Mosquito
四季崎
Mosquito
「女たちの帰還だ! 各々、歓迎しろ!」
リーダーの男が女たちの帰りを大声で知らせる。間もなく空気を震わせて女たちが家に帰って来た。多くの同胞を目で追い回しすぐに彼女を見つけた。すぐさまかけより声をかける。
「お帰り。今日は一緒に行けなくてごめん。無事で何よりだ。愛しのリアン」
妻のリアンが大きくなった体を重そうにしながら、よろよろと飛んでくる。吸血を終えたために体の重量が倍に近くなっており、飛行にはやや障害となっていた。支えてあげると彼女は微笑みながら頭を擦りつけてきた。大きな瞳が夜空のように深く、そこに映る僕は慈愛の表情をしていた。
リアンはいいのよと、微笑みながら返事を返した。
「ただいま。エス」
エスとは僕の名前だ。名前の由来は分からない。そもそも、蚊の中では名を持つことさえ珍しかった。リアンには元々名は無かったが、あまりにも僕の名前を羨んでいたため僕が名付けた。それがきっかけで僕らは惹かれあった。
リアンが吸血に成功したのはこれで八回目。一度、近所の墓地の花立に卵を産んだので、近々また産むだろう。
生物として僕らは模範的だ。蚊という生命を全うしている。
「どうかな、リアン。そろそろ産めそう?」
少しだけリアンは考え込んで、それから自らの腹に目をやった。
「……もう、一回くらいかな? あと一回吸えば産めると思う」
実は、蚊の中でも僕らの純愛は珍しく、ほかの蚊たちにはあまり愛とやらが理解できない。しかし、僕は理解が出来て、彼女は僕に共感した。だから僕らは成り立っている。
「焦らないでゆっくりでいい。僕らの仕事は命を繋ぐことだから。けどね。僕ならまだしも、リアンたち、雌が死んでしまうと命の繋がりはそこで止まってしまう。僕はこういう言い方は好きではないけど、リーダーが言っていただろ。産めるだけ産んでから死ね、と」
仲間たちの多くはこの言葉に添って懸命に、長くはないその命を奉仕し、次なる命を産み落とす。しかし、それはどうなのだろうかと僕は「疑問」に感じた。
生まれてから僕の頭では、他の誰にも付属していない力を使っていた。『思考』といったそれは生きるのにとても役だった。効率を極め、優秀な番いも探せる。強いて言う、僕は生物として特別だ。そしてリアンもそうだ。
「うん。それは分かってる。私は、誇り高き一族を繋げる。勿論、そこにはエスがいるの。異端なことだと思うけど、やっぱり私はエスと死ぬまで生きたい……かなあ……なんて」
リアンを好きになった理由も、ここなのだろうか。
リアンは、そこらの蚊と比べて格段と頭のいい蚊だった。特に、『感情』は頭一つ分、抜き出ていた。同胞と多少頭の中身が違くとも彼女だけは僕を理解してくれる。
「なんて。じゃなくていいよ。今までずっと一緒に生きてきただろう。これからも、ずっとよろしく。リアン。愛しているよ。ずっと生きような」
「うん!」
リアンは首を大きく縦に振った。僕の思慕は続いた。
長い年月を共にリアンと生きてきた。それは人間には遠く劣る刹那の時間だろうけれど、しっかりと生きてきた。三週間は生きたのだろうか。三週間。人間なら三十年ぐらいだろう。けれど、蚊にとってはひと月もとても大きい月日だ。
毎日、死と隣り合わせに生きている。空を飛べば車に圧殺される。食事をしに人里に近寄って人に見つかりでもすれば、すかさず橙色の死がその身に降り注ぐ。
けれど、生きてきた。毎日リアンと笑い、怒り、泣き、喜び、悲しみ、愛し、全力で生きてきた。
頭を使った。どうすればリアンと長く生きられるのか。どうやら僕らの命は有限でとても進む速度が速い。定義のできない幸せを、曖昧な愛を、日々の慈しみを、最大化に努めてきた。
子も作った。僕が今ある幸せを謳歌したら、子供にもめいっぱい生きる喜びを伝えようと思う。きっと幸せの系譜は続くことが出来るだろう。教えてやるんだ。愛はあると。愛は伝わると。
雌のリアンは血を吸わなければならない。そのためにいつも、死が横ですれ違うような世界に駆けていった。
雄の僕らはそこらの花の蜜などを吸えば生きていける。だが、雌は卵を産むために血を取らねばならなかった。出来る限り、僕はリアンと血を取りに行った。
リアンは、おかしいよと苦笑しながらも満更でもなさそうだった。
蚊の一生は短い。一か月と一、二週間、そんなものだ。そろそろ、僕もリアンも人生の折り返し地点に着くころ。今日も、リアンと僕の全力の一日が過ぎた。とても残酷な世界だけど、僕は満足だった。他者に愛され、愛する。苦難は数えしれないけど、リアンと共に生きる、愛に満ち溢れた金色の世界は好きだった。
リアンが居れば、僕の世界は輝き、充実した。
リアンが死んだ。
僕はしっかりと見た。橙色の物体に挟まれ、吸ったばかりの血液で真っ赤な毛布を被り、純白の布のようなものに包まれ、小笑いしてゴミを捨てるための箱に入れられるのを。
僕は今、何を思考しているのだろうか、分からない。
何故、リアンは死んだのか。
何故、人の彼は喜々として、その亡骸を他人に見せ、笑うのか、分からない。
何故、いや、おそらく今見ていた光景は夢……じゃない。これが現実。分かるんだ。
分かってしまうんだ。
いつもは助かるこの頭も、今は要らなかった。
愛しの人を失う悲しみを分かってしまうから。いくつも思考し、すべてが死に直列してしまう。
「……ぃだ。僕のせいだ。僕の僕の僕の……せいだ。何のためにリアンと行動していたのか。守るためだろ! なんっも、守れてないじゃないか!」
考える。……悲しみが増す……助からない。手遅れ。会いたい。後悔。弱者。屑。蚊。人間。赤。人。黒。全て。頭の中で映写機のように思い出がコマ送りされる。
変わらない。結局行きつくのは不変の残酷。
蚊の世界は残酷だ。いつだって容易く、その首は死神の鎌に刈り取られる。今回はそんな一つが振りかざされただけ。そう強く、必死に自己暗示した。そんなことでもしていないと、とても耐えられなかった。
これはしょうがない。摂理だ。道理だ。
通常でいて平凡。そういうものなのだから。
時間を沢山かけた。何回も思考を重ねた。重ねるごとに合理とやらが分からなくなっていった。
悲しみに暮れて、僕は別の生き方を新しく考えた。
全ては群れのため。
リアンが愛していた僕らの家族。そのために生きよう。家族をリアンと思い、守っていく。リアンは死んでしまった。僕の大切だった。生きる希望だった。
戻ってこない彼女を思いながら、今日も僕は群れを守る。
最近よく目が霞む。足腰も思うように動かなくなった。頭はよく冴えているけれどよる年波には勝てない。
群れの副リーダーに支えられながら、リアンとの思い出の場所に来た。もはや一人で飛ぶことすら叶わなかった。思い出の景色も目が霞んでよく見えない。
一か月前は隣にはリアンがいた。手を伸ばせば届いて君を抱きしめることが叶った。今はもう、届かない。
「リーダー。大丈夫ですかい」
副リーダーが僕に聞く。彼は僕ほどではないが頭のいい蚊だ。リアンが死んだ後に生まれて比較的若いが話し相手として申し分ない。
「少し、過去を思い返してたんだ」
「リーダーの栄光をですかい?あんたは素晴らしい方だ。群れの規模を数倍にし、死ぬ数も減らした。あんたは俺らの誇りだよ!」
リアンが死んだ後、僕はまず群れを大きくした。そのために色々考えて仲間に教えた。狙うべき人間やタイミング、また、雄は花の蜜で生きることができるので花の場所を教えた。
群れが大きくなり。皆が笑うようになった。
リアンを失った悲しみは大きかったが、群れが幸せになれば悲しみは多少薄れてくれる。
「副リーダー。君は幸せか?」
今でこそ幸せを特効薬として選んだが一時期は復讐も考えた。仲間全員で向かえばいくらかは死ぬけど恨みを晴らせると考えた。
「勿論です」
けれど、選ばなくて良かった。無駄な不幸を生み出さなくてすんだ。きっと恨みは終わりがない。僕で終わらせてよかった。きっと僕は幸せのまま死ねる。
「リーダー、そろそろ帰りま」
ぱん。
乾いた音が響いた。同時に横腹を殴るような風圧が飛来し僕は吹き飛ばされる。空中でやっとの事で立て直す。
巨大な影がひとつ。あの日と変わらずまた大切を奪い取った。僕の、腹心だった。大きくなった群れを任せるに値する男だった。我が子のように大切に長年育て上げた家族だった。
幸福は、続かない。
決して安寧は平等に与えられない。僕の小さな幸せさえも。
身体は衰えている。空中で自分の身体を留めるのも必死で、身体は下降し続けてる。
まただ。僕は復讐を、恨みを放棄した。しかし返された。
何をした。僕らが生をまっとうしていると人間は僕らを阻害する。生物としてあるべき姿で僕らは必死に生きているだろう。人間が生きていく上で僕ら蚊を殺すのに理由があるのか。
考えたくない。
この力は使うと酷く精神に負担がかかる。もういい、家に帰ろう。帰れば皆がいる。僕の生きてく希望、幸せがある。さあ帰ろう。
頼れる後継者に支えられた道を、独りで必死になりながら死ぬ気で翅を動かして帰った。
ひとりの帰路が酷く寂しくて時々振り返った。
寂しいな。きっと寂しいんだ。僕は、成せない者だったんだ。僕に随伴してくる現実はなんだろう。侘しい思いはどんどん肥大する。後悔という単語で終わらせたくない一生に抗うことさえ出来ない。沢山生きてきた。沢山頑張った。
けれど後悔してしまう。
「ああ、僕は家に帰らねば」
誰か、証明してくれ。照らしてくれ。見てくれ……人生を。明るくて幸せで縁に恵まれた爽快円滑な一生を。
羽音が夜風に乗っていく。ほら、家が見えてきた。楽しくて明るい家だ。今日はゆっくり休もう。リーダー補佐には訳を話して明日からまた、頑張ろう。先祖様は言っていた。命を繋げていけと。もう一度、頑張ろう!
「道を……曲がれば、あったはずなんだ。はずなんだけどなあ」
煙が辺りを覆っていた。僕らを殺す臭いがする煙だ。
地面にたくさんの家族が落ちていた。子に寄り添う母。力のある男。聡明な老人。家族が横たわっている。水たまりで生きてた子も見る影も無かった。
殺虫剤の存在も効用も知っていた。されど、虚弱な仲間への周知は効果がなかったみたいだ。怒りやらなんやら、自分でも驚くほど膨大な感情が渦巻いている。
疲れ切った身体に鞭を打ち、仲間を捜索した。何処を飛んでも息苦しい。けれど一縷の希望にかけ仲間を探した。どうして誰も飛んでないのか、どうして仲間に会えないのか。分かってはいた。考えもした。でも認めたくなかった。
一瞬、視界の隅で動く物が見えた。誰だ!答えてくれ!必死に叫びながら動く物を追いかける。しかし、その動く物が僕を見つめた。シューという音と共に放たれた煙に視界は埋まった。円筒型の金属製の殺虫剤だ。
身体は動かなかった。下降していく途中、辺りを見回した。静かなものだ、誰も動いていない。地面でみんな揃っていた。目は虚ろでみんな足と手を空に上げていた。たしかに幸せがあったはずなのに、もう何も無かった。地面に落ちた時、ああ僕は家族みんなと死ぬんだなと確信した。頑張ろう、と思っていた。頑張る目的も無くなった今は僕の心に巣食う終わりへの確信だけがあった。近くの仲間の手を握る。強く胸に抱えるが冷たい仲間は動かなかった。
終わることさえも、憎い。
人間よ、生きろ。
生きろ。
Mosquito 四季崎 @SIKAHATO
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