自由に憧れている。
偃
自由に憧れている。
大人になりたかった。
大人になりたくて、なりたくてしょうがなかった。
自由に憧れていた。
自分で全てを選択できる権利に憧れていた。いや、憧れている。
責任を知った。
自分で決めることに伴う重さを感じた。
自由に縛られはじめた。
自分で全てを決められると思い込んでいた先で「生きること。」に縛られていることを知った。
自由に憧れている。
初めて自由を感じたのは、高校進学だった。小さい頃はあんなに憧れた高校生になるための選択だった。縛られていた義務教育から卒業し、自分が好きな学校に、自分が好きな物になれる。その自由を得た。親は何も反対しなかった。これになりたいと言えば、たくさんの高校を調べてきてくれた。
私は自由に戸惑った。
「自由。」それは、責任と同意義だと私は思う。自由は選択する権利だ。選択は責任だ。どれだけ小さな選択にも責任は発生する。
例えばコンビニでパンを買うか、おにぎりを買うか。こんな馬鹿みたいな選択にも責任は伴っている。
言葉を喋れなかった小さな小さな頃は食事は母が選択して食べさせてくれた。これは、自由ではない。与えられない自由だ。だから私は食事を選択する権利はない代わりに私が誤った食事を選んで、死ぬ可能性は限りなく低かった。今だって私は母が私の食事を選択している。母が責任を持って私の食事を選択しているのである。私がバイトをしてお金を持てば間食を選択する権利と間食を選択する責任を負う。これが大人になるということだと私は思う。
今回は食事に例えたが大人になるにつれ、どんどんと選択する自由と選択にも伴う責任は深く重くなっていく。
一人暮らしをするなら、家を選ぶ自由、家具を選ぶ自由。食事する自由等様々な自由を得る。それに伴う責任は自らの生活、家計、ましてや生命維持にまで関わってくる。
これが、大人になるという自由だ。そして、それは責任だ。
大人になるという自由は自らにかかっている責任を全て自分で負うということにほかならない。親に頼っていた、自分が生きるために必要なお金、生活、行動。全てを自分で決めるということだ。
自由を得るためにはお金が必要だし、お金を得るためにはお金を稼ぐためにどのような形であれ働く必要がある。
これは、何に縛られているのだろうか?
大人とは自由ではなかったのか?
否。これが答えなのだ。
人や、人以外の生物もそうだが自由を得るためには生きていることが全ての大前提である。(そう考えるなら死ぬ事が全てから解放され自由になるということかもしれないが、それは死んだ人にしか分からない自由なのでここでは置いておくとしよう。)
つまり、人はいかなる時も「生きる。」という生命維持に縛られているのだ。
もちろん、心臓を自らの意思で止めたり動かしたりは出来ないし、無意識で維持している部分は数しれない。全ての人は無意識で選択している「生きる。」という責任を生まれ持ち、死ぬまで負い続ける。
ここで、本題に戻るが私は「生きる。」という責任を全て負うことを恐れている。
だから、私は全てを負わなければいけない大人になりたくない。まだ、子供のままで責任から逃れて生きていたい。産まれてきた時に親から与えられた愛情と、押し付けられた責任を抱えて今まで生きてきた。それだけで私には重すぎた。すべての責任を負えるのか。私にはその自信が無い。抱えきれるだけの余裕が無い。
だから、私は子供のままでいたい。
私は、まだ弱いから。守って欲しい。
私はあるはずもない「生きる。」から開放された自由に憧れている。
自由に憧れている。 偃 @Enn_Urui
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます