サフランは捨てて
水無月やぎ
#1 新たな犯罪
あれだけの長期間、僕達を悩ませていた感染症。感染こそしていないが、僕も色々と窮屈な思いをした。
この国は愚かだ。
島国というメリットを台無しにして、国際大会を開き、基本的人権の尊重という建前に隠れて、中途半端なSOSを宣言した。
国民が大事、そう言いながら、多くの国民の命を奪ってきた。
だがそんな未曾有のバイオテロも、数ヶ月前から終焉の兆しが見えつつある。
大幅に感染者が減り、この国でも1日に60名程度に収まってきたのだ。死者は半年前から出ていない。
似た状況を各国が迎えている。WHOによる終息宣言も秒読み、と各メディアが色めきだっている。
やっと終わった。
むせただけの咳、花粉症でのくしゃみさえも憚られた数年間。効用を疑いながらも、偏見の目に晒されるのが怖くて4回打ったワクチン。このワクチンが将来どんな影響を与えるのか、“一般庶民”として生きる僕達は、まだ誰も知らない。
つい先週、政府は飲食店の営業時間制限を撤廃した。朝5時までの居酒屋経営が咎められることもない。夜の街はこの7日間で、驚くほど活気を戻しつつある。
僕も久しぶりに外でお酒を飲みたくなって、家を出た。
……マスクだけは、しっかり耳にかけ、鼻まで覆って。
どんなに状況が好転しても、マスクだけは外すな、という風潮が根強くなっている。
家からのオンライン会議でさえ、マスクはほぼ必須。今でこそウレタンマスクでもOKとされるようになってきたが、鼻から下を隠すのは変わらない。
この国の人間の適応力は、良くも悪くも高すぎる。
小さい頃から、右へ
就活だってそうだ。1年間就職浪人した僕は、まだ内定を手にできていない。ストレートに4年間進んだだけで手に入る、新卒という最強カード。大富豪で言えば2である。そんなカードも1年間という有効期限が過ぎれば、たちまち3にすり変わってしまう。横並びから外れることは、大きなリスクを伴う。
マスクをつけろ、たった数年前に生まれたばかりのこのニューノーマルが、新たな規範として僕達を縛り続ける。マスクがない、あるいはずっと同じマスクをつけている子どもがいじめられる、なんてニュースもあった。マスクいじめによる不登校、そんな見出しが今、この国の新聞には載っている。
道ゆく人は皆マスク姿だ。
その下の口元がどんな形なのか、全く想像がつかない。
少し歩くだけで汗ばんでくる熱帯夜の中、ぺっとりと肌に張り付いたマスク。ここで外せば、何て言われるだろう。
あぁ、暑い暑い。息苦しい。邪魔だ。
一刻も早く、マスクを外したい。
もう何年間、僕達はこの苦しさを我慢してきたというのだろう。周りの人も、口元が暑そうだ。
その時、思った。
もう、いいんじゃないか?
感染症はほぼ終息しているんだし、今この道を歩くような世代の人間は、この1ヶ月ほぼ誰も感染していないんだし。
暑いから上着を脱ぐ、それと何が変わらないんだ? ただマスクを外して、数年前の普通に戻るだけ。それの何がいけないんだ?
今ここで外したら、逆に道ゆく人たちは皆、ほっとするんじゃないだろうか。「良かった、マスクが邪魔だと思っていたのは、自分だけじゃなかったんだ」って。
渋谷のセンター街に足を踏み入れた。
数メートルごとに置かれている、「渋谷センター街」と書かれたポールのうちの1つに近寄る。さすがにセンター街の真ん中でいきなり外すほどの度胸は、まだない。
右耳に右手をかける。そっと右耳にかかったゴムを取り、そのまま左耳に左手をかける。
と、ここまで来て、思わず周囲を見回す。……参ったな、こんなに緊張するなんて。
そうっと、左耳のゴムを外した。静かに、顔の下半分を覆い続けていた黒いウレタンを、顔から遠ざけていく。汗が張り付いていて、ペリペリと音がした。
この上ない解放感が、そこにあった。
熱帯夜なはずなのに、気持ちが良い。戦いを終え、鎧を外したような心持ちになった。
思わず笑顔が漏れ、慌てて真顔に戻してから1歩、歩を進める。
たった数年前は当たり前のようにしていたことなのに、とてつもない新鮮な感覚が僕を襲った。
そうだよ、みんな。
一緒に思い出そうよ。
この新鮮で、でも懐かしい、この解放的な感覚を——。
「きゃーっ!!!」
僕のすぐ近くで、悲鳴が聞こえた。何かあったのだろうか?
「ま、マスク外してる! 口が見えてる!」
「え、マジで?」
「うわっ、引くわ」
…………え? え?
最初に悲鳴をあげた、ピンクのウレタンマスクをした女が再び叫んだ。
「人に口元見せるなんてキモいこの変態!!! 警察呼んで!!」
え、へンタイ? ケイサツ?
遠巻きに見ていた人間は「警察、警察」と一斉に散らばり、女の周囲にいた、マスク姿の男達が瞬く間に僕を取り押さえる。慌てた僕は必死に声を絞り出した。
「だ、だって、もう終息するし、息苦しい……しっ」
「ゴチャゴチャうるせえなぁ! そんな問題じゃねえんだよ!」
少しして、本物の警察官がやってきた。
違う、これは冤罪なんだ。れっきとした冤罪で…………
「ちょっと君、来なさい」
「あ、あのっ、僕が一体何を……」
彼は不織布マスクをつけたまま、冷たく告げた。
「公然わいせつの現行犯だ。女性が気分を悪くしている。早くこっちに来い!」
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