#5 (前)5番目の香り
「先輩。俺、どうしようもねぇ奴なんですよ」
大学の空き教室。
2人きりで雑談をしていたら、机越しの彼がいきなりこう切り出してきた。
目の前の彼は、右手で髪の毛をわしゃわしゃと乱していた。その時に右手がメガネのフレームに当たり、今度は左手でそれを直す。忙しい人だ。
「どうしようもないって、何が?」
「人との関係の築き方が」
人当たりが良く、時にユーモアを交えて話し、場を和ませる。頭脳明晰な一方で、パソコンを研究室に忘れて帰ってしまうような、少し抜けた所もあって。
彼の銀縁メガネの奥にある瞳の在り方が、微妙に変わった。いつもは柔らかい光を伴っているのに、今はその光が見当たらない。教室に差し込んでいた夕日が沈んできたから、というのとは、関係ない気がした。
彼はただの後輩。
研究室は違うけど、専攻が同じで、授業がたまに被る。グループワークやペアワークの授業で彼と同じになることが多く、そのうちに色々と話すようになった。
誰に対してもそうなのかもしれない。
でも彼と話す時間は楽しく、あっという間に1時間、2時間と過ぎ去っていく。勉強に限らず趣味の話も増えてきて、この場が心地良いと感じ始めていた。
もっと色んなことを話せば、そういう色んなことを話せる関係に一歩踏み込めれば、また一段と楽しくなるのかなって。この銀縁メガネ君となら、そういう関係になってもいいな、なんて思って。
そんな矢先に言われたのが、今の言葉だ。
「俺、どうしようもねぇ奴なんですよ」という言葉。
私が心を許そうとしている銀縁メガネ君は、ふぅ、と息をついてから、再び口を開いた。
「先輩だから、話すんですけど」
「う、うん」
「俺……俺、今4人いるんです。パートナーが」
「……へ?」
「今4人、交際相手いるんです俺」
開いた口が塞がらないとは、こういうことを言うのだろう。彼に対して開きかけていた心のドアの動きが、中途半端に止まった。頭の中では、ドアの開閉に注意しろ、というアラームが鳴り響いている。
「ちょ、そ、それって、どういうことよ。バレてないの?」
「バレてるっていうか……承認済みなので」
「え、待って。それぞれの子から承認もらってるってこと?」
「はい。他にも相手いるけど、いいかって」
しばらくの間、私は目をパチパチさせることしかできなかった。
だって、複数の女の子と交際するような男は、見た目が派手で、いかにもチャラついてそうなものだと思っていたから。
見る限り誠実そうな目の前の彼とは、似ても似つかない。承認をもらって、堂々と4股? それって何時代の話?
「だから言ったじゃないですか。人間関係がどうしようもないって」
「あ、うん……」
「引きますよねそりゃ」
「あ、や、えっと、そういうわけじゃ」
本当はガッツリ引いている。こんな男でも平気で4股するんだ、って冷めた目で見ようとしている自分がいる。心を一瞬でも開こうとした自分が、もう一歩先の関係を、なんてのほほんと思っていた自分が情けないと、思い始めている。
でもなぜなのだろう。
「さすがに引いたわ〜」とか、「承認済みでも複雑じゃない?」とか、普通に素直な意見を言えばいいのに。それくらいはもう、言えそうな関係性のはずなのに。
そんな簡単なことができない自分がいた。素直に言えば嫌われるんじゃないかって思っている自分に驚く。
元はと言えば、授業が同じってだけの関係なのだ。今期の授業が終わればさようなら。嫌われようが憎まれようが、殺意を持たれない限りは知ったこっちゃない。はず。なのだ。
なのに、猛烈に嫌われたくない。
嫌われたらもう、私をちゃんとその目で見てくれない気がして。だから4股を告白する銀縁メガネ君を批判できないのだ。
あぁ、こういう所か。と、不意に悟った。
きっと他の子もそうなのだろう。
今の私みたいに、理性では引いてるのに本能では近づきたいと思っている、そんなよく分からない魅力を、彼はまとっていた。
一瞬全身に力を入れて、ここは引くべきなんだ、と体にストップをかけてみる。
「俺、本気で愛せる人を探したくて。でもその方法が分かんなくて」
あぁ、あと少しだったのに。
その言葉のせいで、私が君を変えられるんじゃないかって、夢想する余地ができてきしまう。伏し目がちにこちらを見られたらもう、私は逃げられない。
「でもこんな俺に好意を寄せてくれる人はなぜかいて、その人達を幸せにしたいと思って。自ら愛せないなら、愛してくれる人を幸せにすることが、俺の使命なんじゃないかって」
じゃあ私が愛せば、君は私を幸せにしてくれる? このまま君を愛してもいいの?
「だから幸せにするために、全員の告白を受け入れたんです。ちゃんと複数交際してることも話しました。それでもいいって、みんな言ってくれた。だから平日のうちの4日間、毎日別の子を抱こうと決めて」
「の、残りの日は……?」
「土日は、自分の行いを反省する日と決めているので、土日に抱くつもりはないんです」
じゃあ、平日あと1日、空いているよね?
そんなことを瞬間的に考えてしまう。
君と話したい。もっと色んなことを笑い合って話したい。幸せになりたい。
「じゃあ…………じゃあ、残りの1日なら、き、君は、私のものになれる?」
「……え?」
「あっ……」
無意識だった。私のものになれるかなんて、そんな大胆なことを私に言わせるとは。
本当に、君という男は怖い。
授業中のペアワーク。君はいつも私のパソコンを覗き込む。肩と肩が触れ合ったり、背後を包むようにパソコンを覗いたりする。
一瞬目が合えば、君はしばらく私を見つめる。私が逸らすまで、いつも見つめる。
これが君も無意識でやっているというのなら、本当に恐るべき男だ。
もう私は、たった1つの欲望から逃れられない。
君の腕の中に飛び込みたいという欲望が、閉まりかけた私の心のドアをこじ開ける。開閉に注意せよ、というアラームはもう静まっていた。
「残りの1日、私のものに、なってくれませんか」
「他に4人、相手いますけど…………?」
「そっ、そんなの全然、構わない」
「そうですか……」
彼はおもむろに立ち上がり、私の目の前にやってきた。腕が伸びてくる。ユニセックスの香水の香りが、ふわりと広がる。
あぁ、私は、ついに。
ついに、君を、愛し
「いっ」
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