高校最後の夏、好きだった幼馴染が妊娠した。

ミソネタ・ドザえもん

相手は一体、誰なんだ?

 笑顔の多い快活な少女だった。

 

 小さい頃から、俺の人生の中心にはいつだって彼女がいた。彼女が微笑むだけで心が安らげたし、彼女が泣けばどうしようもなく狼狽えていた。

 だけど、まだまだ未熟者な俺は自分のこの気持ちの正体を中々気付けずにいた。それでもほぼ答え合わせのように彼女と一緒に生きてきた。これまでの十八年間、俺の中心には彼女がずっといたのだ。


 彼女との付き合いが疎遠になった試しはなかった。

 彼女はいつだって、俺の傍にいてくれた。あの快活そうな、まるで向日葵のような晴れ晴れとした笑顔で、俺の心を満たしてくれていた。彼女の笑顔を見る度、俺は心の奥底から自分の気持ちが晴れていくのがわかっていた。彼女の笑顔は、俺にとっては精神安定剤のようなものだったのだ。


 彼女のいない人生なんて、これまでずっと考えられなかった。


 彼女との将来を具体的に想ったことはなかったが……逆を言えば、彼女と別れる将来が訪れると思ったこともなかったのだ。


 保育園、小学校、中学、高校と彼女と同じ学校に通い続けた。ほぼいつだって、彼女とは一緒にいた。だから、彼女のことは全て知っていると思っていた。


 だけど、夏休み明け学校に赴いて、いの一番に彼女が妊娠したという噂で学校が持ち切りになった時、俺は初めて俺の知らない彼女の姿があったことを身に沁みさせられた。


 騒然とするクラスで、彼女の相手探し、妊娠させた相手探しがクラス中で巻き起こった時、俺は、クラスメイトから真っ先に疑われた。俺達はいつだって一緒にいた。それは主観視ではなく、客観的に見てもそうだった。だから、俺が疑われたのだ。


 だけど、俺が流した涙を見た周囲は、まもなく件の男が俺でないことを察したのだった。


 そんな周囲の哀れみの視線を浴びながら、俺はこの時、初めて幼馴染への好意を理解させられたのだった。今まで曖昧だった気持ちの正体に気付かされることは、少しだけ爽快ではあったが、あまりにも遅すぎる理解に、俺は最終的には後悔以外の感情は消え失せさせられることとなった。

 好意を自覚するにはあまりにも遅すぎた。彼女はもう、別の男のものになってしまったのだから。


 帰り道、一人で歩く通学路は随分と広く感じられた。いつもだったら隣に幼馴染がいた。微笑む彼女が、面白くもないジョークを飛ばして、俺は苦笑交じりに彼女を軽く小突く。そんな日々を送っていたのだ。

 もう俺の隣で、彼女があの無邪気な笑みを浮かべることはない。

 あの微笑む彼女の姿は偽りだったのだろうか。そんな疑問が浮かんでは消えていった。


 俺に向けてくれたあの微笑みは偽りで、別の誰かにあれ以上の恍惚な笑みを浮かべていたのかと思うと、頭がおかしくなりそうだった。


 噂が学校に広まって以降、彼女が学校に姿を見せることはなくなった。事態を重く見た学校は、彼女の退学手続きを両親と進めているとのことだった。


「瞳、あの年で母親かー」


「あいつにヤラしてくれって頼んでたらヤラしてもらえたのかなー?」


 周囲では、彼女のことを尻軽だなんだと罵る風潮が広まった。

 まだ高校生の身でありながら、誰かと一夜を共にし大人になった彼女に対して、下衆な印象を抱いたのだ。


 俺は彼女に対するそんな周囲の意見に、何も口を挟むことはなかった。青空広がる外の景色にただ夢中になっていた。この世界はどこまでも広く、されどただ一人の少女の貞操を知り、蔑み、中傷する。そんな意地汚い世界に。そして自分の胸に残った後悔に。


 俺はただ、自我を保つことだけで精一杯になっていた。


 彼女がいたあの時、虹色に彩られていたこの世界が、今では灰色に見えた。それほどまでに、俺の人生は彼女の存在が大きかったことを理解させられると、より深い後悔に襲われて、俺は家に帰ると一人涙を流すことしか出来なかった。


「入るぞ」


 憔悴する俺の部屋に、父が姿を見せたのはそんな日の夜のことだった。


「大丈夫か」


 俺は何も返事をすることは出来なかった。反抗期で、日頃なら親に弱みなんて見せたくなかったのに。それなのに、俺はただ憔悴しきった姿しか見せることは出来なかった。


「聞いたぞ、大変だったな」


 父は、どうやら俺の身を案じてくれているようだった。


「……大丈夫か。なんて聞くのは、野暮だよな」


 父は、呟いた。


「だけど、いつまでもそうしていても、埒が明かないぞ。お前も今年で十八歳。もう結婚出来る年になった。そんな大人になりつつあるお前が、そうしていつまでもウジウジとしていちゃいけない。成長しないとな。大人にならないとな。俺と母さんは……どこまで行ってもお前の味方だからな」


 そう言う父に頭を撫でられた。

 十八歳にもなって、父に頭を撫でられる日が来るとは思わなかった。


 それだけ言って、父は部屋を出て行った。憔悴しきった俺に、これ以上の言葉をかけることが出来ないと思ったのかもしれない。

 

 その日、俺は夢を見た。


 まだ小さい頃、幼馴染の彼女が癇癪を起して、放っておくわけにもいかず二人で家出をして、暗くなって、喉が痛くなるくらい泣き叫んだ彼女を宥めることに必死だったあの日のことだった。


『大丈夫、大丈夫だから』


 泣きそうな気持ちを抑えながら、俺はあの時、ひたすらに彼女を励まし続けた。大丈夫なはずがないことは自分でもわかっていた。見ず知らずの土地、自分と同じ年頃の彼女と二人きりな状況が不安でないはずがなかった。

 だけど、俺は彼女を励ます言葉をひたすら続けた。


 そう言って、自分を言い聞かせる気持ちがあった。

 だけど一番は、ただ彼女に泣き止んで欲しかったのだ。


 彼女の泣き顔は好きじゃなかった。

 俺は、彼女の微笑む時に見せるあの顔が好きだった。


 女の子でありながら全然お淑やかではないあの笑顔に、俺はあの時から既に惹かれていたのだろう。


 翌日、俺は学校をサボって彼女の家に赴いた。理由はわからない。ただ、あの時のように独断専行し、一人身勝手に進んでいく彼女のことを……。俺はただ、心配していたのかもしれない。


 インターフォンを押す時、俺はいつにもまして緊張していた。


「おばさん、おはようございます」


 しばらくして出てきた彼女の母に、俺は頭を下げた。


「あら、おはよう。瞳ね?」


「……はい」


「ちょっと待ってて」


 おばさんはそう言って、俺を家に招き入れながら、二階にいる瞳を呼びに向かった。おばさんの大きめの声が聞こえてからしばらくして、瞳が姿を見せた。


「ケンちゃん。どうしたの?」


 瞳は、夏休み前一緒に帰った時もほぼ変わらず、元気そうだった。まだお腹も大きくなっていないようで、本当に夏休み前に見た姿から変わっているようには見えなかった。


「……体調はどうかなって」


 前までは意識しなくても言葉は出てきたのに、今は初めて会った人と話すようなぎこちなさを覚えさせられた。


「とりあえず、部屋に行こうか」


「……お邪魔します」


 二階に連れられながら、こうして彼女の部屋に上がるのはいつ振りだろうと思っていた。いつだって、俺は彼女に家に押しかけられる立場で、俺からこうして家に訪ねることは滅多になかった。それこそ、本当に小学生以来かもしれない。

 ……彼女に構われるばかりで、俺から彼女に自発的に話すことは少なかったんだ、と今更気付かされた。


 好きだなんだと言いながら、そういう甘さがあったから、彼女はきっと他の男に靡いてしまったのだろう。


 涙が出そうだった。そんな気分で久々に入る彼女の部屋は、随分と女の子らしい、可愛らしい部屋だった。


「……あのぬいぐるみ」


 部屋に入るなり見つけたベッドの傍らに置かれたイルカのぬいぐるみには見覚えがあった。あれは確か、俺達が保育園の頃、俺が彼女に贈った誕生日プレゼントだ。


 ……まだ取っておいてくれたのか。


「あのイルカのぬいぐるみ、親と一緒に行ったデパートでお前が欲しいって親に愚図ったやつだよな」


「え……ああ、そうそう。懐かしいよねー」


 言って同意されてから、俺は激しい後悔に襲われた。そんなこと言ってどうする。どう転んでも、こんなこと話したら俺が苦しくなるだけじゃないか。


「そういえばこれ、ケンちゃんが誕生日プレゼントでくれたんだよね」


 胸が張り裂けそうだった。

 彼女が覚えていてくれたことが嬉しかった。

 彼女がまだそれを大切にしてくれていたことが嬉しかった。


 だけど、彼女が俺を見捨てたことが、悲しかった。


 いいや、見捨てたわけじゃない。

 優しくしてくれた彼女の気持ちに、俺が背き続けたことがいけないんだ。全部は、俺のせいなんだ。


 そうだ。

 そうだった。


 彼女が誰かと一夜を共にしたことを差し引いて、俺は今まで一度だって彼女に自分の気持ちを伝えたことがあったか。


 なかった。

 一度だって、なかった。


 それなのに、見捨てただなんて言いがかり、おかしいじゃないか。


 彼女はただ、好いた誰かと愛を深めただけなのだ。その副産物で、愛する人との子を孕んだだけなんだ。


 ……彼女を見捨てたのは、俺なんだ。

 好意を抱いていながら、曖昧な態度しかしなかった俺なんだ。


「それで、今日はどうしたの?」


「……誰なんだ」


 ただそれでも、俺は知りたかった。


「お前の相手は……誰なんだ」


 彼女の相手が誰なのか。

 彼女が好いた相手が誰なのか。


 ……彼女と未来を進む相手は、誰なのか。


「お前は誰と、その子を育てるんだ?」




「ん」




 彼女は、俺を指さした。


 その子を育んだ相手を聞いたのに、何故だか俺を指さした。


「ん?」


 俺は、さっきまで脳内を占めていた感情が消え去って、冷たい冷たい冷や汗を顔いっぱいに掻いていた。

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