牡丹さんと宗冴くん

伍紀

第1話 牡丹さんのこと


 世の中には考えてもどうにもならないことや、しょうがないことが多すぎる。

 自分に降りかかってくる悲しいことや怖いこと。

 考えるほどに不安が大きくなり、気持ちが沈んで嫌なことばかり考えてしまう。

 なら『なんとかなるさ』という、無責任なくらいの気楽さであまり考え込まない方がいい。

 いつの頃からか、宿木やどりぎ牡丹ぼたんはそんな風に考えるようになっていた。

 できるだけ機嫌よく笑っていようと決めた。

 その甲斐あってか母親が早くに亡くなり一人で頑張っている父や、人見知りで友達を作るのが下手だった弟のせいが悩んでいるときに、

『牡丹の能天気な顔を見るとホッとする』と、言われた。

 大事な家族がそう言ってくれたことは嬉しかったし、牡丹自身もホッとした。

 それにもう一人。

 家族ではないけれども、大事な子。

 本当なら両親に甘えて我儘を言っていてもいいくらいの年齢だというのに、どんなに寂しくても辛くても口を真一文字に結んで、泣くのを我慢している少年。

『牡丹の笑った顔を見ると落ち着く』

 彼がそう言って初めて微笑んでくれた時、すごく嬉しかった。

 だから牡丹は悩まない、考え込まない。

 そう決めていた。


***


 今日も定時で仕事を終え、帰路につくことができそうだ。

 フロアに視線をめぐらせて、お客様が少ないことを確認する。遅番のバイトさんはとっくに出勤しているし、問題なさそうだ。

「それじゃ、私、あがりますね」

 カウンターにいたバイトさんに声をかけると、

「はーい、お疲れ様です」と返事が返ってくる。

 バックヤードに入り、廊下を歩いて奥の事務所に向かう。

 扉を開けて

那賀ながさん、上がります」と、声をかけると事務所の那賀さんがパソコンの画面から顔をあげた。

「宿木さん、お疲れ様」と、柔和な笑みを浮かべる。

 今年、お子さんが大学に進学したという那賀さんはどこか穏やかな表情だ。

 実際に「これで一安心」と、春先はよく呟いていた。

「お店の方、どう?」

「落ち着いていますし、バイトさんも来てくれているので帰ります」

「はいはい、よかった。新人さんたちどう?」

 聞かれて、少し考える。

 今年の4月から産休になった販売担当の代わりにパートさん一人と、バイトさん一人が入った。

 そろそろ7月も終わるので、仕事にもだいぶ慣れてきたところだ。

 仕事に慣れるまではとヘルプで販売のお手伝いをしていたが、もう彼女たちだけで大丈夫だろう。

「私は問題ないと思います。ふたりとも特にこちらがお願いしなくても自分で考えて動いてくれていて助かっています」

「それなら宿木さん。そろそろ事務所に戻ってきてもらっていいかしらね」

 那賀さんはそう言って肩を丸めた。

「事務所も結構大変なのよ、一人だと」

「社長に聞いてみましょうか、明日」

 小さな手芸店ではあるが、販売以外にも編み物教室や子供の手芸イベントを企画することもある。

 それなりに忙しいといえば、忙しいのだ。

 ともかくスタッフのことは明日社長に相談してみようと言うことで相談を終えて、事務所を出る。

 ロッカールームに入って着替え、店の裏から外に一歩踏み出す。

 むっと熱気が身体を包んで、それだけで体力を削られるようだった。

 まだ7月。

 これからまだまだ暑くなるだろうに、バテている場合ではない。

 今晩は何にしよう。何か元気の出るものを食べなくては。

 お父さんは多分残業で犀はバイトで少し遅くなるっていっていた。でも、夕飯は食べるだろうし。

 駅前の繁華街を通り抜けながら、スーパーに向かう。

 ちょうど電車が着いたのだろうか。

 駅の改札から人が流れてきて、その流れに飲み込まれるように歩く。

 人ごみのせいで余計に暑さなった気がする。

 もう、大分暗くなってきたところだというのに、この暑さ……。

 小さくため息をつき、熱気のこもる空気に少し気が遠くなりかけた。

 その時、ふいに腕を掴まれた。

「……っ、」

 不意打ちだったので驚いて顔をあげると、そこには見知った顔があった。

 濃紺のポロシャツにスラックスという制服姿。背中には黒のスリムなバックパックの青年。

 真っ黒で長めの前髪から切れ長の目が覗いている。鼻梁がすっとしていて、唇が薄い。無表情で無愛想な表情が本来彼の性格より、強面で冷たい印象を与えている。

宗冴しゅうごくん」

 家族も同然の幼馴染、筒路つつじ宗冴しゅうごだったことがわかってほっとして微笑む。

「びっくりした、いま帰り?」

「『びっくりした』はこっちのセリフ。なにふらふらしてんの?」

 無愛想な低い声音。

「私、ふらふらしてた?」

「うん、後ろから見ていて倒れるかと思った」

「ちゃんと歩いているつもりなんだけど。今日は特別暑いね」

 苦笑して答える。

「仕事の帰り?」

「そう。宗冴くんは? 部活はもう引退したんでしょ?」

「補習」

 短く答える宗冴は、牡丹の腕をつかんで離さない。

 こんなに暑いのに宗冴の手は、硬くて少し乾いていた。二の腕に触れている長い指から体温が伝わってくる。

 不快じゃないけど、腕を掴んで連れていかれているみたいで恥ずかしい。

「一人でも歩けるよ」

 腕を離してほしいと言外に含ませるが、しばらく腕をつかんでいる手は離れなかった。

 ふらついていたかもしれないけど、いくらなんでも心配しすぎだ。

「宗冴くん、手」

 不満を込めてじっと見上げると、渋々という様に手を離してくれた。

 その代わり腰に手が回る。

「宗冴くん、これじゃ介助だよ。一人で歩けるって」

 どれだけ頼りないと思われているのか。

 だいたい、そこまで足元が怪しいはずはないのに。

 だが牡丹の抗議などまるで聞こえないように、

「これから買い物?」と、聞いてくる。

 あまり表情に出ないし声音も低く淡々としているから不愛想に見えるが、本当はとても気遣いのできる優しい子だ。

「そう、スーパーによらなきゃ」

「俺にも何か食べさせて」

 耳元に顔を寄せて甘えてくる。

身長が伸びても声変わりしても、こういうところは変わらない。

『お腹すいた』

 ひな鳥のような眼で牡丹を見上げていた頃を思い出す。

 大きくなっても懐いてくれるのは嬉しいし、微笑ましい。

「いいよ。何が食べたい?」

「なんでもいい。牡丹のごはんなら、なんでもうまいから」

「そういうのが一番困るんだけど」

「ともかく腹減ったから、なんか食わせて」

 本当につらそうに言われて、つい笑ってしまった。

「とりあえずスーパーに行って、それから決めようか」

「ん」

 宗冴は素直に頷いた。

 予想外に荷物持ちが増えたことは、ラッキーと言えばラッキーだった。


***


 宿木家の隣に筒路家が引っ越してきたのは、ちょうど牡丹の母が亡くなって3年目のことだった。

 母親が亡くなってどうしたらいいのか判らなかった宿木家がやっと落ち着いた頃。

 中学生だった牡丹が家に帰ってくると、お隣の玄関先に大きな荷物と細長いバック。制服を来た少年が立っていた。

 細長いバックは竹刀袋で大きな荷物は防具袋だったが、その時の牡丹はあまり剣道に詳しくなくて何の荷物かわからなかった。

 確かお隣の宗冴くん。……だったっけ?

 意志の強そうな眼と硬い表情が印象的だった。

 家に入るでもなく玄関先で立ち尽くしていたが、やがて何かをあきらめるようにその場に座り込んだ。

 え?

 もしかして家に入れない?

「宗冴くん、だよね? どうしたの」

 つい、声をかけてしまった。

 自分の家の玄関を素通りして、お隣の門前まで行くと、彼はじっと牡丹を見た。

「えっと、お隣の宿木です。覚えてないかな? お母さんと一緒に引っ越しのあいさつに来てくれた時に、一度会ってるんだけど」

 なるべく不審にならないように笑みを浮かべながら言うと、彼はふっと視線をそらした。

 あ、不審者だと思われてるかも。

「私、いま学校から戻ってきたところなんだけど、宗冴くん、おうちに入らないの?」

 返事はない。

 これは本気で余計なお世話だったかも。

 小さい子だからと言って、気安すぎたかな。

「鍵が」

「え?」

「新しい家の鍵を忘れて」

 あ、やっぱりおうちに入れないのか。

 現在4時を回ったところだ。

 たしか共働きなので……と、引っ越しの挨拶の際にお母さんが言っていた気がする。

「おうちの人ってすぐに帰ってくる?」

 念のために聞いてみると

「父も母も遅いと思います」と、小学生にしてはきちっとした言葉遣いの返事が返ってきた。

 彼の着ている制服が、この近所では有名な私立小学校のものであることに妙に納得する。

「そしたら、おうちの人が戻ってくるまでウチで待っていたら?」

 そういうとしばらく反応がなかった。

 人見知りなのかも。

 弟の犀の反応によく似ている。

 弟は大学生になった今でこそ友達も増えて彼女もいるみたいだが、中学校の半ばまでは人見知りであまり人を寄せ付けなかった。

 宗冴もそうだとしたら、外で待っている方がいいかもしれないけど、

 牡丹の父親が残業して帰っているとだいたい夜の8時くらいになる。もし宗冴の家の両親がそれくらいまで帰ってこないとなると、彼はその間ずっと玄関先に座り込むことになるのだ。

 それはちょっとあんまりだと思う。

 でも、あんまり無理強いはできないのかな。

 牡丹が反応の薄い宗冴を前に、ぐるぐると考えていると

「ありがとうございます」という、小さな声が聞こえた。

 この場合のありがとうございますは、うちに来てくれるってことでいいんだよね。

 そう思いながら

「それじゃ、うちで待ってようか」といって、踵を返すと大きい荷物を手に着いてきてくれた。

 よかった。

 家に連れて帰った宗冴は借りてきた猫より大人しく、牡丹も何を話したらいいかわからなくて戸惑ったのをよく覚えている。

 その後、犀が帰ってきて、最初はお互いに話すこともなく一緒にテレビを見ていたのが、ご飯を食べて牡丹も一緒になってゲームをする頃には、けっこう打ち解けて遊んでいたように思う。

 そして外もすっかり暗くなって9時も過ぎた頃に、宗冴のスマホが鳴った。

 スマホが鳴ったことで初めてお隣の電気がついたことに気が付いて、さらにおうちの人に連絡を入れているのを忘れていたことに青ざめた。

 慌ててお隣に宗冴君と一緒に戻り、行方不明にしてしまったことを謝ったが、事情を話すと逆に非常に感謝された。

 そしてその騒ぎの中、宿木家の父が帰宅し事情を聞くと、さらに父が遅くまで宗冴を家に留めてしまったことを謝罪をするというなんだかよくわからない状況になった。

 ともかくその一件以来、筒路家と宿木家は一気に仲良くなり、宗冴と犀はたまに家で遊んだりしていたようだった。

 いつもではないが牡丹も一緒にゲームをしたりテレビをみたりすることがあったが、ある時を境に疎遠になった。

 宗冴が中学生くらいの頃だったと思う。

 あまり姿を見せなくなり、高校に入る頃にまた宿木家に出入りするようになった。

 最近は犀がいるとかいないとか関係なく遊びに来ることも多い。

 主にご飯を食べたり昼寝にきたりという感じだからだろう。

 多分、海外出張が多い両親の留守の間に、いろいろ面倒になると宿木家に来る。

 そういう一時避難所みたいな所になっているなら、それはそれでいいと思っていた。


***


「ご飯できたよ」

 ソファでうたたねをしていた宗冴をのぞき込んで言うと、眠そうに目を開いた。

「いい匂い」

 ソファに横になっていた宗冴は身体を起こすと、寝ぼけているのかぼそりと呟いたまま動かない。

「ご飯できたってば」

 宗冴の正面から覗き込んでいると、「牡丹」と眠そうな声で名前を呼ばれて両手を差し出してくる。

「はいはい」

 寝ぼけた宗冴がよくやる癖だ。

「宗冴くん、起きて」

 宗冴を抱きしめてよしよしと頭を撫でる。宗冴は牡丹の胸に顔をうずめてされるがままになっている。

「眠い」

「そうだね。でもご飯だから起きて。冷めちゃうよ」

 人を起こす時には決して怒ってはいけない。

 母親がいなくなってから、犀を起こすために覚えた技の一つだった。

 ひたすら優しく声をかけて、朝食とか今日の楽しみな予定とか、そういうもので注意を引いて起こす方が素直に起きる。それに起きた後の機嫌もいい。

 宗冴も例外ではなかった。

 寝起きが悪いというわけではないが、宗冴は眠りが深い。泊まりに来るとなかなか起きないことが多い。

 いまもまだまどろんでいるのか、牡丹に身体を預けて身じろぎしている。胸に顔を押し付けるのがくすぐったくて、ちょっと笑ってしまう。

 大きくなっても子供の時と仕草はあんまり変わらない。

 以前、見に行った剣道の試合では凛々しくてちょっと怖いくらいだった。知らない男の人みたいで違和感がぬぐえなかったのに、こうしていると小学生の時のままなのだ。

 かわいいなあ。

「リクエストの油淋鶏ユーリンチー麻婆豆腐マーボードウフだよ。食後に杏仁豆腐アンニンドウフもあるよ。冷める前に一緒に食べよう」

 前下がりにカットされた長い前髪の間から切れ長の目が見える。

 瞼は閉じられたままで、いっこうに開く気配がない。

 ふと撫でていた頭が2ブロックの刈り上げたあたりに触れて、その撫でた感触が意外に気持ちよかった。

 ショリショリと指先で撫で続ける。

 こそばゆくて気持ちいい。

 これは美容室に行った直後かもしれない。

 刈上げたあたりを撫でていると、宗冴が観念したように顔をあげた。

「起きた?」

 笑って見せると、

「別のところが起きそうだった」と、ぼそりと呟く。

「別?」

「なんでもない。顔洗ってくる」

 身体を離して立ち上がる。そのあとに続いてダイニングキッチンに向かう。

「ごはん分けちゃうから、早くね」

「んー」

 まだ眠そうな声を出しているが、顔を洗ってくればすっきりした顔で戻ってくるだろう。

 テーブルに配膳し終わると、ちょうど良いタイミングで戻ってくる。

 宗冴の席は決まっていて、牡丹の正面に座る。

「いただきます」

「はい、どうぞ」

 いつものやり取りをしてから、食事を始める。

 宗冴は腹が減ったと言っていただけに、猛然とした勢いで食事をしていたが、やはり躾がきちんとしているせいで食べ方が綺麗だ。

「トマト、少ししか分けてないから残したらダメだよ」

「残さない」

 宗冴は卵スープに入ったトマトを口にいれる。

 最初、宗冴はトマトが食べられなかった。

 だが、過熱して調理してしまえば食べることができるとわかって以来、少しずつだが炒め物に入れたり、スープに入れたりしている。

「俺、ここで食事するようになってから、好き嫌い少なくなった」

「エライ偉い。やっぱり、好き嫌いがない子の方がかっこいいものね」

 犀にも散々言っている言葉を繰り返す。

「飯、おかわりしていい?」

「どうぞ、おかずももっとあるよ」

 手を差し出すと、宗冴が自分でやると立ちあがった。

 まさに勝手知ったる、他人の家。

 何でも自分でできるようになったなと、改めて感心する。

「受験勉強、進んでいる?」

「普通」

 普通って何? と思わないでもなかったが、宗冴のことだからちゃんとやっているのだろう。

 もともと宗冴は小さい頃から一人でいる時間が多かったせいか、あまり大人に頼る姿を見たことがなかった。

 なんでも一人で淡々とこなす癖がついている感じだ。

「明日から予備校の夏期講習だから、夕飯食べに来てもいい?」

「もしかすると、またふたりとも海外?」

「うん」

 ご両親は相変わらず仕事で忙しいようだ。

 宗冴を愛していないわけではない。

 たまに見る両親の宗冴の溺愛っぷりを見ると、それがよくわかる。だが、はたからみている牡丹の方が少し寂しい気持ちになる。

「いいよ。私もしばらく定時で帰れそうだから、予備校終わったらうちに直接おいでよ」

「ありがとう」

「どういたしまして。受験生なんだから、しっかりご飯食べて体力つけなくちゃね。あ、お昼とかちゃんと食べてる?」

「適当に」

「ちゃんと食べないと夏バテするよ。犀の時なんか大変だったんだから。夏バテで何も食べられないのに、夏期講習行ってぶっ倒れるし」

「俺は鍛えているから平気」

 そう言って、ぺろりと二人前は優にある食事を平らげた。

 これだけ綺麗に食べてもらえれば、作り甲斐もあるというものだ。

「俺が後片付けするよ」

「そう? それじゃ頼もうかな」

 遠慮なく片づけをお願いすると、牡丹は冷蔵庫から買っておいた杏仁豆腐と麦茶を用意した。

「マンゴーソースが乗ったやつと、ストロベリーのどっちにする?」

「牡丹が先に選んでいいよ」

「じゃ、マンゴーがいい。リビングに運んでおくね」

 お盆の上の杏仁豆腐と麦茶のグラスを乗せて、リビングに移動する。

 宿木家はリビングと犀の部屋にしかテレビがないので、くつろいでお茶という時はリビングに移動する。

 早々に二人分の食器を洗い終えた宗冴と並んでソファに座りながら、バラエティ番組を見るともなしにかけて杏仁豆腐を食べる。

「牡丹」

 名前を呼ばれて隣を見ると、とっくにデザートを食べ終わった宗冴が眠そうな顔をしている。

「いつもの、アレやって」

「え、ああ」

 牡丹が杏仁豆腐の器を持っていた手を少し上にあげると、ごろんとその膝の上に頭を乗せた。

 大分リラックスしているように見えたが、ムーっとなにか小さなうなり声をあげて両手で瞼の上から目を揉むようにこすっている。

 大分疲れているみたいだ。

 そういえば、ここ二週間くらい姿を見なかった。

「はあ……」

 膝の上からため息が聞こえてきた。

「宗冴くん」

 呼ぶと、目を開けて牡丹を見上げる。

「マンゴーの方も一口食べる?」

 答えの代わりに口を開いたので、スプーンですくって一口入れてあげる。

 大して味わうでもなく飲み込んだ様子を見ると、好みの味ではなかったかもしれない。

「甘い」

「そうだね」

「今日の麻婆豆腐おいしかった」

「そっか、よかった」

「また作って」

「いいよ」

 ほとんど意味のない受け答えとテレビの音を聞きながら、宗冴は気を失う様に寝てしまった。

 健やかな寝息を立てる宗冴の髪を撫でる。

「受験勉強、お疲れ様。頑張っていて、偉いよ、宗冴くん」

 牡丹はあっという間に大きくなってしまった、隣に住む弟分の端正な寝顔に微笑んだ。


***


「ただいま……、わっ、宗冴かよ」

 犀が帰ってきてリビングに入ってきた途端、ふたりを見てぎょっとした顔をする。

「お帰り。ごはんは?」

「食う。それより、久しぶりじゃん、宗冴」

 牡丹の膝で眠っている宗冴をソファの背もたれ側から覗き込む。

「会社の帰りに駅前で偶然会ったの。お腹すいたって言うから、ご飯食べさせたところ」

「へー、制服着て……補習?」

「うん。明日からは予備校の夏期講習だって」

「受験生っぽい夏だな」

 無責任に笑いながら、ダイニングキッチンに入っていく犀に声をかける。

「ごはん準備……」

「これ、レンジでチンすればいいんだろ。自分でできるし」

「ごめん」

 膝の代わりにクッションをおいて犀のご飯を用意してあげようとしたのだが、笑いながら止められてしまった。

「宗冴の甘えたモードの時に邪魔したら殺される」

 からかう様にいう声を聞きながら、宗冴の顔を見下ろす。

「大分疲れてるみたいなのよね。ごはん作っている間も寝ていたし、食べ終わってからも寝ちゃったし」

「大事な模試でもあったかな。自分の時のことなんてもう覚えてねーわ」

 犀が覚えていないくらいだから、牡丹だってもう記憶の彼方だ。そもそも牡丹は推薦で行ける、服飾の勉強ができる学校ならどこでもよかった。

 宗冴は頭がいいから、きっといろんな人に期待されているんだろう。

「体壊さないといいけど」

「最悪、ウチで食わせているんだから大丈夫だろ……。つか、姉ちゃん、この麻婆豆腐辛いんだけど!」

 ダイニングキッチンから、皿を手に犀が苦情を言いに来る。

「だって、それくらい辛い方が宗冴くんの好みだから」

「俺と父さん食えないからね、この辛さ」

 涙目で文句を言っている弟に、

「ごめんごめん。冷蔵庫にある杏仁豆腐も食べて」と、愛想笑いで答えると恨めし気に見られた。

「姉ちゃんは、宗冴に甘すぎるんだよ」

「あんたのことだって甘やかしてるでしょ」

「……甘やかしていることは否定しねーんだ」

 呆れた顔で戻っていく。

 甘やかしているという自覚はある。

 だって、かわいいんだもの。

 かわいくてかわいくてしょうがない。

 犀もかわいいけど、宗冴は年が離れているせいかそれとも素直に懐いてくれているせいか特別にかわいい。

 三人兄弟の末っ子ってかわいがられるっていうけど、こういう感じなのかもしれない。

 牡丹だって立ち仕事で一日終えて疲れている。

 それでもご飯作ってあげて、しかも膝枕までして。

 普通なら考えられない大サービス。

 恥ずかしながら彼氏なんていたことないけど、もし彼氏がいてもこんなに尽くせたか自信ない。

「どうしてこんなにかわいいんだろうね」

 端正な寝顔を見ながら誰にともなく小さく呟いた。


***


 そろそろ残業の父さんが帰ってくるかという頃、宗冴は目を覚ました。

「……そろそろ帰る」

 今度は比較的すっきりと目が覚めたのか。目が開かないということはなかったが、起き上がるとやはり牡丹に抱き着いた。

 先ほどは胸にすがりつく子供のようだったが、今度は胸の中に抱き込まれてしまう。

 大きくなったなあ。

 改めてしみじみ思った。

 広い背中を軽くたたきながら、

「面倒なら泊っていってもいいよ。犀の服借りて、布団もすぐに用意できるし」

「ん、いい。帰る」と、低いかすれた声で呟いた。

「あと、犀の服、もうきついから俺」

「え、うそ」

 確かに少し前から寸足らずかもと思っていたが。

「ホンットに、大きくなったね」

 感心して呟くと、宗冴が目を細める。

 たまにこういう大人の男の人みたいな笑い方をするようになった。

 時の流れって、早い。

 そんなことを考えていると2階から犀が降りてくる足音が響いてきた。お風呂でも入りに来たのかと廊下に視線を向けると、リビングの前を通りかかる犀と目があった。

「うわっ」と顔をゆがめる。

「お前、それ、そろそろやめろよ」

 犀の心底呆れた声に、宗冴がやっと顔を上げて牡丹の身体を離した。

「犀だって、牡丹にこうやって起こしてもらってんだろ」

 むっとした声に、犀が目をすがめる。

「俺がそれやっていたのは中学までだよ。いまはスマホのアラームで起きてますぅ」

 犀が胸を張るのに、牡丹が横から口をはさむ。

「え、違うでしょ。いまは二瀬さんに、電話で起こしてもらってるじゃない」

「二瀬?」

「犀の彼女。ショートカットで小さくてかわいいの」

「へー」

 大して驚いた様子もない宗冴だったが、犀の方が顔色を変えた。

「姉ちゃん、やめろよ。宗冴にそういうの教えるなって」

「別にいいじゃない」

「そうだよ、いいだろ」

「やだよ!お前ら面倒くさいもん。何かとからかってくるし」

「別にからかったりしてないわよ、でも気になるじゃない。弟の彼女」

「頼むから放っておいて」

 二人がわいわい言っている間に宗冴が立ち上がる。

 玄関に向かう宗冴の後についていき、ふたりで見送る感じになった。

「宗冴、泊っていくかと思った」

 靴を履くのを見ながら、犀がいうと

「際限なくなるから」と、答える。

 もしかしたら宿木家だと雑音が多くて勉強できないということだろうか。

 だとしたら、あまりしつこく誘うわけにもいかない。

「じゃ、また、明日」

「うん。あ、何か食べたいものあったら連絡して」

「わかった」

 そういって薄く微笑む。

 宗冴が出て行った後、視線を感じて横を見上げると犀がなんとも言えない顔をしていた。

 何がばつが悪いとでもいうのか、いたたまれないみたいな。

「何よ?」

「……姉ちゃんさー」

 犀の視線がさまよっている。

「あんまり宗冴のこと子供扱いすんなよな」

「してないよ」

 ……我ながら説得力がなかった。

「宗冴くんは家族みたいなものなんだから、大変な時くらい助けてあげたっていいじゃない」

「いーけどさ」

 ため息交じりに言って踵を返す。

「アイツももう立派なオトナなんだから、いつまでも小学生のつもりでべたべたすると周りは変な目で見られるぞ」

「それはそうかもしれないけど、ウチの中だけじゃない」

「宗冴だって、姉ちゃんがデロデロに甘やかしていると彼女もできねーじゃん」

「そんなことないわよ。作る気になればすぐにできるって。あんなに真面目で優しくてかっこいいんだから」

 胸を張って言うと、犀に呆れた顔をされた。

「だから、その『真面目で優しくてかっこいい』宗冴が彼女作んない理由考えたことあんのかよ?」

「いまはまだ欲しくないんじゃないの? この間まで、剣道に夢中だったし」

「もういーよ」

 この話は終わりというように背中を向けて

「俺、風呂入ってくるから」と、浴室に行ってしまった。

「……なによ」

 高校生くらいから犀はなんだか大人びてしまって、たまに牡丹には理解できないことを言う。

 それを寂しく感じるのは牡丹の我儘なのかもしれないが、それでもやっぱり寂しいものは寂しかった。

 それに比べて宗冴は見かけこそ大きく変わってしまったが、変わらずに牡丹に懐いてくれている。

 だからつい、宗冴のことは猫かわいがりしてしまうのだ。

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