第弐章の参【過日】3/5

 激しい雨が降り注いでいた。

 スラムを縦断し、復興の兆しが多少見える街中まで、ゴダイとユリアは足を踏み入れていた。けれども陽はすでに落ち切って、辺りに人はまばらだった。

 シャッタアシャッターのおりた古臭い商店街の一角で、二人は雨宿りをする。降り注ぐ大量の雨が、さびついたア々ケヱドアーケードの屋根を激しく叩いている。まるで機関銃のようだった。

「ねえ……」ユリアがそばに座り込むゴダイに、そっと声をかけた。「さっきのあれ、何だったの? あと、偽者って……何?」

 ゴダイは顔を上げて、シャッタアに寄りかかるユリアを見た。両手で身体をさすっている。夜冷えに濡れた身体が凍え始める。

「……アレは、極東御十教イヰスタンクロスの警護隊の奴らだ。みんなはシヱパアドって呼んでる」

「シヱパアド……?」

「迷える羊を導く犬のことだよ……奴らは教会の教えに忠実で、それを守るように……その、何ていうんだっけ、ああ、アレだ。治安の維持を目的にしてるんだよ」

「治安の維持?」

「うん。教会の教えに従わない奴らを力づくで従わせるんだよ」

「……ねえ、普通この国の人って皆、教会の教えを守ってるんじゃないの?」

 ゴダイは軽蔑するようにユリアを見た。ユリアは驚いて、急いで付け加えた。

「だ、だって、私のお父さんだって、極東御十教徒だったよ。そ、そんなに変なことかな? 私たちが廃墟に住んでたのがいけなかったの?」

「……いや、別に……まあ、その、なんだ。この国の大半の人は、適当に御十教に従ってるとは思うよ……だって、特にそれで困るような事もないし、色々なことが御十教によって決まってて、便利だからさ。あいつらも別に、俺らが廃墟に住んでたとか、盗みを働いたとか、そんなことは大して気にしてないと思うよ。奴らも、そこまで暇じゃあないだろうし……」

「じゃ、じゃあどうして……?」

「ユリアはさ、偽者って分かる?」

 ユリアは首を横に振った。

「じゃあ、その……複写生命は知ってる?」

「それくらいは知ってるよ。同じ生物をそっくりそのまま作る奴でしょ?」

 ゴダイは頷く。

「教会の経典は、その技術を禁止しているんだ」

「……うん、それで?」

「……その、人間の中にも……いるんだよ、複写生命の奴が」

 ユリアがその発言の意味を理解するのに数秒を要した。それからゆっくりと口を開いた。

「それ、本当なの?」

「本当なんだ。いるんだ、複写生命で作られた人間が」

 ユリアは眉間に皺を寄せてゴダイを見つめ、次の言葉を待っている。

「……教会は、そういう人間の事を、似て非なる者、そう呼んでる。俺らは、偽物って……。誰かの、偽者だから……」

 ゴダイは、ユリアが口を開くのを待つ。けれども、ユリアは何も言わない。仕方なくゴダイは続ける。

「……で、教会は、その偽者を見つけては、施設に収容してるんだよ」

「……施設」

「そう、施設だよ。奴らは、足の裏を見て、偽者かどうか判別する。偽者の足の裏には微かな番号が刻まれているから……」

「番号……」

「そうだよ。だから、さっきコミュニティで靴を脱がされてたのは、そういうことなんだ」

「……ねえ、ゴ、ゴダイもその偽者なの?」

 ゴダイは頭をかきむしり、それから靴を脱ぎ始めた。雨に濡れた足の裏を、ユリアに向けた。ユリアは屈みこんで、見た。

「親指の付け根に……」

 そう言って、ゴダイは親指の付け根を押す。赤く小さな番号の羅列が、そこに浮かび上がった。

「……お前に、酷い事を話したと思うよ。だけども、その……あの施設にいたってことはさ、ユリア、お前も誰かのさ……」

 靴を履きながら、ゴダイは慎重に言葉を選んだ。ユリアの顔を直視できなかった。誰かの偽者だということを知らされた人間がする顔を、ゴダイは見たくなかった。ましてや、年近い女の子であればなおさらだった。

「それ……本当? 何かの間違いじゃないの……?」

 ユリアが言った。ゴダイは驚いた。ユリアの言葉には、微塵も悲痛な響きが感じられなかったからだ。

「そうだよ。どう考えたって、あの施設にいるってことはそういうことなんだよ」

 ゴダイの口調に苛立ちが混じる。

「だ、だって私、足の裏にそんな番号ないよ……」

 今度はユリアが靴を脱ぎ始めた。ゴダイが彼女の右足を見た。汚れのない真っ白な足。ゴダイは、ユリアに左足を見せるように言った。左足もまったく同様に綺麗なままだった。付け根には番号の兆候が、何一つ見当たらなかった。

「……どういうことだよ……何で? 番号を消すとしたって、手術をしなきゃ消せないはずなのに……何で……普通そんな費用は……」

 ゴダイはぶつぶつと呟く。それから顔を上げて、青白いユリアの顔を見つめた。

「……ねえ、前から気にはなってたんだ。ユリアってさ、何人なの?」

「……えっ? え、英国人だけど……」

 ゴダイは考え込む。

「ねえ、ユリア。君は施設に入る前はどこにいたの? 親は何をやってたの?」

「……山の手の向こう側……お、親は政治家で……」ユリアの声は震えている。

「政治家……?」

「うん……ダイスマン、ダイスマン・ウォヱンラヰト……」

「聞いたことある……貴族じゃないか……」

 ユリアは頷く。思い出される父に棄てられた記憶。ゴダイがユリアにそっと告げた。

「これは、俺の勝手な想像なんだけど……多分、ユリアは誰かの偽者で、足の裏の番号は、その……手術で消されたんだ……」

 ユリアの顔が醜く歪んだ。今にも泣き出しそうだった。ユリアはしゃがみこんで、膝に顔をうずめた。ゴダイは、隣で縮こまり震えているユリアを感じた。寒くて震えているわけではない。だが、泣き声が聞こえないから、本当に泣いているのか、ゴダイには分からない。ただ一言だけ、彼女に向けて言った。

「ごめん……」

 雨はその激しさを緩めなかった。夜の帳が降り始めていた。二人は世界に絶望し始めた。そして残酷な救いの手が、二人に唐突に訪れた。

「君たち、こんなところで一体どうしたんだい?」

 四十代くらいの男が、傘を手に、二人の前に立っていた。温和そうな顔つきで、心底二人を心配するように、声をかけてきた。ユリアは顔を上げた。ゴダイは男を睨みつけた。

 寄る辺よるべのない幼い二人に出来ることは他になかった。二人は、この男の家に行くことになった。


 男の家は、スラムよりもいくらかマシな小さな町の一角にあった。苔の生えたレンガ造りの一軒家。家に入れば、そこには男の妻と、ゴダイたちと同じ年ごろの三人の子供がいた。だが、子供たちはその夫婦の子供ではなかった。彼らは全員、戦争孤児だった。男とその妻は、彼らを街で見つけて拾ってきたのである。

 男は言った。

「君たちもここで暮らすといい」

 男の名は、カガミと言った。彼は、この地域の新聞配達やビラの投函などを主な生業としていた。そう、カガミは子供たちに配達と投函を手伝わせることで、自分たちの糊口ここうを凌いでいたのである。それはゴダイとユリアも例外ではなかった。

 二人は、朝陽が昇る前に起こされて、重い紙束を抱えながら自転車をこがされた。しかし、それでも特に不満はなかった。当初、猜疑心を抱いていたゴダイも、働く対価として衣食住を与えられるのであれば、カガミのこの偽善じみた施しも正当なもののように見ることが出来た。もちろん、楽な仕事ではない。だが、それでもカガミとその妻は、子供たちには親切であったし、何よりも、スラムに比べれば格段に安全が保障されていた。

 ゴダイは段々と、このぬるま湯みたいな生活に浸り始めていた。他の子供たちとも適当に仲良くやっていけていたし、カガミ夫妻も悪くはなかった。ただ、夫婦は御十教徒ごづきょうとであった。居間に掲げられた十字架が、それを明確に示していた。けれどもそれは、形だけの物でしかなかった。誰の家にでもある、ただの飾りに過ぎなかった。

 そして、この生活で何よりゴダイにとって嬉しかったのは、あの雨の日以降、口数がめっきり減ってしまったユリアが、徐々にまた笑顔を見せてくれたことだった。あの日の事を、ゴダイは何度も謝った。しかし、ユリアはいつも黙りこむだけだった。だから、例えその笑顔が、自分に向けられたものでなかったとしても、ゴダイにはそれだけで十分だった。

 けれども、ゴダイは見逃していた。カガミがユリアたちを拾った理由、そして彼女に向ける眼差しの意味を――。

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