#6 (後)5番目の香り

「今回のペアワーク、大変だったけど無事終わったねぇ!」


 全身をぐいーっと伸ばして、無邪気な笑顔を見せるのは、先輩だ。

 無邪気という言葉は、先輩の笑顔を形容するために生まれたんじゃないかと思う。それくらい、彼女の笑顔には文字通り邪気なんか一切なくて、俺を信じ切っているのが否応なく伝わって来た。


 俺は知っている。


 先輩が、俺を好きだということを。


 俺は人を愛せないということを。


 それでも愛さなければいけないということを。




 人を愛せなくなったのは、天罰かもしれない。

 あの日、あの時、あの瞬間、あの人を。


 ずっと眠れなかった。

 君のせいじゃないと、皆は言う。

 でもそれが逆に、俺を苦しめた。


 ただ唯一、俺をなじった人もいた。

 でもその人だけには、皆と同じように「君のせいじゃない」と言って欲しくて。

 だけど今考えれば分かる。


 みんな、みーんな、こう思ってた。

「お前が悪い」「全てお前のせいだ」と。



 だから自分なんかに、人を愛する資格などない。

 愛したものを壊してしまうから。

 もう、なじられたくない。


 結局、自分を愛するだけで精一杯だ。


 あんなことになってもなお、俺は自分への愛だけは忘れていない。卑怯な奴だと思う。




「先輩。俺、どうしようもねぇ奴なんですよ」

「どうしようもないって、何が?」

「人との関係の築き方が」


 そうやって言えば、先輩は引いてくれるんじゃないかと期待した。

 髪をわしゃわしゃと乱して、清潔感のないように見せかける。でも彼女はむしろ前のめりになっていて、あぁ、この方法は通用しないのだと悟った。


 なら、この方法は?

 臆せず事実を伝える方法。


「先輩だから、話すんですけど」

「う、うん」

「俺……俺、今4人いるんです。パートナーが」

「……へ?」

「今4人、交際相手いるんです俺」


 それでも引かない。4股だというのに。

 先輩は一体、俺のどこが好きなんだろう。ますます分からなくなる。


 こんなひどい話を、彼女は一瞬だけ顔を引きつらせたものの、その後は極めて普通の表情で聞いているのだ。毎日相手を変えている、そんなひどい話までしたというのに。

 そして先輩は、しまいにはこう言って俺をさらに驚かせた。


「じゃあ…………じゃあ、残りの1日なら、き、君は、私のものになれる?」



 年上の女性は苦手だ。

 あの日俺は、周りも見ずに道路に飛び出してしまった。

 そんな俺を歩道に戻そうとして、お姉ちゃんは——。


 お姉ちゃんのことが大好きだった。

 大好きという言葉じゃ表しきれないくらいの愛があった。

 お姉ちゃんの全てを知りたい、お姉ちゃんのためなら自分が死ねる、それくらいに想っていた。


 血が繋がってないからこそ、こんなに性愛的な感情を抱いたのかもしれない。

 自分にはない顔つきと、かなり年の離れたせいで大人びた仕草。継母の熟した美しさとはまた違ったものがそこにはあった。

 俺の顔を両手で包み込んで、可愛い可愛いとにこやかに笑っていたお姉ちゃんの顔が、今でも忘れられない。


 お姉ちゃんがいなくなってから、継母の人格はすっかり変わってしまった。お姉ちゃんがいた時は、血の繋がりがない俺にもすごく慈愛に満ちた触れ合いをしてくれたのに、あの日から俺をたくさん叩くようになった。


 今なら分かる。

 いくらごめんなさいと喚いても許されないことを、してしまった。愛なんて注がれなくて当然のことをした。本来なら、あの日を境に彼女から捨てられるべきだったのだ。


 そして俺は、人の愛し方が分からなくなってしまった。


 お姉ちゃんしか愛せない。

 お姉ちゃんと同じような、年上の女性は多少関わるだけでも精一杯だった。関われば関わるほど、お姉ちゃんとの日々を夢想してしまうからだ。


 だけど愛さなくちゃ、家族を持つことができない。

 経営者の父のもとに、唯一の子、そして男として生まれた宿命だ。


 今、“普通”に女性を愛そうとして、回り道をしている。


 男性をより好むようになったのは、お姉ちゃんがまとっていた香りとどことなく似ているからなんだろうか。ユニセックスのあの香水は、いつでも俺を過去にたやすく引き戻す。



 目の前の先輩を受け入れる……そんなことも考えてみた。


 でも……でもダメだ。


 先輩からは、あの香りがしないから。

 お姉ちゃんの面影がある人でなくちゃ、自分は触れることもできない。


 それに先輩は、俺を見捨てた実母によく似ていた。

 先輩を見るたびに、いけないと分かっているのに、嫌悪の感情がふつふつと湧き上がる。それを克服しようと、こうやって2人きりにもなってみたけれど、やはり感情を押さえつけることはできなかった。



 俺はおもむろに立ち上がり、先輩の目の前に移動する。

 自分から漂うお姉ちゃんの香りに、酔いそうになった。



「いっ」



 先輩を力の限り突き飛ばす。



「すみません。…………女性は無理だ」



 待ってよ、ねぇ待ってよ、と俺に伸びてくる腕を振り切って、俺は部屋を後にした。

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