寂しくて、涙が出た。

@midoriki_tomo

赤い花


 長い時間を生きていた。目の前に流れる大河が、元々は可愛らしい小川であったことも知っている。それほどまでに長い時を不自由なく暮らしてきた。

 最初、人間は弱そうで、取るに足らない存在だった。けれど私がただ何も得ず過ごす中で、人は文化を手に入れて技術を発展させた。気づけば私は人混みの喧騒の中で、隠れるように身分を偽り人のように生きていた。

 私にとって命は浪費するものだ。永遠にも思えるこの寿命を水のように垂れ流す。だけど人は違かった。彼らにはきっと生まれつき私たちの知らない生き方を持っているんだ。あんなに短い人生の色は私のものより鮮やかで、そして褪せていくのも早かった。それはまるで花のようだった。

 そんな人間を私は、心のどこかで羨ましがってた。

 私は吸血鬼、血を吸い生き続ける。人間は道に生えている花で、ただの餌だ。自嘲気味の笑い声が口から漏れていた。

 

 吸血鬼は同じ場所にずっと居続けはしない。旅が吸血鬼の唯一の娯楽だからだ。過去に見たその景色を今と比べて、私たちはそんなことでしか時間が経ることを知れなかった。

 だから街並みが綺麗な煉瓦造りのこの街からも、そろそろ離れようと考えていたところだった。

 月はちょうど完全に欠けていた。愚かに抱えてしまったこの街への愛着心を、丘の高台から見える煌びやかな夜景に託して、私は闇に溶けた黒色の翼を広げた。

 羽ばたく音に隠れて後ろの草むらから音がした。

「誰だ」

 (鈴の声がする、と誰かが言った。)

 振り向くと戦闘服を纏った男たちが、銃口を私に向けて立っていた。人は彼らのことをハンターと噂していた。仲間のいくつかもハンターによって屠られてきた。無意識のうちに刻まれた恐怖が反射的に私を空に飛ばせた。でも気づいたら上から彼らを見渡していた視界は反転していた。夜景が星のように光っている。

 あ、と思ったらもう最後。私は彼らに黙々と捕獲されていた。

 恐ろしくはないのさ、尽きない寿命にかまけてる。


 私は簡素な部屋に両手を拘束されて閉じ込められていた。壁は白一色で、ある角に入り口がある。天井の四隅には監視カメラがあり、私の行動一つ一つを記録していた。三日に一度ドアの鍵が複雑な音を鳴らしながら開く。そうすると首に縄目の跡がついた人の死体が無造作に部屋に投げ捨てられ、また扉に鍵をかけられる。家畜の餌のように目の前に置かれた死体を私はずっと眺めていた。死体が膿んで来る頃にお腹が鳴った。

 吸血鬼は死なない。だから空腹は最も避けなければいけないことだった。絶えず続く飢餓感に精神が蝕まれる。吸血鬼の体が朽ちることはない。けれど精神が穢され、修復不可能になった後の自分が、果たして生きた吸血鬼なのかなんて判別は私にはできそうになかった。

 死体の血液はすでに凝固しており、唾液で溶かして飲み込んだ。甘美が口に広がり、また一口二口と血を掬う。

 しばらくすると赤く染まった死に身から芽が生えた。それは根を生やし、全ての栄養と血を吸い取って育っていく。私はその花が咲くまで、吸血鬼らしい尖った犬歯を隠しもせず食欲に溺れた愚かな鬼の一つになった。芽は茎伸ばし、蕾つけ。

 赤い花が咲いた。その時まで私という存在は寝ていたのだ。ただ目の前で育つ欲望の権化を嬉しそうに眺めていた。一種の幸せを感じた足跡が頭に刻まれていた。吸血鬼はそれに手を伸ばす。けれどそれに手が届くことはなかった。知らぬ間に立っていた男によって花が摘まれた。吸血鬼の顔は醜く彩った恐ろしい表情で男を睨むが、拘束具は今の力では振り切れない。

 ガチャン、と私は花と切り離された。満たされない飢餓感がまだ体の中で身を捩っている。この先逃げるまでの間私はずっとこうやって自我を見失わされ続けるのだと、そう悟った。


 ある時白衣を着た人間が部屋に訪れた。私には相手を殺す力も抵抗する気力もとうに残っていなかった。白い人は(真っ白な壁により眩しく見えた)私の腕に針を刺して血を採りながら、あの花はなんなんだ、と呟いた。空っぽの脳みそで考えたけれど、私はその答えを知らなかった。無理矢理言葉にするなら、きっとそれは━━

 白くぼやけた視界が揺れていた。

 白い人はそれから頻繁に来るようになった。毎回私の血を一定量採っていく。白い人による一方的な会話も増えた。吸血鬼とはどんな存在なのか、なんて愚問を繰り返し聞いてくる。じゃあ人は自分の存在を理解してるか、そう返してやりたいけどあいにく口はうまく動かない。知らない、一言渡して膝に顔を埋める。

 一定の周期で簡素の部屋に死体が運ばれ、私はその血を飲んだが、あの花だけはいつも奪われてしまった。いまだに飼い慣らせない満たされることのない飢餓感に、私は自分自身を化け物だと思った。花が自分から離れていく度にまるで体の一部をむしりとられたかのような苦痛を感じた。傲慢な化け物だ。そう自認している。


 日々自分が衰弱していることに気づいた。死なない自信だけ今もある。


 一年に一度本を頼んだ。何もしないままで過ごす日々に嫌気がさしていた。逃げようと思っても手錠は私の自由を許さなかった。幸い本を読む時間だけ手錠が勝手に外された。けれど外したままでいるといつまで経っても血は吸えないと仄めかされていた。耐えられないほどの空腹で私は自分の腕に手錠をつけるが、その姿がとても滑稽に思えて、私はただのモルモットなのだと思った。


 ガチャン、2000回以上聞いた鍵が開く音。白い人はすっかり老いていた。峭刻たる顔をより一層深めて生き急ぐように、彼が抱える焦燥感が気として広がっているように見えた。三日前のように私の手首に針を刺し血を奪う。そうして白い人は私の目の前に座った。いつもの彼とは違って見えたのは細い瞳の中になんの熱も感じなかったから、老いたね、と私は同情を込めて呟いた。

 彼が短い息を吐き切って言う。

「ああ、老いたさ。お前を捕まえてもう20年経つからな」

「もうそんなにか」

 白い人は笑った。それがお前を吸血鬼たらしめる最高の理由だよ、と。

 彼は大きくため息をついて、白い天井を見た。

「お前を使えば世界のどんな難病も救えると思ってこれまで研究してきた。でも、もう終わりだ。俺が救うべきだった人間はもう誰もいなくなる。俺は遅過ぎた、本当はお前を殺したいくらい憎んでいる」

「それは八つ当たりだろう。私に人を救える確証なんてなかった。それに私は死なない」

「いやもう諦めたよ。俺にお前は殺せなくて、殺して何かが変わるわけでもない。だけどこれだけは否定しよう。お前はいつか死ぬよ。この先に死がなければ生きているとは言えない。死ぬから生を謳歌できるんだ」

 哀れだな、と聞こえない言葉が聞こえるようだった。この場所に時計はない、彼の言葉で20年が経ったことを知った。私は本当に生きているのだろうか? 

「私は……、死なない」

「死ぬんだ、それが生物だから」

「わからないよ。なんで死なんてものを信じていられるんだ。そんなもの死ななきゃわからないじゃないか。なんであるかもわからないものを信じて生きなきゃいけないんだ」

 彼が同情の目を私に向けた。その瞬間私という存在がとてもちっぽけなものに思えた。下に見ていた人間たちはいつの間にか私たちよりも高度な文化と感情を手に入れていた。

「信じないと苦しいじゃないか」

 不可解な心臓の痛みがあった。苦しさの中で、心底自分の存在を憎んだ。人という存在を妬んだ。

 白い彼がその白を脱ぎ捨てて(あたかもそれは死だった)、私の心を長年拘束してきた手錠を外した。

「この施設はもう終わる。みんな死んでしまった。あとは私が死ぬだけだ。長年お前と付き合ってきて気づいたことがある。きっといつだってお前は孤独だったんだ。毎年俺が本を一冊ここに捨てて、それでやっと命をつなげていたに過ぎない。ここはあまりにも狭過ぎた。自分の行いに後悔なんてしていない。今までの努力もこの施設を見つけた若い炎に任せれば無に帰すわけじゃない、そうかこれだ。吸血鬼はつなぐことができないんだ」

 独り言のように呟き続ける彼が何を言っているのか私は理解ができなかった。私のことを話しているというのに現実感がなくて耳を傾けることもできなかった。

「さよならだ吸血鬼。」

 

 白い部屋の先もまた白かった。久しぶりに動かした体では節々が悲鳴を上げていた。けれど1分も歩き続ければその痛みも消えていた。彼は全てが死んでしまったと言っていた。ここは病院なのだろうか。上への階段を登るといくつか部屋が見えた。どこも扉は空いていて中にはベットや本などが置いてあった。誰も人はいない。

 また一階また一階と登っても人は誰もなく、寂寥たる部屋だけ増えていった。出口もわからず上へ上へと登っていくところ壁際に設置されていたベンチに座っている少年を見つけた。

 二つの欲望が私の中に渦巻いた。私はこの少年の血を飲みたいという抗えない本能と言葉にできない感情だった。目の前の少年は餌の死体と変わらずに見えたが、それでも息をしていた。命がそこにあった。

 孤独な吸血鬼は己では気づけないものと出会ってしまった。

「生きてるか」

 と私が尋ねると、少年は私の方を向いて首を傾げた。鈴の声がする。そう彼は言って何もないところを掴むかのように腕を振る。少年は目が見えていなかった。

「誰かいるの?」

 私は揺れる少年の腕を掴んだ。そして始めた私は人の温もりというものを知った。心臓の鼓動が血流に響いていた。

 

 少年は自分の名前をベルと言った。私たちはこの施設で一緒に過ごすと決めた。男が最後に言ったこの施設はもう終わるという言葉を忘れて、私にとっては一瞬を懸命に過ごした。食料は大量にあったけれど、血は置いていない。本能的な飢餓感を変な力で抑え続けて少年と生きていた。


 ベルが私に名前を聞いた。それまでずっとお姉さんと呼ばれ続けていたが、私が最近になってベルと呼ぶことに慣れてきたことにより、自分でも名前で呼びたくなったようだった。

「私には名前はないよ」

 私に名前は不要なものだ。ベルはそれ以上何も言わないでお姉さんとまた呼んだ。


 私が本を読んでいると決まってそのページを捲る音に誘われてか、施設を散歩していたベルが私のものとにやってくる。そして、今日はなんの本を読んでいるの、と尋ねてくる。その日は童話を読んでいた。切ない物語だった。

「読み聞かせをしてあげようか?」

 ベルはきっとそのためにここに来たんだろう。二人の生活の中で本を読むことは一つの楽しみだった。ベルは笑顔で頷いた。

「昔々一人のお姫様がいました。彼女には好きな王子様がいました。けれど王様とお妃様は娘の恋を許しはしませんでした。彼女は王子様と会うことが叶わなくなり、ずっと一人で部屋に閉じこもっていました。ある日王様が部屋をノックして言いました。『あの男は嵐の海に溺れて死んでしまったよ』お姫様は王様を二度と部屋に近づけさせないようにと侍女に言いつけました。いったい何日王様がこぼした言葉を頭で繰り返したでしょうか。ある日、月明かりが部屋に差し込んで宝石が一つ光りました。王子様が昔くれた綺麗な赤い宝石です。その時お姫様は涙を流して枕を濡らしました。泣き止むとお姫様は嵐がさった後の静けさのような悲しみを感じました。そうしてもう死んでしまおうかと思っていたところ、一匹の梟が窓を叩きました。開くと夜風が部屋に吹き込み、1通の手紙が届きました。宛名はお姫様の名前。差出人はあの王子様でした。お姫様は急いで封筒を開けて少し汚れた手紙を読みました。『親愛なるお姫様。あなたを何よりも愛しています。あの蝶よりも、あの花よりも、あの星よりも、あなたが一番美しく、あなたが一番可愛らしい。あなたは私の全て。いつかあなたを迎えに行きます。一人になんてしませんから......愛しています。その言葉だけでも伝えたかった。』彼女は耐えきれずに窓から身を投げました。愛した王子様はもう死んでしまったのです。涙が流れ星となって、お姫様はこの世から泡のように消えていきました。おしまい」

 読み終わり、いつもより静かなベルを見ると涙を流していた。私は涙というものがわからなかった。人を殺した時いつも涙を流していたことを思い出して、私はベルに何かしてしまったのではないかと不安になって、その涙の理由を聞いた。

「だって、寂しいじゃないか」

 盲目を覆う瞼の淵から雫がボロボロと溢れていた。

 

 ベルが14歳になった。もう二年も少年だったベルと過ごしていた。


 ベルの体調が悪くなった。死にそうなくらい咳をしている。ベルの肩が揺れて血が出そうな咳をする音が聞こえるたびに、白かった男が言ったことを思い出していた。俺が救うべきだった人間はもう誰もいなくなる、そう彼は言っていた。ベルもそのうちの一人なのだろうか。


「お姉さん」

「なんだい、ベル」

「吸血鬼は死なないの?」

「死ぬよ、きっと」

「僕の血は要らないかい?」

「要らないよ……」


 ベルが死んだ。


 ずっと死体を見ていた。名前を呼んでも動きはしない。

 

 お腹がすいたお腹がすいたお腹がすいたお腹がすいたお腹がすいたお腹がすいたお腹がすいたお腹がすいたお腹がすいたお腹がすいたお腹がすいたお腹がすいたお腹がすいたお腹がすいたお腹がすいたお腹がすいたお腹がすいたお腹がすいたお腹がすいたお腹がすいた、血が飲みたい。


 吸血鬼らしい赤い瞳で私はベルだったものを見つめている。

 本能が叫んだ! こいつを飲め。そうすれば辛くない、そうすれば痛くない。この胸の痛みも飲めば治る、と。

 嫌だ、これはベルだ。ただ寝ているだけのベルだ。


 お腹を空かせた吸血鬼は目の前にある餌から目を背け、違う餌を探しに行った。白かったあいつなら食べれる。そう思って孤独だった部屋に向かう。白い廊下を歩いたり走ったり、走ると視界がだんだんと白くなって狭まっていく。そして、白い部屋に着いた。餌がそこにある、と急いで足取りもおぼつかないまま部屋に入る。

 あったのは白い骨になった亡骸だけだった。

 肉はもうすでに汚れた小動物によって食い散らかされていた。

 言葉にならない何かが漏れた。下手くそな叫び声だったような気がする。


 ベルはずっと起きなかった。生物には死が訪れるらしい。ベルはそうやって永遠の眠りについた。だけど、と一つ確かに思うことがあった。私はこの少年と生きていた。だからきっと私も死ぬのだ。この苦しさによって心臓が止まる。生きる自信なんてもうなかった。


 三日数えた。何度も少年の死体に伸びる自分の腕を必死に掴んで押さえていた。

 かつての孤独が私を殺したように、この孤独もまた私を蝕んで、生き返りなどしない。私はもう死んでしまったベルを抱きしめることでしか死から逃れられないのだ。

 

 死にたくなくてずっと抱いていた少年の死体から赤い花が咲いた。

 嗚呼。


 この口に広がる赤はなんだ。苦しみからだんだんと解放される。けれど本能には嘘をつかれた。胸の痛みだけは何度飲んでも尽きることがなかった。

 死にたいと思った。吸血鬼を恨んだ。でもそれよりも何よりも死ねない自分を恨んだ。

 この口に広がる赤はなんだ。

 この口に広がる赤はなんだ。

 

 

 寂しくて、涙が出た。

 

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