅はありません、物をため込む性格でもないです。ですから、借家とかでなく、医務室の隣の空き部屋を藤原所長に頭を下げて貸していただいています。隣に移動しようと仔猫を抱きかかえた時に大きな欠伸をして、僕の腕の中で体を伸ばすと物欲しそうに小さく啼きました。僕は仔猫の頭を撫でながら隣の部屋にむかう。そんな、こんなで、僕と音夢の生活が始まった。

 音夢の人気は好評で飼い主の僕以上に仕事の合間を見て世話をしてくれる職員も居ました。今日中に提出しなければならない書類をまとめ、出来たそれを封筒に詰め綴じる。一段落した処で僕の様子を窺ってうろうろしている音夢の処に向かうとその子も僕の方へ走り、鈴を鳴らしながら向かってきました。一回啼いてからしゃがんだ僕の腕を這いあがり、頭の上に登って、また一啼きする。僕は立ち上がりながらその子を両手でつかみ抱き上げた。ごろごろ啼きながら僕の腕に頬擦りする音夢。その愛らしさに僕は小さくほほ笑んでいました。そんな仔猫をしばらく眺めていると、医務室の戸が横にずれ、誰かが入って来るのが見えました。僕も音夢もそちらへ顔を向ける。音夢は母親を見つけんばかりの勢いで僕の腕から飛び柔らに床の上へ降り、その人の方へ鈴を鳴らしながら駆け寄っては足元をぐるぐる回り、体を磨り寄せていた。その人、藤宮詩乃さんはそろえた足、スカートを抑える様にしゃがみ込み、音夢の頭を撫でやりながら、僕の方を向いて、微笑んでいました。詩乃さんの表情を見た僕の胸の内がどくんと跳ね上がり、顔を紅くして、座っていた回転椅子を回して、背をそむけ窓の外を見てしまいました。

 そっちを向いてしまった僕は背中でどんな詩乃さんがどんな表情をしているのかも知らないし、どんな事をしようとしているのかも判るはずがなかった。詩乃さんはゆっくりと足音を立てない様に僕の方へ近づくと、

「にやぁ~~~」と茶目っ気のある声を上げながら、僕の首に腕を回すとその人は僕へ頬擦りをしたのです。薄化粧でその化粧の香りよりも肩から少し上に流れる髪の甘い香りが僕を必要以上に動揺させ、体を硬直させてしまいました。詩乃さんのその行動は僕にだけ向ける特別な物ではありません。異性問わず詩乃さんの親しい方なら誰にでもしてしまう様な触れ合いでした。それでも、僕にとっては・・・。詩乃さんが僕にそうするのを見て、音夢も僕の方へ寄って来ると踝のあたりへ頬を磨り寄せていました。

「しっ、詩乃さん、やっ、やめてください」

「ええぇ~、やぁ~~~、だって、太陽君ってかわいいんですもの」

「ぼっ、僕はかっ、可愛くなんてありませんよ。おっ、男の僕に失礼じゃないですか」

「そんなことないのになぁ、でも、やぁあ」と言いつつまた僕へ頬ずる詩乃さんから逃れる様に身もだえしながら、

「いっ、いったい、どんな御用で、ここへ来られたのですか?」

「うん?もうお昼ですよ、太陽君、皆とお昼一緒にしましょうってお誘いに来たのです」

「いいです、僕はお昼食べませんから」

「だめですよ、医者の不養生は」

 詩乃さんは僕の言っている事など全く無視して、僕の手を掴むと歩き始めてしまいました。僕達と一緒に当たり前の様に着いてくる音夢。

「ちょっと、まってくださいって詩乃さん。僕はお昼用意していないのですから。それに音夢にもお昼上げないと」

「気にしなくて大丈夫ですわ」

 小会議室へ連れて行かれた僕はその中に入ると詩乃さんと最も仲の良いと思われる男女入り混じる職員達が弁当を広げ待っていた。僕はその場に居る人達に頭を下げながら挨拶をすると、音夢が円卓の上に飛び乗り、詩乃さんと仲のいい職員の一人、プラハリッサさんの処へ歩み寄り、一声上げました。

 プラハリッサ・シェーンベルグ(Prague-lissa-Schonberg)は音夢の喉を撫でてから、開けていたポテトチップの袋から大きい形の物を一枚取り出し、それを割って音夢の口元あたりに出す。音夢は嫌がりもしないで、それを口の中に頬張りました。

「私達も食べましょう・・・、はい、太陽君の分ですよ。しっかり、栄養を取って皆の健康を見てください」

「いいなぁ、詩乃さんに弁当作ってもらえるなんて」

 既に弁当に箸を付け始めた職員の一人がからかうような表情と一緒にそんな言葉を投げる。

「いいですよ、べつに・・・」

「そんな子供みたいに我儘を言わないでください。詩乃を困らせないでくださいね、クスっ」

 おどける詩乃さんとその反応に表情を紅く染める僕。それと僕達を楽しそうに見ながら、食事を始めた職員方。既に席についている詩乃さんはここへ座りなさいと、場所を指で示し、もう従うしかないと思った僕はそこへ座りました。詩乃さんの隣の藤原所長が笑顔で、

「太陽さん、詩乃さんが我がまま言って申し訳ございませんね。でも、この子の言うとおり、ちゃんと食事はとらないといけませんよ」

 僕は所長の言葉におずおずと頭を下げ、既に詩乃さんが広げてくれていた弁当を頂こうとした。

「詩音、程じゃないですけど」

「シオンさん?どなたですか?」

「詩乃の双子のお姉さんよ。双子姉妹なのにお姉さんは何でも出来てしまって、嫉妬してしまうわ」

 嫉妬すると言いながらもまったくそんな感情を微塵も浮かばせない笑顔でそう口にする詩乃さんがおかしくて、小さく笑いながら、その人が作ってくれた料理に箸を伸ばす。その土地固有の調味料以外の食材はどの国に居ても殆ど揃ってしまう。そんな理由かは知りませんけど、詩乃さんが僕へ下さったお弁当のおかずは和風でした。小さな重箱の中に小分けで煮物、卵焼き、肉野菜炒め、きんぴらや胡瓜の漬物等の付け合わせ、俵型の御握り。まるで幕の内弁当の様な品数。作るのも大変だろうと思う手の込んだものもあり、感謝の言葉を口にしない訳にはいかなかった。でもまず謝意よりも先に口にしなければならない言葉、それは、

「詩乃さん、とっても美味しいです。先ほどの言葉、お姉さんの方が凄いというのは謙遜だと思います」

「褒めて頂きありがとうね、太陽君。でも、嫌いなものがあったら無理して食べなくていいですから」

 僕は詩乃さんのその言葉に顔を小さく横に振る。僕は食品アレルギーもなければ、好き嫌いもありません。イナゴの佃煮だって、蟻の甘唐揚げだって食べますよ。それから、僕がその弁当を半分くらいになった頃、円卓を一回り、皆様方から、少しずつ食べ物を貰って帰って来た音夢が詩乃さんの前に姿勢の良い姿で立ち止りました。

 詩乃さんは腕を伸ばし音夢の首にぶら下がる鈴を左の人差し指で鳴らす。それと一緒に啼き声をあげる仔猫。詩乃さんは中鉢と小鉢の間くらいの大きさの器を出すと保温瓶を取り出し、そこへ牛乳を注いだ。

 嬉しそうに喉を鳴らす音夢はゆっくりとその鉢によってくると口を付けなめ始めました。そんな姿を頬杖で嬉しそうに眺める詩乃さん。食事が終わっているその人を瞳だけに動かして、音夢と遊ぶ彼女を覗く僕がいた。半分くらい音夢がそれを飲んだ時に茹でた笹身をまた別の容器から取り出して、長く細く割いて、仔猫の鼻のあたりを擽ると音夢はそれをもしゃもしゃと食べ始めました。多くの日本人は知らないと思いますけど、猫は肉食ですから、魚よりも肉を好みます。日本では猫が一般の家庭に飼われ始めた江戸時代に肉よりも魚を食べる文化だったから、猫に与える食べ物が魚だった為にそれが定着して今に至っていると日本人でないアレニウスさんが言っておりました。

 米粒、胡麻粒も残さずに重箱の中をきれいにすると、

「詩乃さん、御馳走様でした」と言葉にして謝意を述べた。

「どういたしまして、明日も作ってきて差し上げますね、太陽君」

「いいえ、結構です。詩乃さんのお手を煩わせたくありませんから」

「何か、そう言われてしまいますと余計に作ってきてあげたくなってしまいますねぇ」

 悪戯な笑みを溢しながらそう言う詩乃さんでした。

「詩乃さん、貴女も藤宮家の方なら、太陽さんをからかってはダメですからね」

 藤原所長はお茶を一口すすった後、軽く諫める口調で詩乃さんへ告げますが、彼女は全く気にしていない風でした。僕の源家と藤原、藤宮、隼瀬の三家とは古くからの縁があり、僕が今こうしてこの世に居るのも藤原家の加護がある故だと実感しています。僕の家柄はかなり特殊な位置にあり、本来なら僕がもうその特殊な家柄を継がないといけないのですが、母が僕と妹を宿した時に亡き父から預かった物を所有し、現世とは逸脱した職に就いています。所長は僕を特別扱いしようとしますけど、詩乃さんは僕を純粋に同僚として見てくれていました。

 猫の様に気まぐれな性格な処があり、詩乃さんが僕へお弁当を作ってくれるという事は彼女自身が口にしたように毎日ではありませんけど、作っていただいた時は心の底から嬉しく思い、食べてしまうのがもったいなく思えるほどでした。

 僕にとって詩乃さんとの会話やそういった触れ合いは春の陽気を生み出す太陽の下、木陰の芝生で昼寝をするような心地よさでした。詩乃さんと一緒に居る時間がとてもうれしかった。詩乃さんと過ごす時間、時の流れが僕の心を徐々に彼女の方へ傾かせてゆく。彼女が僕の事をどう思っているのかは分からないですけど、僕は詩乃さんに恋心を持ってしまったのは間違いありません。

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