銀剣のステラナイツ 灰壁のフォートヴラッド『White Mistletoe』

ゆたか@水音 豊

幕前

 この界隈で町医者と言えば、それは彼のことを指した。黒い髪と白銀の眼。一見すれば若く見えるが、治療の腕と患者に対する姿勢からは積み上げた歳月を感じさせるものがあるとは、彼の世話になった人々が口を揃えるところだった。ひっそりと構えた看護師も薬剤師も居ない診療所で、慈悲活動に毛が生えた程度の治療費しか取らない彼は、街の人々から『Dr.』という敬称で呼ばれていた。

 街灯夫が夜の街に明りを宿す。小雪がちらつく中を彼は歩いていた。往診の帰り道だった。時間帯と天候もあって、余程の事でなければ外に出ようとする者は居ない。彼以外の人の気配は無い。その筈だった。しかし、彼は裏路地の陰に蹲るように倒れている人影を見つけたのだった。

 当然、医師として見過ごせるものではなかった。相手の立場がどうであれ、寒空の下に倒れている者を見殺しにする訳にはいかない。小さな灯りを手にして駆け寄った。彼が近づいても倒れている人物は何も反応も示さなかった。まずは鼓動と呼吸を確認しようと、膝をついて患者となった人物を観察する。

 そこで彼は初めて僅かに目を見張った。倒れている怪我人或いは病人を見ても動揺を示さなかった冷静沈着な彼が、である。尤も、傍目に分かる程の表情の変化ではないのだが。理屈を抜きに一目見て、直感的に人間ではないと分かった。妖精――否、オリジンと呼ばれる強い力を持った存在。実際に出会ったのは初めてだった。

 まだ若い、恐らく男性だろう。目は伏せているが、それでもとても美しい顔立ちをしている。淡い緑色の髪は肩に届く長さで揃えられている。目立たない服装に身を包んでいる中で、過剰なまでに包帯で巻かれた両手が医者である彼の目を引いた。但し血の気配は無く、怪我には思えなかった。

 驚いたのは一瞬で、すぐに彼の顔は患者の容体を診る医師の者に戻る。顔色は悪く心配になるほど華奢な身体だが幸い脈は感じられた。体温の低さはそれがオリジンであるが故のものなのかは現状では分からない。倒れこんだであろう脚が少しばかり不自然な縺れ方をしていた事にも気付く。

相手の抱えている背景も、そもそも相手が一体何者なのかという具体的なものはオリジンであること以外何一つとして分からない。

けれど、相手が生きているのならばやるべき事は一つだった。それは相手が何者であれ彼の中では揺らぎようのない事だった。着ていた白衣で患者を包み、そっと抱き上る。そうしてあまり人目に触れぬようにして己の診療所へと帰路を急いだ。



 彼が目を覚ましたのは診療所――処置室のベッドに運ばれて数十分ほど経った頃のことだった。外は少しばかり雪の降り方が本格的になり、部屋は温まってきていた。

わずかな身じろぎと瞬きの後に白い宝石を思わせる淡い虹彩の双眸が露になる。意識が戻ったことに安堵しつつ、彼は静かな声で尋ねた。

「こんばんは。気分はどうですか?」

「……此処は、一体」

 掠れた細い声が紡いだ言葉は疑問で、その目にある色は警戒と困惑だった。尤も、彼の置かれた状況を鑑みれば無理もないことだと思う。ベッド横に置いた椅子に腰かける動作に彼は身を強張らせた。反応に動じず、一先ずは疑問への答えを返した。

「ここは、街の中でも比較的裏街寄りの通りの端にある診療所だよ。往診の帰り道で、倒れていた君を見つけたんだ」

 覚えているかな? と再度尋ねるも彼は黙り込んでしまった。拒絶というには弱いが、決してまだこちらに気を許している訳でもないのだろう。それが分かる沈黙だ。踏み込むべきかと少しだけ考えて――しかし、診療に当たって避けては通れないものだと思い、敢えて自分から切り込んだ。

「君はオリジンだよね。あそこで一人で倒れていた事と、関係があると思っていいのかな」

 まるで何かから身を隠すかのように。それが途中で力尽きてしまったかのように。的外れな指摘ではなかったのだろう、彼の肩が小さく跳ねる。強張った表情で何かを口にしようとして、しかし彼はそこで固まった。

「どうしました?」

「あれ、は……」

 震える声を零す彼の視線は窓から見える外に向けられていた。一瞬だが、視界に黒い衣装にガスマスクの姿を確かに捉えて納得した。彼の顔は先程オリジンだと指摘した時よりも遥かに青ざめていた。身体が小さく震えているのは恐怖に因るものだ。今にも泣きだしそうな目を此方に向けたのは無意識のものだろう。そこに縋る色が滲んでいるのも。

 未だに彼が置かれている状況は把握できていない。分かるのは、彼が現在酷く切羽詰まった状況に立たされていることと、――自分に助けを求めていることくらいだ。そして、手を差し伸べる理由はそれで十分だった。

「此処に伏せて。毛布を被って、隠れて」

 短く出した指示に、怯えながらもこくりと彼は頷いた。その仕草を確認してから処置室の戸を閉め、手前の診察室へと向かう。暫くして診療所の扉が開いた。入ってきたのは憲兵一人だが、その背後には確かに複数人の気配がある。穏やかとは到底言い難い空気を纏う侵入者に対しても、先ほど彼を相手にしていた時と同様の静かな声を掛ける。

「こんばんは。こちらに御用ということは、急患ですか?」

「この近辺にオリジンが隠れている筈だ。知っているのなら答えてもらおう」

 返答も無しに要件を切り出され、微かに眉間に皺を寄せる。押し黙った彼に、憲兵は尚も高圧的な態度で尋ねた。

「緑色の髪をした、エルフのオリジンだ」

 憲兵の述べた特徴は奥の部屋で匿った彼と同じものだった。彼はこの憲兵――その背後にいる黒近衛達に追われているのだと理解した。この街で、捕えられたオリジンがどういった扱いを受けるのかについては知っている。だから彼は逃げているのだ。それを知っていれば。自信の立場が危ういものになると分かっていても、正直に頷いて引き渡すつもりは無かった。

「いいえ。心当たりはありません」

 はっきりと、そう言い切った。軽く首を横に振るが、怪訝な表情の憲兵から視線を逸らすことはしなかった。黒近衛ではなく憲兵が表に出ているということは、ここにオリジンがいると確信を持っているという訳では無いのだろうと踏んだ。言葉が通じる人間が相手ならば、ここでは変に事を荒げるのは得策ではない。じろりと睨む憲兵にも臆することなく、毅然とした態度のままに対峙する。

「本当だろうな?」

「はい。お力になれずに申し訳ありません。……ですから、お引き取り願えますか」

 尚も何かを言い募ろうとしながら、しかし気圧される程に冴えた視線に憲兵は口籠る。少しの間沈黙が続いたが、やがて「邪魔をした」と舌打ちのような声を漏らして憲兵は此方に対して背を向けた。去り際に扉の外で張っていた者達に何かを伝えていたようだが、その内容まで聞き取ることは出来なかった。

扉を閉め、幾つかの気配が完全に雪夜の中に遠ざかったのを確認してから、静かに処置室の扉を開ける。膨らんだベッドに近づいてそっと声を掛けた。

「もう出て来て大丈夫だよ。安心して」

 労わるような手つきで毛布に触れると、様子を伺う様に彼は顔を出した。綺麗な顔には相変わらず怯えや不安の色が強いが、それでも彼は強張った顔のままぺこりと頭を下げた。

「あ、ありがとうございます……」

「気にしないで。何とかなってよかった」

 実際その場しのぎでしかない行動だったが、少なくとも最悪の事態は免れた。顔を上げてと促せば、やはりまだ不安そうな様子は拭えない。しかし、こちらに対する警戒心は幾らか薄らいだらしい。漸く周囲に意識を向けられる余裕ができたのか、気まずげに彼は尋ねてきた。

「今更なのですが、貴方はお医者様、なのですか?」

「そうだね。街の人達からは『Dr.』とも呼ばれているし。君のことは、どう呼べばいい?」

「……シキミ、です」

 やはり、想像していたよりも素直に答えが返ってきた。雰囲気から偽名ではないのは察した。また、あまり畏まった態度では彼――シキミが委縮してしまうだろう、とも。

「シキミさん……シキミ君の方がいいかな。見たところ怪我は無さそうですが、頭痛や吐き気のような自覚症状はありますか?」

「い、いえ……」

「それならよかった。今、温かい飲み物をもってくるから、少し待ってて」

 苦手なものは無いか確認だけして、一旦処置室を後にする。二人分の温かい飲み物を持って戻ると、シキミはベッドから降りて部屋の様子を恐々とした様子で眺めていた。推測だが、あまり外の環境には慣れていないのだろう。此方に気付き「すいません……」と怯える彼に「大丈夫」と返す。傍にあった椅子を勧めて、自身もその横に腰を下ろす。何せ、少し長い話になるだろうから。

「何があったのか、話せる範囲でいいから教えてくれるかな?」

 まっすぐに目を見て尋ねる。しかしその色は、先ほどの憲兵に向けていたものとは異なり、真摯な気遣いが伝わるに十分なものだった。それが通じたのだろう。言葉を探すようにゆっくりと、シキミの口が開いた。



 シキミの話した内容は、概ね予想通りのものだった。

 『ドリアード』という植物を司る妖精として生まれた彼は、成長するにしたがってオリジンの力を現すようになってしまった。力を隠すことが困難となり、存在を政府――黒近衛に知られてしまった。捕えられた先に待つ非人道的な扱いについてはシキミも知っていた。監視が何処にあるのかも分からない中で、彼は一人きりでの逃亡を余儀なくされていた。そうして自分が何処に居るのかすら分からなくなりながらも、ただ黒近衛に捕まってはならないと、その一心で逃げてきたのだという。

「そう……今まで、よく頑張ったね」

 一通りを話し終えたシキミに、心からの労わりに満ちた目線を向ける。温かい飲み物に一息ついたのか、一人きりで抱えていた事情を打ち明けた事による安堵からか、先程までの蒼白な顔に幾分か血の気が戻っているように見て取れた。

「いえ。……あの、本当に、ありがとうございました。貴方に助けて頂いていなければ、今頃僕は……」

「そうだね。本当によかったと思うよ」

 黒近衛を退けられるかどうかは賭けだったが、結果上手くいったので良しとする。ただ、黒近衛達がシキミの存在を掴んでいるのは事実なので油断できる状況ではないが。

 けれど、一時の安息であるとしても張り詰めた糸が切れてしまう前に、緩めて息を吐ける環境というのは必要なものだ。一人での逃亡は相当なストレスだと容易に想像がつく。少しでも心身を休ませることが今のシキミにとって最も重要だと彼は考えた。その為に出来ることを、とも。最初に見た時から気になっていた一つ、包帯で巻かれた手を指して尋ねた。

「その手の包帯は、怪我を? 傷があるなら手当をしないといけないのだけれど」

「これ、は……この手は、毒を持っているので」

「それは、君の妖精としての種族特徴的なもの?」

「はい。……僕は、人や物に直接触れることが出来ません。なので、これを」

 包帯塗れの手を指したシキミの双眸には憂いの色が帯びていた。当人の言葉を信じるのなら、この街には存在しない未知の植物が毒素の由来らしい。

 それこそ政府がオリジンの肉体を用いて調査をしているような領域だ。毒性の特定や解毒方法を探すのは容易なことではない。しかし、医師である彼からすれば、シキミの手の状況は到底そのままにはしておけないものだった。少し考えこんでから、ふとある物の存在が脳裏を掠めた。迷いは、ほんの一瞬だった。治療方法が浮かばずとも対処法であれば思い当たるものがあった。

「……ちょっと、ごめんね」

 断りを入れてから処置室の棚を探る。少しして、奥の方に仕舞い込まれていた箱を見つけた。不思議そうに見詰めるシキミの前に、彼は箱の中からツヤのある特殊な素材で作られた、特徴的な色味をした手袋を差し出した。

「これは?」

「絶縁素材でできた手袋だよ。多分、毒も外に通さない材質だと思うから」

それは、この街では馴染みの無い材質だ。裏街の闇市では壁の外の世界からの物質が流通していることが多々あるが、これもそのうちの一つだ。但し、その材質の存在自体を知ったのは闇市で並べていたのが初めてではないのだけれど。

「そんな……頂いてしまう訳には」

「ここは診療所で、僕は医者です。これは君にとって必要な処置だから」

 少なくとも包帯で何重にも巻いている今よりは動作の自由が利く筈だからと勧めれば、暫しの逡巡の後にシキミは手袋を受け取った。身に付けるに当たって淡い緑色の染められた爪が目を引いた。染めた訳ではない、生来の色なのだという。きれいな色だと、そう素直に思った。

「すみませんでした……色々とご迷惑をお掛けしてしまって」

「気にしないで。本当に、大したことはしていないから」

「……すみません」

 軽く首を横に振ってみせるも恐縮も露わな様子で俯いてしまった。シキミの立場を思えば至極まっとうな反応ではあるのだが、対応した患者に暗い顔をさせるのは医師として不甲斐なさのようなものを覚える。

 しかし。続けられた言葉を聞いてしまっては、そんな自責の念など感じている余裕も無かった。

「ですが……これ以上、貴方を巻き込む訳にはいきません。僕はもう、これで……」

「それは、駄目」

 きっぱりと首を横に振った。強い口調と立ち去ろうとしたのを引き留めた手の強さに、シキミが驚いたように目を見張る。どこか浮世離れした彼を一人きりで外に出すことには、正直に言えば不安しかなかった。

「さっきは撒けたけど、この辺りにオリジン――君がいることを向こうは掴んでる。今外に出たら、すぐに捕まってしまう」

 怯えさせるのは本意ではないが、それが純然たる事実であるのも確かだった。この辺りに慣れていないというのであれば、一人で逃げ切るのは絶望的だ。関われば迷惑が掛かるというのは確かだとしても、到底見過ごせるものではない。

 それに、と。もう一つ気になっていたことがあった。倒れていた時の脚の状態と処置室に運んでから診た際の様子から、ある推測を立てていた。

「足の自由も、あまり利かないんじゃないのかな」

 それも御伽噺で伝わる『ドリアード』であれば納得がいく。樹木の精霊である彼らは、本来であれば移動を必要としない種族の筈だ。

純粋な驚きにシキミが目を見張る。頷いて、後に首を傾げた。

「どうして、そこまで」

「医者だから。患者さんの診察は基本だよ」

 些細な症状も見落とせば命取りになりかねない。それを知っているからこそ患者に全力を尽くす。それが己の信念だった。

 白銀の瞳はまっすぐにシキミを見詰める。淡い白の煌めきをした瞳を。

「医者として、苦痛を抱えたままの患者は見捨てられない」

 その境遇も、その手も。苦しんでいることを知ってしまったのならば、投げ出すことは出来なかった。僅かでも触れて掴んだものが、この手から零れ落ちてしまう。そんなことはもう嫌だった。

 目を見たまま、手袋越しに彼の手を取った。

「君を護るよ。シキミ君」

 護りたい。どうか護らせてほしい、と。

 真摯に誓う。その刹那、二人の間に白い閃光が走る。ほんの一瞬。しかしその時、確かに誓約が交わされた。



 それは、人間に触れられない一人のオリジンが運命と出会った雪の降る夜のこと。

 この灰壁の街で、己の命を懸けて守り抜くという誓いを立てた一人の暗がりの騎士が生まれた夜のことだった。



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