#2 デキモノ
痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い。
必死に耐えてみたものの、猛烈な痒みに
ついにそこに手を伸ばせば、不気味なくらいに熱を持ち、まあるく盛り上がったモノができていた。鏡を見なくても、それがかなりの大物であることは、容易に想像がついた。
皮膚薬、つけなくちゃ。
薬をつける手を清潔にしようと、洗面に足を踏み入れた。
「あ」
いつもの癖で、顔を上げてしまう。
あぁ、醜いモノは見ないようにしていたのに。
洗面所に備え付けられた、周囲に6個ほどライトのついた鏡。そこには、右目尻のすぐ下が赤く腫れ上がった、醜い女の顔があった。そのデキモノはあまりに大きくて、瞳にまで侵略してきそうだった。あと少しでも放置すれば、瞬く間に顔中を支配してしまうような、そんな存在感があった。
急いで蛇口を開き、強めに押したハンドソープで手を洗う。いつもより強い石鹸の香りまでも、デキモノに悪影響を与えそうで怖かった。
皮膚薬を患部よりわずかに広めに塗って、そのままベッドに直行した。このまま何か作業をしていたら、無意識に掻いてしまいそうだったからだ。こんなデキモノ、寝て忘れよう。朝になれば、患部に染み込んだステロイドは十分機能しているだろう。
そう思って、すぐに目を閉じた。
◇
案外疲れていたようだ。目を閉じて10分もしないうちに、きっと眠りについていた。ぐっすり眠れた感覚があった。身体はスッキリしている。
ハッとして、右目尻のすぐ下に手をやると、そこには少々冷たい、平坦な皮膚が広がっていた。
だが、洗面所の鏡に映る自分は、様子が違っていた。
「嘘……」
すっかり腫れが引いたその場所が、今度は見事な紫色に変わっていた。内出血かと思って指で強く押してみたが、感覚は何もない。
ただ紫色なだけ。毒々しいほどの、クマなんて言い訳は絶対に通用しない紫。
どうしよう。
今日を楽しみにしていたのに。
今日を逃したら、いつ会えるかなんて、全く分からないのに。
でも今日会ってしまったら、醜い私は用済みになるんじゃないか?
一方で会わなかったら、私は都合のつかない女として、やはり用済みになるんじゃないか?
会社が休みだったことは幸いだった。
体調不良ではないのだから、さすがに欠勤はできない。でもマスクをしたって隠れない絶妙な位置にあるデキモノを見せることなんて、死んでもできない。
本当に、休みで良かった。
モデルにも負けない容姿。広報部のマドンナ。会社の顔。
——それが、私の最大の売りなのだから。
家で悶々としている間に、刻々と時間だけが過ぎていく。
あれからもう一度皮膚薬を塗ってみた。だけど一向に良くならない。むしろ、紫色は濃くなっていっているようにも感じられた。
その時、スマホが震えた。
「もしもし?」
『今、駅着いた所。あと10分でエントランス着くから』
「う、うん」
『……俺と会いたくないの?』
「そんなわけないじゃん! 早く、会いたいよ」
『良かった。じゃ』
朝から変わらないデキモノを、鏡越しに睨み付ける。コンシーラーでも隠しきれない。
……どうせメイクは落ちるのだ、今日だって。
どうしよう。容姿だけで彼を釣ったのに。
結局どうすることもできずに、彼はやってきてしまった。
「どうしたの? 目元……」
「あ……ごめん。嫌だよね、こんな顔」
「ううん。気にしねえよそんなこと」
「え……?」
そんな。そんなバカな。
今まで、容姿は常に完璧を求められてきた。
少しでもクマがあったり、毛穴が見えたり、2kg体重が増えたりしただけで、何人もの男にその場で捨てられてきた。どこでも人気の絶えない彼らを手に入れるために、途方もない努力をしてきた。
彼はそんな私を、モノ扱いしない? 用済みにせず、傍にいてくれる?
もしかして、私のことを、あi
「んっ」
いきなり唇を奪われて、現実に戻された。
私の顔を横から潰すように掴まれる。ちょうど患部の辺りに、キンと冷たい感触が伝わる。彼の指に嵌められた、金色の金属。
——そんなはずない。もしかしてなんて、そんなはずは。
「ん……気にするのは、もっと別の場所」
——そうだよね。
割り切ってるんだから、この関係は。
大人が大人の都合で決めた、大人の関係。大人の事情で大っぴらには話せない、良くない関係。
彼にとって私が都合の良い女であるように、私にとっても彼は都合の良い男でしかない。
互いにその生物学的特徴しかアテにしていない、社会性を申し訳程度につけただけの動物。
私達動物は、小さな小さな白い檻の中で、本能を目覚めさせる。
昨日もそうだった。今日もそう。明日も明後日もそう。
毎日、期待度の少しずつ異なる相手といるだけ。
……昨日は、序盤で中断になってしまったけれど。
「ごめん、次男が熱出したみたい。長男はあいつに任せてるから、俺が行かなきゃ。……埋め合わせは、必ず」
昨日、私は初めて、4歳児に負けた。
◇
痒い。
痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い。
唇が、一昨日の患部が、鼻が、頬が、顎が、額が、首筋が、鎖骨が、手の甲が、熱い。
そして、真っ赤に腫れ上がっていた。
当然のように1人になっていた部屋の中で、あぁ、昨日はずっと、心はどこか別の場所にあったな、と思い出す。金色の金属の冷たさが腹部に触れた所で、「何か気分乗り切らねえから帰るわ」って、言われたっけ。
不思議と、もう怖くはなかった。
どうせまた、痒い場所は紫色になるのだろうと、どこかで納得していた。
こんな女の顔、腫れて当然だ。醜くなって当然。
もうこの腫れは、治らないかもしれない。彼らは醜悪な私の顔を見て、次々と私を捨てていくかもしれない。
でももう、どうだっていい気がしてきた。
コンシーラーで隠すのも、炭水化物を抜くのも、もう限界だった。どうせ私の顔と身体の代わりなんて、この世界にいくらでも転がっている。
全部やめてしまおうか。
皮膚薬を塗るのも、化粧をするのも、食事制限をするのも、広報部にいるのも。
早速、洗面所の棚にある化粧品を、そのままゴミ袋に突っ込んでみた。
こめかみから一筋の汗が流れ落ちて、ふと顔を上げる。
鏡の中のデキモノだらけの自分は、久しぶりに自然と口角が上がっていた。
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