小説の中で生きる君へ。

仮名

第1話 出会い

 僕の平穏な日々を狂わせた彼女と出会ったのは、夏の暑い日のことだった。確か、その日は、エアコンが壊れたこともあり、久々に図書館に来ていた。そうでもなければ、インドアの僕が外に出る必要もなかった。

 シックな色をした木で区切られたスペースに教科書やら、ノートやらを出してはいたものの、勉強をしてる学生を演じる建前でしかなかった。来週から、期末テストが始まる予定なのだけど。

 ぼーっと、こじゃれた照明のかけてある天井を見つめる。周りの真面目そうな学生やら、老人やらの筆記音やら打鍵音やらが、聞こえてくる。その音は、何か生き急いでるように聞こえた。

 だから、生き急ぐほど人生が短くないと感じる僕は、カバンから文庫本を取り出す。図書館に来てまで、自分の本を開くことに違和感を覚えたが、どうでもよかった。

「ねえ、何読んでるの」

 水を打ったように静かだった空間に、石が投げ込まれ、波立つ。それがましてや、僕の隣から聞こえるのだから、少し戸惑った。

 振り返ってみると、そこにいたのは見知らぬ女子学生だった。多分、高校生。人の目を引き付けるような、きれいな二重と、黒髪の下にある雪のように白い肌が、印象的だった。所謂、クラスの男子ならだれもが一度は好きになるタイプ。

 とはいうものの、彼女のことを僕は知らなかった。

 返事のしように困っていると、彼女が口を開く。

「え、誰ですか。みたいな顔しないでよ。クラスメイトじゃん」

 僕は、まだ高校生にあるにもかかわらず、オレオレ詐欺にでも引っかかっているのだろうか。あまりクラスメイトと話すことがないからといって、顔くらいは覚えている。

 その頬を掻いて戸惑う容疑者は、ジーンズからヘアゴムを取り出して、髪を結いだす。あら不思議、そこに立っていた見知らぬ少女が、いつもクラスの中心に立っている同級生に変わる。

 でも、いずれにせよ、話したことがなかったのだから、どうでもよかった。

「橘さんか」

 表情をうかがいながら、恐る恐る出した名前は正解だった。

「いや、そんなにわかってましたよ感出されても。わかってなかったじゃん」

 衝立越しの隣の椅子を寄せて、そこにちょこんと座る。何か用事があるようにも見えなかったし、迷惑以外の何事でもなかった。彼女はそんなこともいざ知らず、僕の手の中にあった文庫本をするりと抜き取る。

 カバーを外して、ゲと声を出す。何か問題でもあっただろうか。自分がまずい本を読んでいただろうか、と頭を働かせる。

「千景くんって、こんなにげろ甘い本読むんだ。なんか意外」

 いきなり、下の名前呼び。まるで小学校からの知り合いみたいな自然さがあった。「たまたま」

 本当にたまたまだ。ミステリーを読む日もあれば、ハートフルピースな小説を読むこともある。

「いつもこんな本をにやにやしながら、教室の隅で読んでたのか」

「にやにやはしてないでしょ。というか、よくその本を知ってるね」

 一見、恋愛小説には見えない表紙のその本は、数年前のヒット作とは言い切れない恋愛小説。

「そりゃもちろん。私、意外と本読むからね」

 ポンと、胸を右手でたたく。授業中に、的外れな質問をしてまわりを笑わせたり、周りをいつも誰かが囲んでいる橘さんのその言葉ほど信じられることはなかった。

 かといって、僕も授業をまともに聞いていることもなく、教室で一人でいることを苦らしく思うわけでもない。

「今絶対にないと思ったでしょ」

 他人の考えを読むのも友達が多い所以かもしれない。そんな彼女には、小説なんてさらさら必要ないだろう。

「そんなことより、お昼ご飯食べに行かない。いいところ知ってるんだ」

 話の進み方も、急だった。

 無機質な壁にかかったと時計を眺める。単調に進む秒針がちょうど、長身と短針と重なる。

「友達と行きなよ」

「私たちも友達でしょ。それも去年から」

「でも、話したの初めてだよね」

「そんなこと、気にするの。そんなんだから、小説読むしかないんだよ」

「そんなんだから、君はいつも一人なんじゃん」

 声が大きくなる。途端に、周りから冷たい視線が飛んでくる。

 橘さんが耳元に彼女が口を近づけてくる。

「ほら、私たち。もうここにはいれないねえ」

 ウインクをしてみせる。


 本を読むタイプじゃないと、少しだけバカにしていた橘さんの策略にはまり、炎天下の元、背中に汗をにじませながら自転車を押す羽目になった。

 もちろん、隣の彼女は夏の猛撃に何の不満も見せず、何なら鼻歌交じりに歩く。

「家、この近くなの」

 無言が気まずくなって別に興味もなかったが、訪ねる。

「いいや。歩いて三十分くらい」

「図書館まで歩いてきたの」

 そうだよ。と、すれ違う車を眺めながら当たり前のように答える。歩いて十分の場所に家がある僕が自転車できたことがおかしいのだろうか。今日はやけに彼女に、ペースを乱される。

「ところでどこに行くの」

「いいお店があるんだよ。しほとあかりは行きたくないって言ってきてくれなかったんだけど」

 しほとあかりもクラスメイトなのだろうか。さすがに、下の名前まで覚えていなかった。

「そんなに変なところに連れて行くの」

「日本の至宝を味わいに行くだけだよ」

「なんだよそれ」

 この小さな町に、そんなお宝が隠されているなんて信じられなかった。


 その後三十分、学校のくだらない会話をしながら目的地を目指して歩いた。そこは小学生の時に母親に連れられて、何度か来たアーケード街にあった。

「そろそろだよ。ここら辺、こんなにも変わったんだね」

 橘さんは、左右に首を振りながら、お店を一つ逃さず、見ながら歩く。もし、目的のお店がつぶれていたとなれば、彼女のことは置いて自転車に乗って帰ってやろうか。

 そんなくだらない私怨の晴らし方を、考えていると、彼女は急に止まった。彼女の視線を追うと、そこには老舗の飲食店というのが似合う建物があった。豚骨ラーメンという筆で書いたような文字がプリントアウトされた旗が、何本も立っている。その奥には、何台もの自転車が止まってある。汗をかいた、小太りなサラリーマンが昼飯に一人で来そうだと思った。偏見でしかないのだけれど。

 その予想に反して、ためらいなく彼女が入っていったのに続くと、爽やかなウェイターがテーブルまで案内してくれた。その道中には、女性客だけのテーブルもあった。


「何食べる」

 ここまでの道のりがなかったかのように、メニュー表を見る彼女。

「なんでもいいよ。任せた」

 よくもそんなに元気なことだ。冷たいおしぼりが、手を通じて全身に冷気を届ける。と、彼女が呼び出しのベルを鳴らす。今さっき、開いたメニュー表をぱたんと閉じた。

 先ほど、ここまで送ってくれた店員さんに、豚骨ラーメンを二つ頼む。

「やっぱりここは豚骨ラーメンなんだよね」

「前に来たことあるの」

「いやないけど、そんな感じがしただけ」

 なんだよそれ。何を考えているのかわからないそれは、おいしそうに、ただの冷水を飲む。そうこうしているうちに、脂でギトギトなのだろう豚骨ラーメンが運ばれる。

「私、体に悪そうなものを食べるのが夢だったんだよ」

 と、訳の分からないことを言いながら、勢いよくラーメンをすする。


 来週の期末テストの話、犬が飼いたいという話、九月の最後にある花火大会が、少し遅くないかという話。橘さんのほぼ一方的な話を聞きながら、ラーメンを食べきった。そのころには、すでに高嶺の花という彼女のレッテルは完全に離れ、話のおもしろい女の子に成り下がっていた。それが悪いことではないのだけれど。


「じゃあ、そろそろ帰るか」

 その展開の忙しい日からようやく解放されたころには、すで二時を回っていた。

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