僕は僕を殺せないまま、僕になれなかった僕に殺される

ふみ

第1話

 8月の蒸し暑い夏の日、僕はビルから飛び下りた。

 12歳の僕が書いた希望の言葉に満ちている卒業文集を手に持ち、27歳の僕は絶望と共に人生を終わらせることにした。

 僕の死体を太陽に見せつけてやりたくて、僕は晴れた日の昼間に飛び下りることを選んだ。


 『あなたの光は希望を照らすだけじゃない、あなたの下には疲れ果てて落ちていく人間もいるんです』――最後のメッセージだ。


 『将来の自分』というタイトルで叶わぬ夢を12歳の僕が羅列していた文章は遺書の代わりだ。『夢は必ず叶う』と僕の字で書いてあり、吐き気すら覚えてしまう。

 そして締めの言葉で『夢を叶えられなければ、高橋直人じゃない』とまで書かれてある。27歳まで生きた僕が、12歳の僕に存在を否定されていることが分かってもらえれば遺書になるだろう。



 死の直前で走馬灯のように人生を振り返ることが出来ると聞いたことがあるが、僕の場合は飛び下りている間に昔の自分に会いに行くことになってしまった。


 ビルの9階付近、目を閉じた僕は25歳の僕と出会った。

 誰も居なくなった会社に残って、壁に貼られた辞令を見続けている25歳の僕がいた。


――間違いない、部署異動を通達された時だ。部署異動させられたことで、僕は会社に来ることが苦痛になった。


 25歳の僕が無くしたのは、12歳の僕が書いた『会社の社長』という漠然とした夢。仕事で大きな失敗をしてしまい、働くことへの意欲を失ってしまっていた。小さな会社で出世をする意欲だけではなく、独立して起業する意欲も全て奪われていた。


 そんな25歳の僕が、僕の前に立っている。

 

 25歳の僕を殺せば、ビルから飛び下りている僕も消えるはずだと考えた。

 だから、僕は僕の首を絞めて殺すことにした。ゆっくりとネクタイを外して静かに近付く。25歳の僕は僕を見て驚いていたが、抵抗はしない。


「お前のせいで、僕は夢を失ったんだ。」


 25歳の僕が動かなくなるまで首を絞め続けたが、27歳の僕が消えることはなかった。

 僕は僕を殺せないまま、再び目を開けた世界でセミの鳴き声を聞いている。


――25歳の僕を殺したのに、僕はまだビルから落ちている。


 ビルから落ちている27歳の僕はネクタイをしていない。25歳の僕を絞め殺すために外して、過去の世界に置いてきた。


――僕は、僕を殺せなかった?



 目を開けた時にはビルの7階付近まで落ちていた。もう一度目を閉じると21歳の僕と出会った。

 一人暮らしの部屋の中で、『不合格』と書かれた通知をテーブルに置いてギターを鳴らしている21歳の僕がいた。


――最後と決めてオーディションに音源を送った時の結果だ。これでプロになることを諦めて、就職することにしたんだ。


 聞こえてくる音を不快に感じていた。弦の振動を電気信号に変えて増幅させた音は、セミの鳴き声よりも不快に感じる。

 21歳の僕が無くしたのは、12歳の僕が書いた『プロのミュージシャン』という夢。才能と言う言葉に絶望させられ、音楽を楽しむ本質を見失っていた。

 才能を言い訳にする人間は、成功した人間の努力を認めることが怖いだけの臆病者でしかない。


 そんな21歳の僕が、僕の前でギターを弾いている。


 21歳の僕を殺せば、今度こそビルから飛び下りている僕も消えるはずだ。

 だから、僕は僕のギターを奪い取って殴りつけることにした。21歳の僕は僕を見て驚いていたが抵抗はしない。


「お前のせいで、僕は夢を失ったんだ。」


 21歳の僕が動かなくなるまで殴り続けたが、27歳の僕が消えることはない。

 また僕は僕を殺せないまま、再び目を開けた世界でセミの鳴き声を聞いている。


――21歳の僕を殺したのに、僕はまだビルから落ちている。


 ビルから落ちている27歳の僕の手には折れたギターのネックが握られている。21歳の僕を殴り殺すために使って、過去の世界から持ってきてしまった物だ。


――僕は、僕を殺せなかった?


 大量に浴びた返り血も関係はない。このまま僕の血として処理されるだけのものだから。



 目を開けた時にはビルの5階付近まで落ちていた。もう一度目を閉じると17歳の僕と出会った。

 皆が帰ってしまった校庭で、黙々とサッカーボールを蹴り続けている17歳の僕がいた。高校生活最後に出場する大会のメンバーから外された後の僕だった。


――高校に入学して僕よりも上手いヤツが大勢いた。それなりに努力したはずだったのに、控えメンバーからも外されたんだ。


 控えからも外されていれば、サポートとして応援を続けるか退部するかの選択肢か残されていない。それでも未練たらしく汗を流している姿が気持ち悪かった。

 根拠のない自信を持っち続けていただけに惨めな姿だった。


 17歳の僕が無くしたのは、12歳の僕が書いた『サッカー選手』という夢。限られた世界の中で負けなかっただけの自信が、広い世界で通用しない事実が受け入れられなかった。

 過剰に評価された偽りの技術が、毎日積み重ねてきた本物の技術に勝てるわけがなかった。その事実を周囲の大人たちにも見抜いていたことが恥ずかしかった。


 そんな17歳の僕が、僕の前でボール遊びをしている。


 17歳の僕を殺せば、今度こそビルから飛び下りている僕も消えるはずだ。

 だから、僕は水飲み場で顔を洗っていた僕の頭をバケツの中に沈めることにした。17歳の僕は焦っていたが、すぐに抵抗はしなくなる。


「お前のせいで、僕は夢を失ったんだ。」


 17歳の僕が動かなくなるまで頭を押さえ続けたが、結局27歳の僕が消えることはなかった。

 また僕は僕を殺せないまま、再び目を開けた世界でセミの鳴き声を聞いている。


――17歳の僕を殺したのに、僕はまだビルから落ちている。


 ビルから落ちている27歳の僕の袖は濡れている。17歳の僕を押さえつけている間に濡れてしまっていたらしい。


――僕は、僕を殺せなかった?


 濡れていたとしても、こんなに暑い日だったらスグに乾いてしまうだろう。



 目を開けた時にはビルの3階付近まで落ちていた。もう一度目を閉じると12歳の僕を見つけた。

 卒業式を終えて帰り道を歩く僕はあの文集を手に持っている。


――12歳の僕があんな夢を書かなければ、僕は僕のままでいられたんだ。あの文集に書かれている僕に、僕はなれなかった。


 本当は卒業文集に書くことがなくて、困った末に適当に書いたことは覚えている。大人になった僕が、12歳の僕に八つ当たりをしているだけかもしれない。

 死を選んだ言い訳なんて何でも良かった。


 そんな12歳だった僕が、僕の目の前を歩いている。


 12歳の僕を殺せば、今度こそビルから飛び下りている僕も消えるはずだ。もうすぐ地面に激突するだろうから、これが最後。


「お前のせいで、僕は全てを失ったんだ。」


 12歳の僕は27歳の僕の言葉で歩みを止めて振り返った。


「僕は27歳になった、お前だ。」

『お前なんて、僕じゃない。』

「お前の勝手な理想のせいで、僕は苦しみ続けたんだ。」

『僕はお前みたいに疲れた大人にはならないんだ。世界の主役になれる人間なんだ。』

「誰のせいで疲れていると思っているんだ?お前は自分だけの世界でも主役になれなかった人間だ。」

『そんなことはない!僕は主役になれるんだ!』


 29歳の僕と12歳の僕の無価値な会話だった。同じ人間であるはずなのに会話が全く噛み合わない。


――サッカー選手

――プロのミュージシャン

――会社の社長


 12歳の僕が描いた『夢』は幼過ぎた。

 もともと『夢』とは睡眠中に見ている幻覚に過ぎず、現実ではないことを現した言葉だ。手の届かない物だと分かっていた先人たちが『希望』を『夢』に置き換えてくれた。

 望んだ通りにならなかったとしても、『夢』だから仕方ないと言い訳できるようにしてくれていた。


――夢は願っても叶わないことが分かっていたから、夢と名付けられたんだ。


 本当は、誰もが『なりたかった自分』になれない現在と折り合いをつけて、自分自身を肯定して生きている。それが成長なのかもしれない。

 成長できていなかった僕は『なりたかった自分』になれなかったことで、自分自身を否定してしまった。


『お前なんて知らない。お前と僕は別人だ!』

 

 12歳の僕が叫んでいる。


――そうか、もう別人になっていたんだ……。


 夢に満たされた12歳の僕は時間と共に、一つずつ夢を落としていく。夢を落としていくたびに僕は、以前とは違う『何か』になっていたらしい。

 そんな僕に時間的な繋がりなどは無く、中身が欠けていた『何か』が後に残されるだけだ。成長していない僕が、時間を積み重ねることなどできるはずもない。


 僕はビルから落ちている時間の中で過去に戻り、僕になれなかった『何か』を壊していただけだった。



 だから僕は、夢に満たされた12歳の僕を殺すのを止めた。


 12歳の僕は、これからの人生で沢山の『裏切り者』を作り続けるだろう。誰にも裏切られてなどいないのに、被害妄想で大切な人たちを『裏切り者』に変えていく。


 12歳の僕は、これからの人生で何度も『こんなはずじゃなかった』と言うことになるだろう。自分を慰める効果しかない無駄な言葉を使って誤魔化し続けるしかない。


 そして、目の前にいる12歳の僕が27歳になった時にビルから飛び降りるのだ。高橋直人になれなかったことを恨んで、殺すことなど出来ない過去の僕を殺し続ける。

 

 目の前にいる12歳の僕が、絶望の中で負の螺旋に落ちていく姿を見たくなっていた。

 傷付くだけの不器用な生き方しか出来ないことを僕は知っている。傷付くだけの時間の中で、傷付かないように悪足搔きして成長できなかった結果が僕だった。

 自分が主役だと言い張る12歳の僕に、モブでしかない人生を経験させたくなっている。


――だって、僕は僕ではないのだから、目の前の僕が不幸になっても関係ない……。



 笑顔で目を開けると地面が間近に迫っていた。 

 このまま地面に叩きつけられたとしても、僕は僕になれなかった器を壊しただけで、僕を殺すことは出来ないと悟っている。


 高橋直人になれなかった何かをビルの上から落としただけで、また僕は僕を殺せない。僕ではない僕が、僕をやめる権利などなかったのだ。

 僕が生きてきた時間の中で、どこかに置き去りにしてきただけの夢だって取り戻すチャンスはあったのかもしれない。でも、僕は僕を取り戻すことさえせずに、僕を失うことを受け入れてきたのだ。



 最期の瞬間、ビルの屋上を見上げると年老いた僕が立っていた。

 あの僕も、過去に戻って僕になれなかった僕を壊し続けているのかもしれない。


――あの僕は、何人の僕を殺してきたんだろう……?


 ビルの下には僕になれなかった残骸が落ちている。

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