始まり
私は悔しくて悔しくて泣き叫びたかった。でもそうはしなかった。できなかった。隣で寝ている桜を喜こばせてしまうからだ。隣で寝ている桜は不敵な笑みを浮かべているに違いない。私は布団を被り、口に押し当てた枕を噛み、ひたすら涙と鼻水を垂れ流した。
桜と私は同じ部屋で、同じ空気を吸いながら、同じ時を過ごす。そして、これからも過ごし続けなければならない。
私は明日からどうすればいい……どうすればいい……どうすればいい……どうすればいい……わからない……。
一睡もできなかった私は気持ち良さそうに眠る桜の横で落書きをされた教科書を開いた。
太いマジックで描かれていたため教科書の役目を果たせないと判断した私は、おもむろに朝食の仕度をしている母親の元へ向かった。
昨日の出来事を知っているのか父親が新聞越しに私を睨んでいるように見える。
私はプライドを捨てた。たかが小学生が自分の感情を押し殺す辛さを、きっと誰も理解してはくれないだろう。
「昨日ハゴメンナサイ……新シイ教科書ヲ買ッテクダサイ……」
「ちゃんと反省してるの? お父さんに訊きなさい!」
私は父親の前に立ち頭を下げた。
「ゴメナサイ……オ願イシマス……」
お父さんはお母さんを見て軽く頷いた。どうやら了解を得たようだ。
「アリガトウゴザイマス」
私は洗面所に向かい何度も顔を洗った。何度も……何度も……眼から溢れ出る熱い液体を冷たい水で流し続けた。そして私は100点を取って絶対見返してやる、と頭の中で呪いのように繰り返していた。
「ちょっと、どいてくれる」
鏡に飛沫を散らせて振り返ると、いつもより早い時間にも関わらず桜が立っているではないか。
そして私と同じ顔が憎たらしい顔をして言い放った。
「教科書買ってもらえて良かったね」
桜はうがいをして水をペッと吐き出し濡れたままの私を見下した。
「いちいち泣いてんじゃないわよ」
桜が立ち去ると再び私は顔を洗った。
「早く止まれ……泣くな……涙よ、止まれ……」
何度も何度も自分に言い聞かせながら……。
しばらくして私がリビングにやってきた頃には、桜は朝食を食べ終えていて、入れ違いで二階へ上がっていくところだった。
私は他の教科書にも落書きをされるのではないかと不安になり食事の味がしない。お父さんもお母さんも私には何も話し掛けようとしない。
食べたくもないトーストにジャムもバターも何もつけず口いっぱいに詰め込み、オレンジジュースで流し込む。
慌てて食器を片付けて二階に上がろうとすると、桜が階段を降りてきて、すれ違いざまにわざと私に肩をぶつけてニヤリと笑った。
瞬時に身体の中心の奥の奥が冷たくなる。とても厭な感じがした。急いで階段を駆け上がり、教科書やノート一冊一冊丁寧に調べた。だが何もされていない。
教科書とノート以外も調べたが何もされていなかった。先程の桜の笑みが蘇る。この部屋に居ても胸騒ぎがおさまらないので、いつもより少し早いが学校へ行くことにした。
桜の顔は見たくなかったが、リビングにいる両親にいってきます、と告げるとお母さんは、桜ちゃんはだいぶ前に出てったけど、大丈夫なの? と言った。
何故桜がいつもより早く家を出たのか不思議だったが、私は特に気にすることなく学校へ向かった。
校門で先生達がおはよう、と迎えてくれる。私は家での出来事を振り払うように大声で挨拶を返すと、友達が駆け寄てきった。その子の笑顔を見ると私の気持ちは明るくなった。
勉強は学校でやればいいし、友達にも教えてもらえる。私の胸に立ち込めていた分厚い積乱雲は一気に吹き飛んでいった。
教室のドアを開け、大きな声でおはよう、と言ったその瞬間、私に視線が集まった。何だろう。この違和感……。私の声に反応した? いや、違う……。耳打ちしたり、くすくすと笑っていたりしている。
私は不安になり、隣りの友達を見ると、視線は別のところにあった。どうやら黒板を見ているようだ。私もそれを見て言葉を失った。だだっ広い黒板の中央にでかでかと、相合い傘が書かれていたのだ。
傘の下には、
草井 達也
清野 舞
二人の名前が書かれていた。
『草井 達也』とは校内一の巨漢で、遠足の時バスの中でお漏らしをしてしまった事がある。彼の排便の臭いが車内に充満してしまい、代車のバスを用意させた逸話を持っている。その日から『クサイタツヤ』という名前を文字って『クサイヤツダ』『臭い奴だ』悲運にも彼の名前が重なってしまい、男子はそれをからかい、女子は決して近付こうとはしなかった。
「誰がこんなこと……」
私は同意を求め隣の彼女を見た。すると彼女は体をのけ反らせ、汚物を見るような目で私に言った。
「だってこの前、草井が舞ちゃんのことが好きだって叫んでたじゃん」
「あれは男子に言わされてただけだったでしょ?」
「草井がイジメられてる時、助けたりしてたよね!」
確かに男子と仲が良かった私は、そういう場面にでくわすと必ず注意はしていた。
だから何だというのだろう。それは当たり前のことじゃないか。嫌がる草井をほっておけということなのか……?
「もういいよ!」
バカバカしくなり私は黒板まで教室を突っ切った。相合い傘のまわりには、便乗した悪意の言葉達が蠢いている 。私はそれらを嵐の如く消していくが、ある落書きに目が止まり黒板消しを操る手が白煙を上げて急ブレーキをかけた。
昨日、リビングで教科書を開いた時と同じ感情が私を掻き乱す。私の好きなキャラクターが醜悪な顔をしてニヤリと笑っていたのだ。それはまるで先程、家の階段で肩をぶつけてニヤリと笑った桜のようだった。
私は黒板消しを床に投げ付けチョークの粉を教室中に撒き散らし桜の教室へ飛び込んだ。私のことを桜と勘違いして桜のクラスメイトが挨拶をしてきた。この様子だと桜はまだ来ていないようだ。
結局、桜は見つからないままチャイムが鳴ってしまった。私は熱くてトゲトゲしくて苦々しいこの感情を無理矢理飲み込むしかなかった。
そして私は草井とイジメられるようになってしまった。それはまるでハンバーガーとポテトのように、いつもセットだった。
イジメがこんな幼稚で単純な理由で成り立ってしまうことが、私には信じ難かった。
そして新しく買ってもらった教科書も、また使えなくなってしまった。それだけではなく、国語、算数、理科、社会……すべての教科書に落書きをされてしまった。これは桜が書いたのではなく、クラスメイトに書かれたもの。
母親に怒られた時に言われた。
『死ね、臭い、汚い、消えろ』が、そっくりそのまま書かれていた。
私はもう一度教科書を買ってもらおうと考えたが、新しい教科書を買って貰えたとしても、イジメをする奴らに真っ白な自由帳を与えるようなものだと思ったからやめた。
しかもイジメの原因となる相合い傘を書いたのは桜に間違いないのだが、その証拠を何ひとつ残していなかった。いつもより早く家を出た桜だが、具合が悪くなって途中で休んでいたと言われればそれまでだった。
そしてある時、ホームルームの時間に席替えを提案され、私は草井の隣にされた。
草井も私も教科書を隠されることが何度もあった。だけど同時に隠されることはなかった。何故なら一冊の教科書を草井と私で見させるためだ。
机と机の間に落書きだらけの教科書を置くと、草井と私の距離が近付く。誰か一人が茶化しだすと、待ってましたと言わんばかりにクラス全体が便乗する。
先生はやめなさい、という決まり文句を口から垂れ流すだけ。私立の小学校は教科ごとに毎回先生が変わるので先生たちは深く関わろうとしない。いや関わりたくないのが本心だろう。私が子供でも、大人である教師のそういう気持ちが、微妙に態度や表情に表れている。
どんどんエスカレートしていくイジメ。すべては桜のシナリオ通りなのだろうか。今ここは桜の手のひらの上なのだろうか。
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