#10 初めてのカフェ
カフェの扉を開けると、カランカランと小気味いい音がした。茶髪を猫の尻尾くらいの長さのポニーテールにまとめた女性が、にこやかに私達カップルを出迎える。
「こんにちは。2名様ですか?」
「はい。90分のドリンク付きコース、お願いできますか?」
「分かりました。では料金前払いとなりますので、お一人様1500円、お願いします」
「じゃあ、まとめて3000円ちょうどで」
「ありがとうございます。ちょうどいただきます。……まず簡単に、注意事項をお話しますね。当店はフリードリンクの利用が可能ですが、こぼしたり、放置したりしないように気をつけて下さい。それから、写真や動画撮影は構いませんが、フラッシュは怖がらせてしまうのでご遠慮いただいています。それから、この時間ですと、30分後くらいにおやつの時間になります。私達スタッフがおやつを持って出てきます。もしおやつを直接あげたい場合は、一声おかけ下さい。スタッフ同伴のもと、おやつをあげていただけたらと思います。最後に、特定の子だけを独占するのはご遠慮いただいています。どうか満遍なく、適度に可愛がっていただければと思います。これで一旦以上となりますが、何か質問はございますか?」
「僕は大丈夫です。カナは?」
「私も大丈夫」
「分かりました。では靴を脱いで、ロッカーに入れていただきましたら、奥へどうぞ」
靴を脱ぎ、彼氏のリョウと隣同士のロッカーに入れ、早速店の中へと入っていく。
こうしたカフェに来るのは初めてだった。手前にはボタンを押せば紙コップに好きなドリンクが注がれるサーバーがあり、奥にはお目当ての子達がたくさんいる。
早速麦茶で喉を潤してから奥へ進んでいくと、私達に歩み寄ってくる子がいた。
「うわぁ、カナ。可愛いね」
「ね。進み方がちょっとおぼつかないのも、可愛い」
私達を見つめながら、おもちゃを振り回す様を微笑ましく見ていると、先ほどの女性が声をかけてきた。
「お客様。多分この子、あなた方のことが好きだと思います。軽く触れていただいても大丈夫ですよ」
「本当ですか? じゃあリョウ、ちょっと触ってみようよ」
「うん」
私達はしゃがみ込んで目線を合わせ、肩のあたりにそっと触れてみた。
信じられないくらいに柔らかくて、リョウと目を見合わせる。そのまま頭を撫でてみると、これまたふわふわな毛が手のひらに優しく馴染む。
「うわぁ……」
「今日はレンちゃん、大人しいですね。良ければ抱っこしてみます? お写真私撮りますよ」
「いいんですか。じゃあ、このスマホでお願いします」
リョウに促されて私がレンちゃんを胸に抱き、私の腕をリョウが背後から包み込んだ。
初対面の人間に抱かれたというのに、レンちゃんは全く暴れる素振りを見せない。むしろ心地良さそうに目を閉じている。
スタッフの女性は少し小声になった。
「じゃあ行きますよー。はい、チーズ」
リョウのスマホに収まった私達は、とても優しい顔をしていた。
レンちゃんを遊びに戻してあげてから、リョウに話しかける。
「リョウって、こんなに優しい顔するんだね」
「カナもすっごい柔らかい表情だよ」
「……何か、こんなあったかい気持ちになったの、久々な気がする」
「そうだな。カナといる時とはまた違うあったかさがあった」
その後も様々な子達と一緒に遊んだり、体に触れたり、写真を撮ったりした。おやつの時間には再びレンちゃんと接し、直接あげることができた。その時、私の指ごとクイっと掴んできて、思わず笑みが溢れた。
「カナ。そろそろ、だね」
「そうだね……」
「このお店、里親、募集してるらしいよ」
「そうなの?」
先ほどの女性を呼び止めると、彼女は頷いた。
「おっしゃる通りで、里親募集中の子もいます。レンちゃんもそうですよ。……正直、お客様ほどレンちゃんに懐かれた人はいません。もちろん数回の面接や手続きなどは必要になりますが、いかがされますか?」
一見魅力的な提案に思えた。レンちゃんは大人しく、不意に微笑んだように見えるのが非常に愛くるしい。
でもカフェでの出来事だからそう思えるだけで、現実に引き取れば、見えなかった部分も見えてくるだろうことは考えられた。別にそれが嫌だというわけではないが、自分達にこの子を育てる責任があるのかと問われると、自信はない、と言うしかなかった。
付き合って5年目のリョウを見るが、彼も同じ考えであることが伝わってきた。それが分かるくらいには、私達の関係性は深まっている。
女性は何かを察したのか、どこか懇願するような口調になった。
「カフェや施設で育つより、幸せな生き方もあると思うんです。自分だけの居場所がちゃんとある生き方も、経験させてあげたいなって……思うん、です」
レンちゃんはもしかして、このカフェのお荷物なんだろうか。
こんなに可愛らしいのに。
レンちゃんが私を見つめる。続いてリョウを見つめる。私達はレンちゃんの頭を撫で、頷いた。
やっぱり、今はまだ、決断できない。
「ごめんなさい。今すぐには……決められません。私達、ただのカップルだし。まだレンちゃんを育て上げる責任とか覚悟が、足りないって思ってます」
「そうですか……でももし改めてご検討された結果、前向きに考えていただけるということになりましたら……また来ていただけますか?」
女性の目は、なぜか潤んでいた。私達はびっくりして、とりあえず予約者リストなるものに連絡先を記入することになった。
女性はありがとうございますと頭を下げ、私達を店先まで見送ってくれた。
「本日は、ありがとうございました」
「僕達も、初めてだけど楽しかったです」
「初めてのご利用なのに、何だか押し付けがましくてごめんなさい。……実は私も、あの子と一緒なんです」
「え?」
「私も、ここではないですが、赤ちゃんカフェ出身なんです。スタッフが里親を募集してくれていたらしいんですが、私はなかなか人に懐かず、所属していた赤ちゃんの中で最も人気がありませんでした。抱っこも撮影も許さなかったみたいで……稼げない赤ん坊だったんです」
「えっ……」
「それからカフェで生きられる年齢を超えて、施設に送り返され、今に至ります。だからつい、レンちゃんとお客様の出会いが、運命のように感じてしまって……」
「いや、私もそんなご事情とは知らず……とにかく、彼ともう一度話し合います」
「すみません。どうか、よろしくお願いします」
女性は私達の姿が見えなくなるギリギリまで、ずっと頭を下げていた。
赤ちゃんカフェ。
1歳にも満たない人間の乳児を集めて自由に遊ばせ、大人と触れ合う時間を提供する場所。私達はただ、「可愛いから」「話題だから」「癒されたいから」という理由だけで訪れた。赤ちゃんカフェにいる子ども達の境遇を、知ろうとすらしないまま。
一人一人の赤ちゃんに名前がつけられ、他の動物カフェ同様、愛玩対象となっている。そのうちの一人であるレンちゃんを、引き取って育てるか否か。
育てればレンちゃんの人生全てに責任を持つことになり、拒めばレンちゃんが「普通」の世界で生きていく道が絶たれるかもしれない。
帰り道、珍しく私からリョウの手を握った。すぐにその手に力が加わる。
「カナ。赤の他人の僕達が家族になることが普通で、赤の他人のレンちゃんと家族になることが普通じゃないのって、なんでなんだろうね」
「……なんで、なんだろう」
「僕は……僕は、どっちも普通の、ポジティブなことだと思ってる。だから僕は……カナさえ良ければ、両方叶えたい」
ハッとしてリョウを見ると、彼の頬には朱が差していた。きっと、夕日のせいだけじゃないはずだ。
私が微笑むと、「レンちゃんと撮った時と同じ表情だ」とリョウは笑って、繋いでいた手を、全ての指を絡ませる恋人繋ぎに変えたのだった。
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