太陽がのぼる日曜日
梁川航
1
世界は混沌に包まれていた。
見えるはずのもの、聞こえるはずのもの、感じるはずのもの、すべてが捉えられないが、同時に混沌として完全に知覚される。それが混沌という無秩序だった。
けれども不安はない。やるべきことははっきりしている。その先に私だけの光があるのも知っている。
だから私は、今回も「あの言葉」から始めた。
*
日曜日の朝、六時過ぎ。
青々とした草原の彼方から一筋の光が漏れた。夜明けだった。
世界にとってはただの一日の始まり。けれど私にとっては、他でもない日曜日──天使がやってくる日曜日の始まりだった。
遠くから、キュッ、キュッという足音が聞こえる。朝露をまとった草むらを、天使の靴が小気味よく踏みしめている。
今日の、いや今日も私は完全に浮き足立っていた。
具体的には一時間前から扉の前に立っていた。もちろん途中で起きてベッドから抜け出したのではない。日曜日が楽しみでそもそも一睡もできなかった。寝ようという意志は一応あったんだけども。
結果として徹夜になった回数を数えれば、今月はこれで四回目に当たる。つまり今月は全部徹夜で迎えてしまった。
本当はよくない、と思う。天使は私の健康にやけに厳しいから、一回の徹夜でも大目玉を食らってしまう。そしてなにより、最善ではない状態で天使と会うのは物惜しい。
しかしそうはいっても、実際楽しみで楽しみで楽しみで、だから当然胸の高まりは押さえられなくて、結果として寝付けなくなってしまうというのは、自然の摂理に則った当然の帰結である。だからしかたない。
天使が家の前に着いたのは、ちょうど太陽が完全に顔を出すころだった。
天使は立ち止まり、軽く服を整える。少しためらってから、扉をコン、コン、と鳴らした。それから控えめに言う。
「──ごめんください」
それはいつも通りの行動で、いつも通りの言葉だった。
数え切れないほど聞いた言葉。そして私も、数え切れないほど返答した言葉。
天使が言い終えるのと同時にドアノブを回した。
扉を開ける。
そこには天使がいた。
当たり前かもしれない。でも、当たり前じゃない。そこにいてくれるだけで嬉しい、特別な存在だった。
目線を上から下へやって、天使の背中へ手をのばし、身体を抱きしめた。
やわらかくてあたたかい。天使は確かに実在している。
天使は私より一回り以上小さい身体で、押しつぶしてしまわないかちょっとだけ不安になる。
「ん……」
天使の吐息が耳にかかる。少しくすぐったい。
私の方も天使の耳元に口を寄せた。そしてささやく。
「──大好きだよ」
これも、いつも通り。
やっぱり天使は返事をしなかった。
でもその代わり。
そろり、そろりと天使の腕も私の背中にのばされて。そして、ひょっとしたら私よりも強い力で抱きしめてくるのだ。
……最後でも変わらないな。
強情さというか頑固さというか、それが何ともかわいい。
私たちは無言で抱きしめあった。
しばらくして、天使の肩が小刻みに震えていることに気がついた。
声も涙もない。それでも天使は泣いていた。
「……そろそろ家に入ろうよ」
おもむろに私の顔を見上げる天使。目に見える表情はない。
私は顔を笑わせた。
「ほら、日曜日が始まるよ」
世界は六日の平日と一日の安息日からできている。これが一週間と呼ばれる。
平日の六日間は働く日。それは私も天使も変わらない。だから天使と会えるのは日曜日だけ。
日曜日は私にとって(そしてきっと天使にとっても)唯一の生きがいだった。カレンダーの日曜日には赤い印をつけて、ひたすら一週間が過ぎるのを待った。
とはいえ、実際日曜日になって天使と逢瀬を果たしても、何か特別なことをするわけでもない。
私は天使が好きだし、天使も私が好き。それは事実だ。
そういうとき人間は、例えば美味しいものを食べに行ったり、ちょっと遠出してみたり……そう、デートをしていた。
でも、私たちにデートは必要ない。デートをするという選択肢が生まれてこなかった。
つまるところ、私たちはデートをするには完全すぎた。「ここではないどこか」が、私たちには存在しなかった。
だから日曜日は家で過ごすことにしている。たいていはベッドで、天使と背中合わせになって読書をして。それか編み物だ。
時々は会話を交わすこともある。けれどたいていは無言だ。それでもそれが心地良い。
……でも。
そんな日曜日も今日で終わりだ。
この私が終わらせるのだから。
六時半、天使が持ってきたサンドイッチを食べた。
七時、読書を始める。天使も読書を始めた。
八時、同上。
九時、同上。
十時、同上。
十一時、同上。
十二時、朝に摘んでおいた野菜のサラダを食べた。
一三時、読書。
一四時、同上。
一五時、
「やっぱり、最後までそうなんですね」
天使がぽつりと呟いた。
読みかけのハードカバーを置いて天使に向かいあった。
「……私は、どこまで行っても私だよ。いつ、どこであっても」
窓からちらりと見える太陽は、着実に西に向かっている。残された時間はわずかだった。
天使は私の胸に顔をうずめた。腕を背中に回して抱きついてきた。そして小さい声で言った。
「……もう、いいです、そのままで」
ふてくされた声にも安心した声にも聞こえる。
「ごめんね」
実のところ頑固なのは私の方かもしれなかった。
そっと天使の頭を撫でる。髪は絹糸のようになめらかだった。
「……謝らないでください」
天使は右手でぼすっ、とベッドを叩いた。
ただ、ずっと抱き合っている。
天使の髪を眺めながら、心のなかで呟いた。
結局私は、壊すことしかできない存在なんだ。
一五時半。
ベッドから太陽をあおぐ。もう窓の下半分にまで達している。日没が近い。
天使はあれからずっと私に抱きついたままだった。
寝ているのかもわからない。でも天使に限って最後に寝ているなんてことはありえないだろう。
感情を見せない飄々とした存在に思われがちな天使だけれど、本当は、その心には誰よりも激しい波乱が巻き起こっていることを私は知っている。
もう一度天使の頭を撫でた。
「──そろそろ行こうか」
天使の肩がびくっと跳ねた。ベッドのシーツが強く握られた。
少しの沈黙があった。天使は動かなかった。私も動かない。
天使はうずめていた顔を上げた。もう肩は震えていない。
「……わかりました」
日曜日が、もうすぐ終わる。
一五時五〇分。
庭に出て座った。天使と手を繋いだ。
眼前にはただ草原だけが広がる。その向こうにはまだ海が残っているはずだが、ここからでは見えない。
動物は随分昔に消えた。消えたというか、消したというか。もちろん人も例外ではない。むしろ最初に消えた。その痕跡が風化したのだって最近の話じゃない。
太陽が刻一刻と沈んでいく。
──一つの恒星がすべての生き物に影響を与えるなんてアイデア、少し奇抜だったかもしれない。ぼんやりそう思う。でも実は、太陽のことは結構気に入っているのだ。あたたかいし。
先に口を開いたのは天使だった。
「──あの」
心なしか、私の手を握る力が強まっていた。
「どうかした?」
私はほほえんだ。
天使はまっすぐこちらを向く。私の眼中を見つめている。真摯なまなざしだった。
朝からの弱々しい様子はもうない。
「私はあなたを愛しています。そしてこれからも、永遠の愛を誓います」
「……」
天使の言葉は、ひとつひとつ丁寧に発せられていた。力強かった。私は黙って天使に相対する。
「私はあなたに、私の全てを捧げたいんです……。ううん、捧げるんです」
「……うん」
「本当は、愛に見返りを求めてはいけないのかもしれません。それもあなただったらなおさら。……それでも」
天使は言葉を切った。
「私はあなたの愛も欲しいんです。『好き』じゃなくて、永遠の『愛』が欲しいんです」
それを聞いて、私の顔がどんなに歪んでいたかわからない。
「……でも、私はこれから世界を壊す存在なんだ。永遠なんて存在しない」
私の言葉を天使はさえぎる。
「──わたしは知っていますよ。あなたが壊す存在じゃなくて、創る存在だと」
天使は私の首に腕を回した。そして私の頭を撫でた。いつも私がしてきたみたいに。
自然と口から言葉が漏れる。
「……不安なんだ」
今度は私の肩が震える。
「私は愛していいのか──そもそも愛せるのか。……この世界は、何でも変わらずにはいられなくて。私は変わっていくものを見続けてきた。そんな私が、愛とか永遠とか言ってもいいんだろうか」
私の愛は万物に向けられていた。世界が始まったときから。それが私の役目だった。
天使は笑った。天使の微笑みだった。子供を諭すように言う。
「私を愛して、その結果あなたの世界への愛が消えるとは、わたしには思えません。あなたの世界への愛は、きっと永遠です。……それに」
天使の抱きつく力がいっそう強まった。不思議とまったく苦しくない。
天使が続けるとともに、ふわり、と風が吹いた。
──あなたは神さまなんですから、それくらい、きっと簡単に出来てしまいますよ。
……そうかな。
そうですよ。
……いいのかな。
いいんですよ。
応答が続いた。
私は泣いた。
天使も泣いた。
私は泣きながら言った。
「私は、キミを愛しているよ。永遠に」
二人の涙が地面に落ちた。
そして。
世界が終わった。
*
世界を創るのには実に六日間を要した。さすがに疲れた。今日は一日安息を取ろう。明日からは終末まで、七日のうち六日は世界を維持する仕事をしなければいけない。神さまというのも骨が折れる。
私はベッドに腰掛けた。
そのとき、窓の向こうから一筋の光が漏れた。
太陽がのぼる日曜日 梁川航 @liangchuan
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