第5話 牢獄

 橘さんが倒れたと、啓太からメールが来ていた。


 病室の番号を確認する。その大きく書かれた518の文字の下に、知らない名前とともに橘里穂の名前が並んであるのを見つける。

 恐る恐る入ってみると、向かて右奥のベットに見慣れた顔を見つけた。寝ているようだった。あいにく他の来客とかぶることもなく、ひとまず安心した。

 ベッドそばにあるパイプ椅子に腰かける。と、タイミングよく彼女が目を開いた。入院服を着こなした彼女が、起き上がり、大きく伸びをする。

「お母さん、まだいたんだ」

 どうやら寝ぼけているらしかった。目をこすってこちらを向くと、固まる。

 真っ赤に顔を染めあげて、もう一度寝た。半目を開けてこちらの様子をうかがっているのがバレバレだった。

「もしかして、千景君」

「そのもしかしてで、悪かったね。でもちょうど今来たんだ」

「来たなら起こしてくれたらよかったのに」

 幸せそうに寝てる彼女を起こすことはできなかった。というか、珍しく動揺しているのが僕じゃなくて彼女ということに少し優越感を感じた。これはいつものお返しだ。

「体、大丈夫なの」

 え、と橘さんはまた少しの間固まる。

「まさか、千景君の口から大丈夫なんて言葉が出てくるなんて思わなかったよ」

「僕をなんだと思ってるの」

「ナルシスト」

 冗談だよ。と慌てて付け加える。これは本当に思ってるパターンかもしれない。彼女の右腕に点滴の針が刺さってるのに気が付いた。僕が知る、元気な彼女が一気に病人になる。

「ほんとに、夏休みなのにこんなのってないよね。もっと遊びたいのに」

「そんなに入院長いの」

「そんなこともないけど、今週は少なくともここで寝てなさいだって。質素なご飯だし、友達と遊びに行けないし。最悪だよ」

 なんだかんだ、彼女の話に2時間ほど付き合ってあげた。橘さんと話していると時の流れの速さを感じる。



 ――暇

 電話が切れる。また病院へ向かう。僕の目には元気に見える橘さんからの呼び出しだ。別にすることもないから、行った。

「やっほー」

 僕が来ることを恐れて寝ていなかったのだろうか、彼女は眼鏡をかけて本を読んでいた。

「橘さんって眼鏡かけてたっけ」

「かっこいいでしょ。本読むときはいつもかけてるよ」

 そう思えば、彼女の手の中には小さな文庫本があった。初めて彼女が本を読んでいるのを見たかもしれない。ぱたんとためらいもなくその本を閉じる。

「しおりとか挟まなくていいの」

「いいよ。時間は無限にあるからねー。それより、何かいい本持ってきてくれない。代わりにこの本、貸してあげる」

 閉じたその本をこちらに渡す。見たことない題名の本だった。

「この本、どんな本なの」

「大量殺人事件だよ」

 にやにやしながら答えてきた。少なくとも、病室で読むような本ではないだろう。ちらっと、彼女と向かいのベッドに寝転ぶ女性を見る。聞こえていなかったらしい。一人ひやひやしていることも知らず、彼女が話し出した。

「ねえ、おかし食べたい」

「勝手に食べていいの」

「知らない。でも、体がチョコレートを求めている」


 ――暇

 彼女からいつもの恒例行事になりつつある電話がかかってくる。

 その日、病室を訪ねてみると、彼女は手品を披露してくれた。トランプの中で、僕がどのカードを選んだかをあてるシンプルな奴だ。とはいっても、僕はその種が何回やってもわからなかった。

「暇すぎて、あらかたスマホで見つけたトランプマジックならどれでもできるよ」

「将来はマジシャンにでもなれそうだな」

「なにそれ」

 楽しそうにきゃきゃっと笑う。


 ――暇

 電話を受けてから、すぐに彼女を訪ねるのが習慣になりつつある。

 彼女は、テレビ台下の棚を開けて、先週あげた5冊の本をこちらによこした。

「やばい。めっちゃ感動したけど、寝たら忘れた」

「なんだよそれ」

「でも、やっぱり感動できる小説がいいよね」


 ――暇

 彼女は、母親に買ってきてもらったのだろうか。以前みた魚の写真集ではない、海の写真集を見ていた。

「こんな写真どうやったら撮れるんだろうね。いつか行ってみたいな」


 そして、いつからか、暇といわれなくても橘さんの元へ行っている自分がいた。


 九月に入ってからも、彼女が学校に来ることはなかった。

 とはいっても、ほとんど毎日のように彼女の元を訪ねる。

「元気にしてるか」

「御覧の通り」

 両手を広げて見せる。制服のまま、病院を訪ねるの少しだけ、背筋を伸ばされた。

「学校始まったんだね」

「うん。もう九月だもんな。相変わらず退屈だよ」

「友達ができたら、どんな所でも楽しくなるよ」

 その日、テレビ台に乗ってあった花瓶の中には、きれいな花が生けられていた。

「きれいでしょ」

 視線に気づいたのだろうか、彼女も花束を見て満足げに頷いた。

「ねえ、橘さん」

「なによ。そんなに改まって」

「好きなんだよね」

 彼女は、口角を上げた。僕も、言うつもりはなかったのだけれど、いつの間にか口をつくようにして出てきた言葉に驚いた。思わず、頬を掻く。

「前は私のこと振ったくせに」

 ふてくされるようにして彼女が言う。そのあと、もう一度、こちらをしっかり見て出てきた言葉は、


 来なくていいよ。


 だった。口調はいつもの穏やかな彼女のもので。


 次の日、学校には行けなかった。


「千景、お前なんで学校来なかったんだよ。さぼりはお前にしては珍しいな」

「人にはいろいろ事情があるんだよ」

「お前、橘さんに振られたんだろ」

 何でそのことを知ってるんだ。僕は、他人にはもちろん、自分にすらその真実を隠しているつもりだったのだ。

「図星らしいな。これからもう行かないつもりだろ」

 それも当たり。人気者というのはどうやら誰しもが、読心術なるものを持っているようだった。

「来るなって言われたのに、行けるわけがないだろ」

「でも、本当に嫌いだったらそこまで言わない気がするな。俺なら、嫌いだっていうだけ。橘のところへ行くときの顔だけお前、めちゃくちゃ幸せそうだったからな」

「うるせえよ」

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