乱舞

 意を決して教室のドアを勢いよく開けた。力を入れ過ぎてしまい、派手な音が教室と廊下に鳴り響き教室中の視線を一身に浴びる。当たり前だ。こうなる事も予想していた。何故なら、給食後のホームルームの時間に爆音を鳴り響かせたのだから。


 教壇に立つ、お母さんと同世代の眼鏡をかけた先生はあんぐりと開いた口を閉じようとはしなかった。


 私はその滑稽な姿を横目に自分の机にランドセルを投げ置いて、落書きだらけの教科書を全て取り出した。


「あんたのも貸して?」


 私の隣の席、つまりは私とセットの草井に訊ねた。草井は慌てて机の中の教科書を私の教科書の上に積み重ねた。私はその教科書のタワーを教壇の上にドスンと置いた。


 先生は開いていた口を閉じ、仰け反っただけで何も言わなかった。いや、何も言えなかったのだと思う。


 私はそれを横目に落書きだらけページを開き、次々と教科書を先生の足元に次投げ置き落書きの教科書で先生を取り囲んだ。


「先生はこうなるまで何をしてたんですか? 」


「…………」


 先生は私から目を逸らし落書きで埋め尽くされた足元を見ていた。


 知っている。私は知っている。あなたがお母さんと同じように、私と草井のことを見ないようにしていたとことを……。だから私は立ち上がった。バサリバサリと切り落とされていく髪を見て、自分自身と重ね合わせていた。床に堕ちた髪の毛は、自分から切り離されて自分の髪の毛ではなくなり、過去の自分の髪の毛となった。


 床に堕ちた過去の行方を目で追うと、ちり取りからゴミ箱へとあっさりと棄てられてしまった。鏡に目をやると、そこには知らない自分がいた。髪を失っても落胆することはなく『生まれ変わったんだ』と実感した。久しぶりに自分で自分の笑顔を見た気がした。


 髪を切った美容師のお姉さんも不気味だったに違いない。『短くして』の一言しか言わない、いびつな髪型の私は半ばやけくそ気味だった。最低限の長さしか切らずにいる美容師に『もっと切ってくれ』と何度も何度もリクエストしてベリーショートに行き着いた。


 きっと誰もが私のことを認識できなかったはずだろう。それくらい私自身も私の印象ががらりと変わってしまった。


 そして桜と違う髪型になれたことを嬉しく思った。自分は桜の影なんかじゃないと確信した。……生まれ変わったんだ。


 髪を切る前とは対象的なテンションで美容師のお姉さんにお礼を言った後、カット代のお釣りを握り締めたまま、ある場所へ向かった。


 走ってもなびく髪がない、本来は学校にいる時間なのに、こうして走っている。今までに味わったことのない頭の軽さと、開放感に感動していた。まるで羽根が生えたかのように何十段もある階段を一気に駆け上がった。息を切らし膝に手をついて呼吸を整えた後、真っ直ぐ歩き出す。


 鳥居をくぐり、賽銭箱にさっきのお釣りを全部放り投げて、鐘を鳴らす。


「神様、私の話を聞いて下さい」


目を閉じて手を合わせた。


 私は我慢しました。


 我慢して、我慢して、我慢しました。


 誰に何を言われても、誰に何をされても……。


 それが 正しいと思っていました。


 我慢強いことは素晴らしいことだなんて吐き違えていました。


 私は勘違いしていたんです。


 止まない雨はない……。


 明日はきっと晴れるはず……。


 そんなふうに毎日過ごしてきたんです。


 でもさっき気付いたんです。


 じゃあ、いつ雨は止むの?


 次はいつ晴れるの?


 明日?

 あさって?

 一週間後?

 1ヶ月後?

 1年後?


 人生に天気予報なんてないんですね。


 雨宿りしてるだけじゃ景色は変わらないんですね。


 いつ止むか分からない雨の日を、そこに留まって過ごしてるだけ無駄なんですね。


 だから私はドシャ降りの雨の中、傘をさして歩き出そうと思います。


 ずぶ濡れになるでしょう、風邪をひくでしょう、追い打ちかけるように嵐にのまれるでしょう、さらには雷が落ちるかもしれません。


 だけど、それを怖がっていたら何も変わりません。


 何も変わらないなら何かを変えなければなりません。


 まさか髪を切られたことで気付かされるなんて思いもしませんでした。


 だから私は今日から変わります。


 意味のない我慢はしません。


 一人で何も出来ない奴らなんかには負けません。


 親も桜も教師も、その生徒も何でもすればいい。


 やりたければやればいい、シカトしたければすればいい。


 もう何でもきやがれ。


 人の痛みを知れない奴らより、少なくとも私はまともでありたい。


 ねえ、神様……。


 素晴らしい明日なんて望まないかわりに、どんな時でも歩き続けられる強さをください。


 折れない心をください。


 これから私の歩む道は険しくなると思います。


 間違っているのなら私を死なせてくれてもかまわない。


 私はアナタという存在を信じたことはありません。


 だけど、私の馬鹿げた想いと決意の証人になってくれればそれでいい。


 神様……聞いてくれてありがとう。


 そして私は目を見開き教壇を叩いた。


 驚いた先生は足元の教科書に足を取られ、教壇から退いた。


 先生の足跡が着いた教科書には水に濡れて波打ち乾いた形跡がある。そして中央には染みがある。


「先生? この染み何かわかりますか?」


 先生は困惑の表情を浮かべるだけで、答える様子はなかった。それを見た私はキレてしまった。何も考えず、その教科書の染みを先生の顔面に押し付けていた。


 よろけた先生は尻もちをついて怒号を上げた。


「何してるのお!」


 私はキレていた。怯まず叫ぶ。


「くそおおおおおお!」


 先生は瞬時に怯えた表情に変わった。


「糞だよ! 糞! 人間のだか、動物のだかわかんないけど、ウンコがその教科書に挟まれてたんだよ!」


 ある時、自分の机が臭っていた。嫌な予感がして教科書に何かされていないか恐る恐る確認した。


 ページがめくれることで起こるそよ風に乗ってくる鼻をつく悪臭……。開かないページがある。わかっていながらくっついてるページを剥がすように開く。ネチネチと鳴る微音……より一層立ち込める悪臭……。教室中のあちらこちらで、悪臭に気付きはじめる。慌ててトイレに駆け込み、必死にそれを拭き取った。


 それからというもの……完全なる汚物扱い。きっと草井がお漏らしをしたことへの当て付けでもあるのだろう。


 男子からは『うんこチェック』と称してスカートめくりを何度もされた。汚ねえと言われながらスカートの中を当たり前のように覗かれていた。


 糞と言われながらも女として見られ、女として見られながらも糞と呼ばれた。この言いようのない屈辱感を言い表すことは決してできない。


 これらの出来事が自分自身で初めて発した『糞』という言葉で、走馬灯のように蘇り、下まつ毛の上に涙が溜まった。零れ落ちる前に涙を拭い、過去を切り捨てたことを思い出し、震える声を荒らげだ。


「私が糞なら……あんたらは何だと思う? 教師のふりをしたあんたは何だと思う?」


 私の問いに答えようとする奴はいなかった。この教室にいるたった一人の大人でさえも。


「あんたらはウンコにたかる蝿で、先生はそれを逃げるように避けて歩く通行人なんだよ!」


 するとメガネ女の学級委員長が反応した。


「清野さん! さっきから先生になんて口の利き方してるんですか? それに私たちが『蝿』ってどういうことですか? しかも下品な言葉ばかり言って恥ずかしいと思わないんですか? それに私は清野さんを虐めたことはありません。私みたいな無関係な人を巻き込むのはやめてください。それに今日は決めなきゃいけないことがたくさんあるんです。先生これ以上時間の無……」


 学級委員長は私に言ってるというよりも、先生の様子を伺っていた。あからさまな優等生的な発言が私の怒りを逆立てた。


「メガネ蝿がブンブンとうっせえんだよ! 私がいつイジメられたなんて言ったんだよ? あんたが虐めって言葉を口にしたってことは私は虐められてたってことだろ? 少なくともあんたには虐めに見えてたんだろ! じゃあ、なんで放置した?……ほら、何も言えないだろ? あんたみたいに正義ぶってる奴が、この先生みたいな大人になってくんだよ! あんたは自分だけ良ければそれでいいんだろうが!」


 メガネ女は何も言い返せず、唇を噛んで涙を浮かべていた。他に文句ある奴はかかってこいと言わんばかりに、身を乗り出し誰かが口を開くのを待ってみたが誰もが息を呑んで押し黙った。


 先生を見ると脅えた小猫のようにびくっと背筋を伸ばした。あまりにもそれが滑稽に見えて、弱い者虐めをしている気分になり少し萎えた。感情をすべて吐き出した私はおもむろに呼びかけた。


「先生……こんな落書きの教科書じゃ勉強できません。私と草井に新しい教科書を用意してください」


「でも、これだけの教科書を用意するとなると……」


「先生、なんで教科書を汚された私と草井が、また買い揃えなきゃいけないんですか? 予備とかありますよね? それとも職員室でこの事を知られるのがマズいとか?」


「…………」


「嫌なら落書きした奴らから金を集めて弁償させて下さいよ。それができなければ、私が全員の教科書を汚しますから」


 先生は何か言おうとしたが、それを遮るように私は自分の席にランドセルを取りに戻った。


「……清野、ありがとう」


 草井がお礼言ってきたが、それを受けつけなかった。


「あんたもさあ、虐められてばっかで悔しくないの? あんたはさあ、本当は強いのに弱いフリしなくていいんだよ!  顔上げなよ。校内探しても、あんたよりデカい人間なんていないんだよ。うるさい蝿なんて叩き潰しちゃえばいいんだよ!」


 草井はバツの悪そう表情を浮かべた。でも思った。あんたも今日から変われ、と。


「ねえ草井、自分の机おもっきり叩いてみてよ」


「えっ?」


 草井は予想外な要求に戸惑っていた。


「いいからいいから、早くやりなよ」


 いつの間にかクラス中の視線が私から草井に移っていた。それに気づいて余計に萎縮してしまった草井を急かす。


「ここにいる奴らにやられてきたこと思い出してさ。今までの鬱憤を込めて。さあ!」


 草井にかつてない数の視線が突き刺さる。極限の緊張状態に陥った草井は、この状況から抜け出すため、半ばヤケクソ気味に手を振り上げ机の中央目掛けて、太い腕を振り落とした。


 からっぽの机は爆音と共に高く跳ね上がり、教室中の誰もがどよめいた。


「痛あああああ……」顔をしかめて腕を押さえる草井。


「今日から草井も変わるんだよ。いや、変われよ」


 そう言って、からっぽのランドセルを背負った。


「先生、頭が軽すぎて気持ちいいので早退しまあ~す」


 颯爽と教室を飛び出した。帰り道をとぼとぼ歩く過去の自分の残像を、風に舞い上がるように追い抜いていく。


 もう負けない。絶対に負けない……。

 

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