うちがわ

千羽はる

うちがわ

不思議な音が、街の中に響いている。


テンポよく過ぎていく電車の音ではなく、襲い来るようにわだちを鳴らす車の音でもない。


しかし、見渡してみても、ここはどこにでもある僕の生まれた町である。


多く見かける老人が元気で、少なくなった子どもが遊び、商店街はひなびて寂しそうで、駅前だけ頑張って開発された、どこにもである地方都市。


道はアスファルトに覆われて、必要な工事の時以外、土が顔を出すことはない。


というか、僕は生まれてこのかた、アスファルトの下にある土を見たことがない。


そんな街で、音が響いてる。


僕は不思議と、それを知っている。


bi-----n


bi-----n


学生の頃、音楽の授業で、ビデオで聞かされた琵琶の音だと気づくのに、あまり時間はいらなかった。


秋の日差し、和らぐ青空、言葉なく行きかういつも通りの人々。


僕を包み込む揺らがない日常の風景が、音に反応して小刻みに揺れる。


空気を揺るがし:腹の底に響き:脳を揺さぶり:大切に殻の内部に包まれた魂にまで振動を与え


すべてを揺るがす、琵琶の音。


・ ・ ・


突然、白が世界を埋めてしまった。


びっくりはしたけれど、「これは気を失ったな」と呟くことしかできない。


しかししかししかし


それで、終わりはしなかった。




白く清潔なレースのカーテンが風になびいて青空を見せるように、目の前で叫ばれたような衝撃と共に再び色を取り戻した世界で僕は、「透明」の中にいた。


経験を参考にすれば、一番近いのは水の中。でも、水では手を動かせる、足を動かせる、その抵抗が心地よくて、僕は好きだ。


けど、ここは違う。動かそうと体に力を入れると、水の中よりも強く反発され、動かすことはできなくなる。体が別の意志に従っているような嫌な感覚に、背筋がすっと冷え、こめかみからは冷や汗が噴き出した。


しかも、何かに見られている気がした。だからだろう。


理科室にあった可哀そうな標本たちを思い出し、「標 本」の二文字が脳裏で激しい点滅を続け、吐き出す行き場のない不快感をもたらす。


けど、この街に人はいない。


元気な老人も、はしゃぐ子供も、ひなびた商店街も、眩しい駅前もない。


眼前にあるのは、大きな大きな道だった。


アスファルトに覆われる前の、元気に砂埃をまき散らしている土の道。


道の両端には、昭和の時代に建てられたであろう、漆喰塗の古い建物が誇らしげに白と黒を輝かせる。


扉は薄い漆を塗っているのか艶やか。眩しい漆喰には歳月による汚れはなく、厳かな黒い瓦はまだ激しい風雨に晒されたことのない色合い。


まるで、今まさしく玉座に座った新たな王を連想させる、かりそめの威厳。


bi-------n


あの音が聞こえた。


音につられて目を動かすと、先ほどまで誰もいなかった道の真ん中に一人の老人が座っている。


座っている、というよりも、あれは座禅をしているのか。


老人という呼称に不釣り合いな、色さえ滲んできそうなほど硬質な生命力を静かに発散させる男。


きっちりと閉じられ、決して開くことのない、まぶた。


まとう衣服は着古されているものの、高級なものだったのだろう。


一切のほつれなく、色あせた袈裟は、細いが「ひ弱」ではない身体を包んでいる。


僕が見ている、老人たちの中にある弱さがない。


老いに対する一種の諦め、四肢に力が通わなくなることへのいら立ち、世の中に対する呆れ―――。


そういうネガティブなものが、一つとして、ない。


「生きるとは」に向き合い続けたものだけが持つ、堂々たる風格。


彼が「終焉」を超越したものであることを、彼自身が発する力が告げている。


「もう人ではない」ことを告げている。


男が、琵琶を奏でる。


あの音だった。どこからともなく聞こえた、あの。


bi----n


bi----n


魂に直接流し込まれる。


全身をさざなみが打つ。


身動きの取れないことの恐怖は不思議なく、ただ、彼が響かせる音にすべてが委ねられる。


親に手を惹かれる幼い子供のような気持ちを思い出す。


力強い存在に手を惹かれる安心感こそあれ、そこに、脆弱な僕の意志は、ない。


恐怖:清冽:幽玄:圧


彼の口がうっすらと開き、そこから、この世のものとは思えない唄が流れ出る。


わからない言葉だ。しかし、知っている。


心の奥、僕さえ知らないけど内側にいつも持っている未知の部分が、知っている。


瞼を閉じると、闇が見えた。


体の感覚は、闇の中にいる僕に主導権が取って代わる。


琵琶の音だけが僕を支え、この真っ暗闇に落ちていくことを許してくれる。


ずっとずっと、何年か何十年か何百年か何千年か、僕は墜ち続けた。


途中、僕は登っているのかもしれないとも思った。真っ暗闇はあまりにも、なにも見せてはくれなかったから。


堕ちて、登って、そして落ちて。感覚がなくなる頃に、そこにたどり着く。


暗闇の底の底、本来たどり着けない、辿り着いてはいけないところ。


そこは、湖だった。


果てのない広大な水面が、僕が足をつけるのと同時に大きな波紋を広げる。その後も、僕が動かずとも、琵琶の音が鳴り響くたびに小さな波紋を広げていき、おそらく存在しない果ての果てへと流れていった。


光のないところ。静かなところ。死に近いところ、生が生まれるところ。


僕はここを知っているけれど、知らない。知ってはいけない。


でも、焦がれていたから。僕が望んで止まなかったから、彼はわざわざここへ連れてきた。


おそろしかろう?身の内にこれほどの闇を持つ、人という生き物は。


うつくしかろう?身の内にこれほどの泉を持つ、人という生き物は。


そして、それ以上は知ってはならぬ。人には識ってはならぬものがある。


「さぁ、お帰り」


力強い琵琶の一弦が響く。その振動は、湖を荒立て、僕の立つ静かな水面を揺るがした。


僕の足元は崩れ去り、蛇に飲み込まれるように、真っ黒い水の中へと落ちていく。


苦しい。息が肺から逃げていく。手も足もバタついているのに抵抗ができず、体が徐々に重くなっていく。


助けて。


・ ・ ・


音が響いている。水が弾ける音。どこから?


少し熱中症になったのだろうか。頭がぼーっとして、少し足元がおぼつかない。


しかし、道端で喋る老人は元気だ。


公園では子供もはしゃいでいる。


相変わらずこの街の商店街はひなびていて寂しげ。


駅前だけが開発されて妙に煌びやかになっているのが、何だかいつも気に食わない。


僕はため息をつく。悲観論者なせいか、最近は、いつもつく。


でも僕はここで生きていかなければいけない。


なにを得るわけでもない人生であろうとも、僕は生まれた以上、人生を全うするのは最低限の義務だ。


使い古してずいぶん経つスニーカーの紐を確かめて、アスファルトに覆われて、可哀そうな代わりに土埃も立たない地面を歩いていく。


―――あれ、なんで土埃なんて連想したんだろう。


そんなことを考えて歩いていると、ふと、足元から不思議な音がした。


bi------n


bi------n


何の音だ?


足元を見てみると、そこは変哲もない排水溝。


水の落ちる音が反射して、不思議と雅な音を出しているらしい。


変な偶然もあるものである。


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うちがわ 千羽はる @capella92

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