あの娘が空を見上げる理由ー第一章 憧憬ー

堀井菖蒲

序章

序章

 約束を破ってしまった。

 気がついたら朝になっていた。


 始発電車のドアが開くと、転がり出すように家へ向かって走る。早朝の空気が冷たく頬をすり抜け、吐く息はかすかに白い。


 昨日、生まれて初めて酒を飲んだ。頭が割れるように痛い。みぞおちの辺りがむかつく。地面を蹴る振動で、胃液が上がってきそうだ。その上、家の門までは緩やかな上り坂が続く。


 正人 まさとは一度足を止め、体をくの字に折り曲げて荒くなった息を整えた。夜の間に雨が降ったのか、アスファルトが湿っている。


 十九歳の誕生日、母はケーキを買って帰りを待つといっていた。

 「昔みたいにごちそうを作ってあげられなくてごめんね・・・。」

 寂しそうにつぶやいた美しい横顔がちらつく。

 心配しただろうか。悲しい気持ちで、眠りについたのだろうか。最近やっと、日中床から出られるようになったというのに。


 正人は顔を上げ、力を振り絞るように体を起こし、重力に逆らって足を動かし始めた。

 坂道の向こうに朝焼けの空が見える。幾重にも重なった薄い雲が銀朱色ぎんしゅいろのグラデーションを作っている。このまま走って行ったら、飲み込まれてしまいそうだと思う。


 必死に足を動かし続け、やっとたどり着いた家の門をくぐる。

 石畳のアプローチに足を進める。縁取るように植えられた満天星 どうだんつつじが真っ赤に染まっている。葉の表面に残った雨粒が朝焼けの光を反射してキラキラと光る。


 緋色の生け垣は緩やかにカーブしている。剪定をしていないので、伸びた枝が時折足に刺さる。手入れをされていない荒れ放題の庭。カーブを曲がると、枝振りのいい松の木が見える…はずだった。


 松の木の枝に、白く細長いものがぶらさがっているように見えた。白く柔らかな布の塊。上部を覆うのは黒く長い…髪。


 白い布の端から、血の気を失った手と足が覗いている。


 強い風が吹いた。

 白と黒の塊は風を受け、微かに揺れた。



***


 まぶたの上をまぶしい光がよぎり、正人は驚いて目を開けた。


 いつの間にか太陽を遮っていた雲が晴れていたようだ。椅子の背もたれに預けていた頭をもたげる。


窓の外が光にあふれて真っ白に見えた。だがそれはほんの一瞬で、大木の陰が光の中から現れる。枝に、ムクムクとした白い小鳥が二羽、止まっている。つがいなのだろうか。お互いにくちばしとくちばしを合わせた後、照れたようにそっぽを向きあう。その姿がかわいらしく、正人はふっと笑った。


 近くに行ったら、逃げるだろうか。

 正人はゆっくりと体を起こした。椅子の背もたれの虎斑が光を受けてキラリと光る。


 音を立てないように気をつけながらドアを開けた。

 冷たい空気が身体を刻みつけるようだ。正人の体には肉がなく、弾力のない肌はくすんでいる。冷たい空気にあらがう熱を作ることは、もはやできない。


 正人の開けたドアの向こうはまだ溶けきらない雪に覆われている。しかし、地熱と太陽の光、そして雨によって密度を失い、正人が長靴で踏みつけると、しゃくりというかすかな音を立てて押しつぶされた。


 しゃくり。しゃくり。


 音を立てないように気をつけても、雪は鳴る。


 正人の気配に気づいたつがいの島柄長しまえなが は飛び去ってしまった。


 「ああ。」


 正人は落胆し、息を吐いた。白い湯気のような吐息はすぐに風に流されて消える。目の前には、一抱えもある太い幹を斜めに延ばした樹が立っていた。


 「立派な枝振りの樹だ。」


 正人は、さっきまで島柄長が止まっていた木の枝を見上げた。弧を描きながら、空に向かって伸びている。


 まぶしい太陽の光に、目がくらむ。


 ふいに、白いシーツのようなものが顔に被さり、全身を覆ったような錯覚を覚えた。白くくらんだ視界に黒い斑点が混ざり、急激に暗転する。体が力を失い、重力に引き寄せられるまま雪原に横たわる。不思議と冷たさは感じない。


 母の顔がすぐ近くにあると感じる。


 迎えに来たの?


 薄れていく意識の仲で、母の気配に問う。それでもいい、と思う。それを望んでいた、とも思う。


 「だけどまだ、約束を果たしていないんだ……。」


 声にならない声で、正人はつぶやいた。


 --「約束?」


 遠いところで、澄んだ柔らかい声が聞こえた。


 「もしもし?」


 なんて優しく、甘い声だろう。


 「大丈夫ですか?もしもし?」


 細い指先が頬に触れる。じんわりと暖かい。


 重い扉を開けるように、まぶたを押し開けと、白い光を背にした少女の顔が見えた。


 天使だ。


 陶器のように滑らかな頬。焦げ茶色の大きな瞳。ふっくらとした薄紅色の唇。最期に目にするものがこんなに美しいものであるなら、思い残すことはないと、正人は重たいまぶたを閉じた。


 天使を迎えに来させるなんて……。お母さん…。

 正人の唇の端が、微かに持ち上がった。

 

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