the world is one's oyster

おもち

第1話


「海に行きたいね」

 そう言ったのは大学三年目の夏だった。そうだねと頷くから、計画を立てたのは秋になる少し前。残暑をやり過ごし、空が高くなったと思えば風が冷たくなり始め、あっという間に師走に突入。

 だって忙しいんだもん。漠然とした未来を前に右往左往の毎日に追われ、真新しいスーツに着られながら慣れないパンプスで痛む踵を擦る。就活って誰のためにするのかな。やりたいこと、なりたいもの、見つけてる人が羨ましく見えるのが嫌になっちゃうんだけど。


「……6:03発、3番ホームね」

 師走は早い。イルミネーションの灯る世界はクリスマスプレゼントに冬休みをくれた。その初日、早朝。私は切符を買って電車に乗ろうと駅にいる。家を出る時は真っ暗だった空だけど、今は東側から太陽が登り始めているおかげで少し明るい。

 久しぶりに改札に切符を吸い込ませ、受け取る。もちろん通学用定期のICカードは持ってる、でもこういうのは気分だと思う。握りしめた硬い紙の感触を味わいたいから手袋も外してる、ちょっと痛い、そして寒い。でもいいね、わくわくする。

 朝の空気、好きだな。優しさの欠片もない冷たさ、鋭さ、ぴんと張りつめてるみたいな緊張感。あ、電車が来た。

 人も疎らなホームに滑り込んだ電車が扉を開け、ぱらぱら人を吐き出し吸い込んでいく。吸い込まれた私は扉から離れた席を選んで座り、2つ先の駅まで目を瞑る。かたかた、ことこと、眠くなる音と振動が気持ちいい。冷えた身体に染み込む暖房、天国ってこんな近くにあったんだね。

 うっとりしてたら肩を叩かれ目蓋を持ち上げる。真っ白いマフラーとコート、濃いめグレーのタータンチェックのパンツ、太いヒールのショートブーツ、そんな服装で見慣れた顔が笑っていた。

「おはよう、寒いね」

「おはよ。ね、雪降りそう」

 同じ大学、同じ学部、同じく就活に疲れた友だち、海に行こうと約束した相手。緩く巻かれてる髪を珍しく結んでいるの、海風への対策?

 私は自分の黒いスキニーとぺたんこパンプスを見下ろし、キャメルのコートの裾を摘まんで内心で安堵のタメ息を吐く。

 好きじゃないけど染み付いた癖、とでも言えばいいのかな。背伸びしたい女の子たちは相手の服装と自分の服装を無意識に比べようとする。メイクも、髪色や髪型も、ネイルもね。で、おかしくないよねと安心するの。同じグループに似た服装が多いの、多分そんな理由もある、多分だけど。

「……やっと冬休みだよ」

「永遠に年が明けないでほしい……」

 座席に身体を預け、揺れる吊り革を目で追いながらのタメ息は重く、電車の音にまぎれて消えた。ああ、空気が澱む。これじゃお仕事に疲れた終電のサラリーマンだ、やりきれないなぁ。


 駅に着いて扉の開閉、人の乗り降りはほぼない状態が暫く続き、私たちも無言で景色を眺めるだけの人になってから幾つか目の駅に電車は滑り込んだ。

「あ、海の匂い」

「うわ、風冷たいね」

 扉が開いた瞬間に吹き込んだ風、あまりの冷たさに降りるのを躊躇ったのは私だけらしい。白い息を吐き出す彼女は楽しそうに笑い、先に立ってホームを歩いて行く。

 降りたのは私たちだけ。そうだよね、こんな朝早くに海に来る人なんていないんだ。この駅、夏は賑わっているんだろうね。青いペンキで塗られた階段、壁には向日葵が悲しいくらいの鮮やかさで描かれている。

 寒々しい吹きっさらしのホーム、駅員さんのいない自動改札を通り、小さな駅舎から外に出ると海まで続く一本道があった。

 まだ暗い道を海に向かって歩き出す。空も黒くて海も黒いから見えなかった水平線を太陽が焦がし、二つに別けていくみたいだと思った。けど、うーん、恥ずかしいから黙っていよう。感傷的? なんかね、そんな気分になっちゃったの。

 突然の突風に意識は現実に戻る。冷たい海風に吹かれマフラーを、コートの裾を押さえ笑い合った。そうだよ海だ、約束通り海に来たんだ。嬉しくなって声を上げて笑う、そうすると白い息が空に登って空気に溶ける。意味も分からず込み上げる笑いに任せ肩をぶつけてみた、笑った彼女にやり返され、暫く縺れ合いながら歩く。

 どんどん近くなる海、どんどん冷たさを増す風。末端から熱が奪われるのを理由に、気づけば手を繋いでいた。この国の人って接触が少ないよね、友だちでも日常的に触ったりしない、まあ私の場合。だから触って気付く、お互いの爪の短さと色。

「ネイル予約するの忘れてたなぁ」

「私も。でもさ、どうせ就活じゃん? 無難な色ならセルフでいいかなって思う」

 それそれ、基本的はピンク系かベージュ系、攻めるとしたらオレンジかな。遊べない爪と髪に自由が失くなっていく切なさを覚える。あーあ、大人って絶対にならないと駄目なもの?

 ぶつぶつ文句のような、愚痴のようなナニかを白い息に乗せて吐き出す。緩い下り坂だと途中で分かった、きっと大人になるってこういうこと。いつの間にか大人と呼ばれ、振り返って元いた場所に帰れないのを悟るの。

「……着いた」

「やっぱり誰もいないね」

 繋いでいた指をほどき、塩で錆びた自動販売機で買った缶コーヒーを握りしめ砂浜を歩き出す。うん、砂浜に適した靴を選ばなかったよね。パンプスは砂が入るしヒールは沈むし、右にふらふら左にヨタヨタ、歩きにくいったらないや。

 片手に缶コーヒー、片手に繋ぎ直した冷たい手、転ぶなら一緒だからねとぎゅっと握る私の手も冷たい。二人の隙間を吹き抜ける風に身を竦め、さらさら乾いた砂をどうにか踏みしめ波打ち際へ向かって進む。爪先の感覚がなくなってきたかも。波の音が更なる寒さを誘い、歩く速度が遅くなる。


「日が昇る……」

 めらめら燃えた夜が焦げて空を赤くしていく。反射する海も赤く染まる、もっと強い白い光が現れ、しがみつく夜を空の彼方に押しやるように燃やす。夜が明けていくのを波打ち際で見上げる私たちは声もなく、相応しい言葉も見付けられず、黙って缶コーヒーを握りしめていた。

 白い光に照らされた水面が眩しくて目を閉じたのに、強い光は目蓋の裏まで赤く焼いてしまう。冷めてきた缶コーヒーと繋いだ手がなければ、不安定な足元と波音に気が遠くなっていたかもしれない。

「……誰もいないと、怖くなるね」

「波打ち際に近寄るのはやめない?」

「分かる。ちょっと離れよ」

 自然の脅威を前に怖じ気付く私たち、単純にも程があるけど怖いものは怖いから後ずさる。本能には従わないとね。見ている間にも太陽は高度を上げ続け夜を果敢に攻め立てる、焦がされ焼かれ夜は身悶えしながら空の端へ端へと逃げていく。そうして、朝は訪れた。

 赤かった海は白い変わり、白い海は空の色を映して青くなった。いつもの海、想像していた海を見ているのにも関わらず、じわりじわり押し寄せる恐怖。これは、確か……。

「なんだっけ……昔話で海の怖いやつ、なかったっけ?」

「あっ、た……? え、なんだろ、海坊主?」

 海坊主、船を沈められる話だと思うけど定かではない。で、二人で考えても答えが出ないからスマホ先生に聞いてみようと検索。そうそう、漁師さんたちの話なんだけど、これじゃないんだよね。波打ち際にいるんだから、船を沈められる怖さは現実味がないというか……。

「あれでしょ? 遊んでたら海に引きずり込まれる、みたいな」

「それ、でもソコしか覚えてないの」

 漠然と、海は怖いよ、近付かないでねと言われた記憶が甦る。もしかしたら話ではなく、親に注意されただけだったのかな。子どもが溺れないように、不用意に近付かないように言い聞かせていたのかも。ご飯を残すと来るオバケ、夜寝ないと来るナニか、今も昔も子どもに言うこと聞かせるのは難しいんだ。

「世の中は上手く回ってる、ってことかなぁ」

「無意識に世の中に組み込まれてて、上手く回されてると気付いた時の空しさよ……」

 生まれて、歩いて言葉を覚えて学校に行ってお勉強、違う学校行ったら今度は自分で学校を選んで、また選んで。卒業したら就職して働く、結婚して子どもを生んで親になる、家を建てて子どもを学校に行かせたら親の介護をしてる間に自分が介護をしてもらう番で……それが「当たり前」だと言うなら、正直ゾッとする。

 まだ大人になってないんだよ。成人式は振袖と同窓会が目当てだもん、大人になった感覚なんて皆無。大人って、何処からという明確な線引きはないじゃない。同級生でもう親になってる子もいて、あの子はもう大人だと感じた。

 焦るよ、回りに置いて行かれるの嫌だから。でも大学内にいたら忘れる、忘れてしまえるから。

「取り残されてる気がして、嫌になるんだよね」

「うん」

 変わろう、変わりたい、と思えてないから当然取り残される。入学前に思い描いた大学デビューは夢のまた夢、あまりにも非現実だった。

 びっくりするほど綺麗になった子はLINEする度に彼氏の惚気と愚痴、派手だった交遊関係を一掃したらしい子は介護の道に進もうと日々邁進してる。それぞれの大学生活、スタートラインは同じだと思っていたのは私だけなの?

「目指す先が分からないから頑張れないよ」

「そうだね」

 言うだけ空しく、寂しくなる言葉を交互に吐き出す。真面目に受けてる講義、予習復習お手の物、提出物の忘れもなし、テストの点も上の下くらいをキープ、そんな私は世の中に必要とされるだろうか。

「……実は、さ」

「なに?」

 離れた手が髪を掻き上げ項を晒す。真っ黒な髪の下から首筋に零れた一房に、あっと声を上げた。現れたのはアッシュグレーに染まった髪。得意気に振り返る彼女が笑う、手を離せば元通りの黒髪で、インナーカラーは見えなくなった。

「びっくりした?」

「したよ。いつの間に?」

「昨日」

 からから笑う彼女は冷たくなった缶コーヒーを開け、一口飲んで身震いする。私は混乱する頭を落ち着かせたくて缶コーヒーを開け、一口飲んでカフェインに助けを求めた。

「学校始まったら戻すの?」

「どうしようかなぁ」

 インナーカラーが出ないよう結べる量にしてもらったから平気かも、彼女は髪を掻き上げご満悦といった表情で言う。自分の伸ばしっぱなしの髪が風に煽られ、黒髪は黒髪のまま肩に落ちる。ちょっとだけ、ちょっとだけ羨ましくて、悔しい。

「上手く回されないからね、っていう反抗心を形にしてみました」

 おどけた口調に隠れた真剣さ、彼女も必死にしがみつこうとしてるんだ。流されたくない、でも置いて行かれたくない、曖昧な自分との戦い。欲しいのは確実な一歩、見たいのは着実な足跡。

「実は私もピアス開けたんだ……って言えたら良かったけど、ピアッサー怖くて開けてない」

 やる気はあったの、やる気だけわね。一つ開いてる左耳、開けてくれたのは目の前の彼女、自分で開ける勇気はなかった。

「持って来れば開けたのに」

「海で? 海でピアス開けるの?」

 早朝の海でピアッサーで穴を開けるのは無謀だと思うよ。感覚はないから冷やす必要はなさそうなのが唯一の利点でも、開ける指が震えていたら流石に怖い。こうして私の耳は変化を受け入れず、反抗心を形に出来ないのでありました。

「変わりたい、けど変わりたくない」

「そもそも急に変われってのが無理だよ」

 その通り、本当にその一言に尽きるわ。足踏み状態が続けば溜まる疲労、急ぎ過ぎたら見失う行き先、堂々巡りで眠れない夜だけ増えていく焦り。もう、どうしようもなくて……ただただ、逃げたくなった。

「息抜きも大切だよって言うなら、息の抜き方も教えてほしいよ~」

「ほんとそれね」

 八つ当たり、責任転嫁、分かってます分かってます。分かってるけど言いたい時があるのが子ども。ということにして、今は言わせてほしかった。

「さむい」

 まだまだ言いたいことはあるんだけどね、口の中まで冷えてしまったから、どちらからともなく黙る。肩を並べ、暫く無言で海を眺めた。冷えたコーヒーを飲む気にもならず、波の数を数え始めた頃……。



「ずっと一緒にいたい、ね」


ぽつん、と落ちた一言。


「そうすれば寂しくないから」


 続く言葉が微かに震えているのは寒さが原因なのだろうか。缶コーヒーを反対の手に持ち替え、手探りで彼女の指を探したのは無意識だった。お互いに海に向けた視線は動かさずに指を重ねる、絡ませる、握る手に力を込める。

 込み上げる安心感に一瞬だけ、泣きそうになった。始めは冷たかった手と手、繋いでいるうちにじんわり体温が混ざって同じ温かさに変わっていく。

 ぎゅっと握る、同じ力で握り返される。それが嬉しく思えてしまう。鼻の奥が痛いのは寒さじゃないね、泣くのは嫌だから上を向いて瞬きを二回、三回。そういえば、もう随分と泣いていないや。

 隣で鼻を啜る音がした。泣いてるのかな、寒いのかな、聞いても怒らないと分かってるから余計に聞けない。気遣いより臆病になったんだろうね。

「寂しくないなら、いいな」

 選んだ言葉が曖昧に響く。違うよ、本当はずっと一緒にいたいの。大人になっても、十年後も二十年後も一緒に海に来たいと思うの。ああ、だから違うんだって、そんな顔させたいんじゃないってば。

「傷の舐め合い、みたいなのは嫌だよね……」

 このままだと冗談、嘘だから、忘れてと言われてしまいそう。それは駄目、終わりにしちゃ絶対に駄目なんだ。

「……舐め合って、どっちも治ればいいよ」

 少しでいいから伝わってほしい。今になって気がついたんだ。手を話せない理由、曖昧というオブラートで包みに包んだ、一言では言い表せない気持ちの名前に。

 缶コーヒーを握り締め唇を噛む。ずっと一緒にいたいのに、ずっと友だちではいられないかもしれない。友だちなら良かったと後悔する日が……はぁ、始まる前から後悔するなんて、どれだけマイナス思考なのか。


「一緒にいて、くれ、る?」

 だから頑張ろうと決意を固め、寒さで震える唇を開く。結果はしどろもどろ、格好つかないなぁ。なけなしの勇気は振り絞ったつもりだよ。

 友だちとしてでもいい、友だちじゃなくてもいい、どんな形でも一緒にいたいよ。来年も、再来年も、その次の年だって海を見に来られるような、手を繋げるような距離にいたい。

「うん」

 頷いた彼女が笑う。寒さで色を失くした唇が弧を描き、白い息が空に昇る。友だちとしてなのか、違うのか、ゆっくり握り直した手では判断出来ないね。


ずっと一緒に……

「「いようね」」


 今はいいか。時間が経てば変わる、一歩踏み出せば変えられる、先ずはスタートラインに立てたことを喜ぼう。それが自分だけじゃないといいなって、一緒に一歩を踏み出せたとしたら嬉しいって、思う。

 妙に清々しい気持ちで缶コーヒーを一気に飲み干す。冷たいコーヒーが食道を通過していく感覚に身震いをした。

 寒い、寒い、笑っちゃうほど寒い。肺いっぱいに吸い込んだ空気も、海から吹き付ける風も、頬に当たる髪も、全部が体温を奪っていくの。

 次は夏に来たいね。照りつける太陽と焼けた砂浜、ギラギラ眩しい海が見たいな。その前に春がある、夏の後には秋がある、厳しい季節も穏やかな季節も、海を見に来よう。


「また来ようね」

「うん」


 繋いでいた手を離し、小指を重ねて指切拳万。約束は叶えるもの、だから私たちはまた必ず海を見に来るんだ。

 世界は変わらず回っている、私たちの都合なんてお構い無しに回り続けている。だから、うん、そうだね、世界の都合はお構い無しにやってみよう。その気になれば全て叶えられる、不可能の文字は塗り潰してしまえ。怖くないよ、一緒にいてくる人がいるから。






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