ほしのかぎ

夜渦

第1話

 その道を右に折れれば図書館が、左に折れればプラネタリウムがある。道に沿って植えられたあじさいが青から赤へとゆるやかに色を変えていくその道を、一人の青年が行く。自分と同じ制服を纏う彼の名を、知らない。時折見かける横顔が意識の底に引っかかっているばかりだ。いずれその名を、人柄を、そして体を、知ることになろうとは露ほども思っていなかった、雨の季節。



   ほしのかぎ



 その建物はプラネタリウムと呼ばれている。だが星を見る場所ではない。白い石造りの古い屋敷には四十八の談話室があり、それぞれに星の名が冠せられている。本来の名は別にあったはずだが、学生達が戯れに呼び始めたプラネタリウムという呼称がすっかり定着していた。薄曇りの空に浮かび上がる白い建物へ、あじさいの道が続く。

「よく考えたら、俺プラネタリウムほとんど使ったことないわ」

 リシュナークはぽつりとつぶやいた。エーナが低く笑う。

「あなた図書館の住人だものね」

 意外、と揶揄する調子で細められた少女の瞳はあじさいと同じ青だ。

「いちいち鍵の受け渡しするの面倒だし、だったら図書館の談話室の方が気楽じゃねえか」

「図書館も静かで好きだけど、わたしはプラネタリウムの秘密基地っぽい感じが好きだな。今日はどの部屋かなぁって」

「わかる気はするんだけどな。何でだろうな」

 小さく首を傾げながら、二人は階段を上り、両開きの扉を開く。建物は両翼を広げた鳥の形で、かつての学長の私邸だったという。古い木枠に色硝子がはめ込まれ、それは夜空を表現しているようだった。玄関ホールは吹き抜けになっており、正面に大階段がある。天窓から差し込む光は弱い。今日も雨が降るかも知れない。

「五人、勉強会です。三人あとから来ます」

 ぼんやりと階段を眺めるリシュナークを意に介さず、エーナが事務室に向かう。ことりと音がして振り返れば、それが事務室の窓を開く音だと知れた。そこからのぞいた、白い顔。どこかで見たような気がして、リシュナークはわずか眉をひそめた。

「アウリガが空いています。そこでいいですか」

 抑揚のない乾いた声だ。無表情とあいまってどこか人形めいて見えるが、エーナは特に気にするでもなく是と答え、台帳に名を記して鍵を受け取る。真鍮の鍵が少女の手のひらに落ちて音を立てた。いつも誰かが借りた部屋を訪れるばかりで、鍵の受け渡しを見るのは初めてだと今更に気づく。ふっと青年が面を上げた。榛色の瞳がリシュナークをとらえ、そうして、ゆるやかに笑んだ。

「……いらっしゃい」

 理由はわからない。だが、リシュナークの背を何か薄ら寒いものが駆け下りていったようだった。しかし何かを問おうとした矢先、青年は窓を閉じてしまった。声を上げる機会を完全に逸し、ただリシュナークの心に釈然としないものだけが融け残る。

「リシュー? 行くよ?」

 エーナの声に腕を引かれてその場を後にするが、思わず振り返らざるを得なかった。そこにはただ、閉ざされた窓だけがある。

 エーナによれば、あの青年の名はユハルカというらしい。自治会役員の一人で、鍵守としてプラネタリウムの鍵の管理をしている。学年はリシュナークよりも一つ下で、鍵守の中ではかなり融通が利く方だとエーナが言った。課題を終えてトラムの停車場へと向かう道すがら、暮れかけた空は雨をこぼすことなく雲を広げている。

「融通?」

「そう。恋人の味方」

 意味深な笑みを浮かべるエーナとは裏腹にリシュナークは渋面を隠しもしない。

「学校でそういうのどうかと思うぞ」

「どこまで想像してるのか知らないけど、星の名前の部屋で二人きりなんて素敵じゃない。リシューは案外頭固いのよね」

「固い柔らかいの話じゃねえだろ。そういうのが原因でわけわからん校則が増えるのが嫌なんだよ」

 時折、図書館でも場所をわきまえずにおしゃべりに興じる男女などがいて辟易するとリシュナークがぼやけども、エーナはほほえましいなどと言って笑うばかりだ。

「それならプラネタリウム使ってみれば? サジータかレプスが空いてればあそこ小さいし結構快適だよ」

 自習をするにせよ昼寝をするにせよ、と余計な一言を付け加えるのがエーナだ。リシュナークは小さくため息をついた。




 翌週、リシュナークは一人プラネタリウムを訪れた。玄関横のあじさいの青が美しい。エーナの言葉に背を押されたわけではないが、卒業を間近に控えたこの時期までなぜか縁遠かったこの建物に興味がないわけでもない。そう思って足を運んだものの、奇妙な緊張が胸中に満ちていく。理由がわからずまたたいた脳裏に浮かんだのはユハルカの顔だった。記憶と幻の狭間で榛色がゆっくりと笑みを刻む。またしても背筋がぞくりと震え、リシュナークは困惑する。意識にわずかに引っかかったままの違和感の正体がわからない。それを振り切るようにわずかに首を振り、夜空の扉を開く。重々しい音を立てて開かれた扉の向こう、事務室とだけ書かれた小さな受付。

「自習に、使いたいんです、けど」

 窓枠を叩きながら言えば、乾いた音を立てて窓が開かれた。どこか祈るような気持ちで別の人物を待ったが、そこには彼が思い描いていた通りの無表情が現れる。榛色の双眸がリシュナークを見上げる。額からさらりと黒い巻き毛がこぼれた。

「こんにちは」

 やはり抑揚のない声。リシュナークは低く挨拶を返す。陽光のない建物の中にあって彼の肌はいっそう白く見え、動かぬ表情のままただリシュナークを見つめている。人形のようだ、と思う。顔立ちの問題ではないのだろう。おそらくその表情がゆえに、ユハルカの榛色は硝子玉のように見える。

「小さい部屋が空いてたら、使いたい」

 まばたきひとつせず己を見上げる青年から逃げるように視線をそらし、リシュナークはもう一度来訪の目的を告げる。夏の始まりの季節だというのに、体が冷える心地がする。

「お名前は」

「リシュナーク」

 青年に問われるままに学年と所属を答える。青年は相づちをうつでもなく淡々と問いかけ、やがてゆっくりと告げた。

「鍵は、貸せない」

 咄嗟のことに何を言われたのか理解が及ばず、リシュナークは面を跳ね上げる。人形の顔が歪む。この間と同じ、笑みを浮かべる。

「おれは、あんたに鍵を貸さない」

 柔らかな笑顔にどこか硬質な鋭さを滲ませて、ユハルカは言った。

「どういう意味だそれ」

「教えない。おれ以外が当番のときにまたどうぞ」

 悠然とそう告げて青年は窓を閉ざす。追いすがるリシュナークの声に何ら反応を見せることなく、それは沈黙を保った。

 ──何だそりゃ。

 わけのわからない事態にめまいすら覚え、仕方なくリシュナークはプラネタリウムを後にする。青から赤へ色調を変えていくあじさいに導かれるようにして、向かい側に建つ図書館を目指した。見慣れた赤を通り過ぎていつもの談話室に身を落ち着けながらも、形容しがたい感情が体内に淀んだままで不快さが抜けない。どこか陶然としていながら拒絶を示す榛色がまぶたの裏にこびりついている。彼が自分に向けてくる感情が理解できない。鍵をどうこうという問題でなく、ユハルカという青年そのものがリシュナークの内側に大きなしこりを残すようだった。そもそも自分は、彼を知らない。既視感を覚えたのは確かだが、それは自治会の役員だからだろう。どこかしらで目にする機会などいくらでもある。会話をしたのは今日が初めてで、接点など何一つ思い浮かばない。

 ──何なんだ。

 長いため息に乗せて吐き出された疑問に、答えるものはなかった。




 忘れようとすればするだけ、かえって鮮明さを増すようだった。ユハルカという名前と存在は確かにリシュナークの心の中に場所を得て巣くい、ふとした瞬間脳裏にその声や言葉や表情を蘇らせる。エーナとの会話の中で、廊下の喧騒に紛れて、あるいは自治会の広報誌の誌面で、無意識にその名を拾い上げてしまう。プラネタリウムからは結局足が遠のいたが、図書館へと折れるその道で半ば無意識に白い屋敷を振り仰ぐ。何かを探すように。リシュナークは自分があの青年を切り離せないでいる理由を漠然と理解していた。答えがないのだ。彼がなぜ鍵を貸さなかったのか、リシュナークに何を思うのか、そしてあの笑顔が何を意味するのか、何一つ答えは与えられていない。答えのない問いかけに捕らわれて同じところを何度も巡るように思考は行き交い、同じ色を重ねて存在感を強めていく。

 そうしてついに、トラムの停車場でその横顔を目にしてしまった。意識することなど何もない赤の他人のはずなのに、今自分の眼前にユハルカがいるだけで気持ちが落ち着かない。これは一体どういう巡り合わせなのかと思わずため息がこぼれた。榛色の瞳は静かに向かいの停車場の看板を眺めていて、リシュナークには気がついていないようだ。ならばどこかで時間を潰して来ようと踵を返そうとしたのと、薄いくちびるが言葉を紡いだのは同時だった。

「どこへ行くの?」

 ゆっくりとユハルカがこちらを見る。

「リシュナーク」

 榛色の瞳が弧を描く。リシュナークは気まずさを隠すことすらできずに己の手のひらに顔を埋めてため息をついた。数日にわたって胸中にわだかまっていた言葉がついにこぼれる。

「何なんだお前」

 ユハルカは答えない。また視線を正面に戻して、問いかけた。答えを与えるつもりはないらしい。

「どこまで乗るの」

「……女王庭園」

「ああ、あの近くにある海望書店面白いよ。古い地図だとか、写真だとか、新聞だとか、掘り出し物が多い」

 抑揚のない声はリシュナークの知る店の名を告げた。突然の世間話に面食らいながらもリシュナークは答える。

「知ってる。あそこの裏のクーヴィール商会も古典科学系のものがそろってる」

「そこは知らないな。そうだ、あのあたりでいい喫茶店、知らない?」

「月追い亭。定食屋だけど、おかみさんの趣味で午後は茶が飲める」

「ああ、それはいいな。猫目書房が移転したのは知ってる?」

 それはどれほどの時間だっただろうか。他愛もない情報のやりとりを淡々と続けた。気づけばユハルカの声にわずかながら抑揚が生まれ、心なしか明るい声のように聞こえる。リシュナークは初めてユハルカを見た。あの小窓から見えていたのは顔だけだ。しゃんと伸ばされた背筋とまっすぐなまなざしを持つ青年だが、想像以上に体が薄い。身長はリシュナークよりも頭半分ほど低く、日焼けもしていない。いかにも文学青年といった風情で、するすると古書店の情報を引き出してくるさまが妙に似合っていた。

 リシュナークは己の感情のやり場に困って視線をそらしながら、問いかける。

「なぁ、なんで鍵貸してくれなかったんだ?」

 ひくりとユハルカがまたたいた。双眸がリシュナークを見る。そこに浮かんだ感情が読み取れなくて、リシュナークは困惑に目をすがめた。

「鍵を貸したら、あんたはおれを忘れるだろう」

 だから、貸さない。

 そう紡がれた言葉の意味を問おうとするも、トラムの警笛にかき消される。その中でユハルカのくちびるが言葉を形作って動いた。リシュナークにも読み取れるくらい、ゆっくりと。その意味を拾い上げたリシュナークが瞠目する。頭が真っ白になる。一瞬の間を置いて追いかけようとした眼前で、トラムの扉が閉まる。

 ──追いかければ間に合う。

 ──追いかけてどうする。

 その逡巡が体を凍り付かせる。動き出す車体が眼前を過ぎ、ユハルカの榛色の瞳と硝子越しに視線が絡む。いつもの笑みを刻んでくちびるを引く。

 ──あいしてる。




 一体どれだけ心の中に入り込んでくるのかと頭を抱える日々だった。答えは与えられず、疑問が増えた。否、答えは与えられたのかも知れない。けれども何一つ十分ではない。困惑を通り越して苛立ちにも似た感情に心を乱され、修辞学の課題が終わらない。図書館の談話室でおきまりの席に資料を積み上げたまま、リシュナークはうなる。方々へと苛立ちの矛先は向かい、一向に収まる気配がない。修辞学の課題も、そこでおしゃべりをやめない女子学生も、人の心を乱すだけ乱して消えたユハルカも、何もかもが腹立たしい。少しでも気持ちを落ち着けようと大きく嘆息し、窓の外を見やる。ちょうど玄関の真上にあたるこの場所からは、プラネタリウムに向かうあじさいが見えた。赤から青へと色を変えながら続く花を追えば、やがて白大理石の屋敷へ。星の名を冠するその建物にさえ苛立つ己に半ばあきれかえりながら、机に突っ伏した。

 ──なぜこんなに苛々するのだろう。

 その答えをリシュナークは見つけられないでいる。始めこそ男に好意をぶつけられたからだろうと思っていたが、どうやら違うようだった。もう少し前の段階のような気がしている。

 ──あいしてる。

 警笛に紛れて吐き出された言葉。リシュナークの耳に届くことなく消えた愛の言葉。それは果たして彼の本心だったのか、あるいは戯れか。それすらわからないまま置き去りにされている。脳裏に榛色がひらめいて、笑みを刻み、そうして小窓が閉じられる。確かに見覚えのあるその光景にリシュナークはがばっと身を起こした。突然のことに談話室中の視線が集中するが、リシュナークはそれどころではない。つかみかけた答えを逃すまいと必死に意識を巡らせる。今確かに何かをつかみかけたことはわかる。何度もその光景を繰り返す。開く小窓、笑うユハルカ、そして閉じられる小窓。

 ──閉じる。

 ──窓、が。

 ──こちらの言葉を、聞かずに。

 リシュナークは立ち上がった。荷物をそのままに一目散にプラネタリウムへと向かう。舞い始めた霧雨が袖を濡らす。あじさいの青が映える。階段を上って扉を開き、たどり着いた小窓。その枠を三度叩く。ひっそりと静まりかえる玄関ホールで、ことりと音を立てて開いた窓からのぞいた榛色。

「あんたに鍵は貸さないって言っただろ?」

 揶揄する調子さえはらむ声に、リシュナークの神経が逆撫でされる。

「お前に何でこんなに苛々させられるのかわかったぞ」

 リシュナークの声音が低い。ユハルカは動じることなく、その続きを待つようだった。その瞳が何かを期待しているように見えるのは気のせいか。

「お前は、意識を引っかけるようなことだけ言って窓を閉める。それが、苛々するんだ」

 そう告げた瞬間、ユハルカの表情が崩れたのをリシュナークは目にした。眦がゆるみ、くちびるが笑みを引いて弧を描く。恍惚とした声音がリシュナークの名を呼ぶ。

「ようやく、あんたの心に俺がいる」

 その言葉の意味が、やはりわからない。

「お前は、何がしたい」

「言っただろう? あんたに鍵は渡せないって」

 そう言って閉ざそうとする小窓に、リシュナークは強引に腕を押し込んだ。がつ、と音がして腕に強い痺れが走るが、意に介さない。無理矢理にこじ開け、ユハルカを上回る膂力でもって小窓を押さえつけた。

「閉じさせねえぞ。お前は何がしたい」

 リシュナークの緑色の瞳がぎらぎらと熱を帯びてユハルカをねめつける。強い感情を前に圧倒されながらも、ユハルカのくちびるは笑みを崩さない。この間までの人形めいた雰囲気が嘘のように、浮かされた色をたたえている。

「あんたの心におれを刻む。それだけを考えてる。あんたが、おれを、忘れないように」

「忘れるも何も、俺はお前を知らない」

「うん、知ってる」

 一瞬だけ憂いを浮かべた瞳はしかし、逃げることなくリシュナークを見つめ続ける。

「あんたはいつもおれを忘れるんだ」

 自治会で話をしたことも、食堂で相席になったことも、こうしてプラネタリウムの入り口で視線を交わしたことさえあるのに。陶然とした瞳が訴えかける感情に、悪寒が走る。ぶつけられる好意の理由がわからない不安がぐるぐると渦を巻く。

「お前に好かれる理由がわからねえ」

「おれもわからない」

 どこかで見かけた横顔が好きだと思った。それから何度も図書館に向かう背中を見て、時折廊下や食堂で見かけて、けれど接点などないから話しかけることもできずにいたとユハルカは静かに語る。話したこともない相手を好きになるのはばかげていると何度も思い直そうとして失敗したのだと言った。そうして突然、ふわりと微笑んだ。

「停車場で話ができて、嬉しかった」

 はらりと何かがこぼれ落ちた気がした。その正体をつかみ損ねたリシュナークは何度かまたたく。何が落ちたのかわからない。それはユハルカの感情か、己の感情か。つかみ損ねたそれを見つけなければという焦燥に任せて口を開いた。

「なら、普通に話しかけりゃいいだろ。わけのわからねえことすんな」

「話しかけてもあんたは忘れるだろ。なら、不愉快な存在でもあんたの中におれがいる方がいい」

 きっぱりと告げられた言葉と榛の瞳に宿るそれを読み取って、さらに苛立ちが募る。

「勝手に決めつけて諦めてんじゃねえぞ」

 先に逃げ道を作って言い訳をして向かい合おうとしない。リシュナークのことをすべて置き去りに一方的に好意を向けながら、リシュナークの意志が介在する余地を残さないそれは、あまりにも身勝手だ。

「見返り求めてる時点で好かれる方が良いに決まってんだろ。勘違いすんな」

「なら、あんたはおれを好きになってくれる? 男と恋人になれる?」

 矢継ぎ早にぶつけられる問いかけは切実な響きを帯びて、リシュナークの元へと届く。だがそれは今、彼の心を動かす言葉にはなりえない。

「知るか。まだそのはるかに前の段階じゃねえか。お前の名前以外知らない状態で好きになるも恋人になるもあるか。ふざけんな」

 知らず知らずのうちに声を荒げたリシュナークを、ユハルカがさえぎる。

「なら、同じだ。おれはあんたの中におれを刻む。絶対に、逃がさない」

 その、凄絶な笑み。何度目かわからない悪寒とともに、リシュナークはこの感覚の正体を知る。

 ──この青年は、こわい。

 その強すぎる執着心を向けられる謂われはなく、理由もない。そしてそこにリシュナークの意志は関係ない。ただただまとわりついて心を離さず、巣くい続ける。それが、恐ろしい。

「話はここまでだ。他の利用者も来るから、今日はお引き取りを」

 リシュナークの腕を押し戻し、晴れやかにさえ見える笑顔を浮かべて、ユハルカは小窓を閉じた。にわかに雨音が耳につく。薄暗い玄関で、リシュナークは立ち尽くした。




 それはまったくの偶然であった。女王庭園の停車場からわずかに坂を上って海の見える広場を右に入り、古書店が軒を連ねる通りの三軒目、月追い亭の隣、ホロズ堂。気の良い老爺が一人で営むこの店は建築分野に特化した古書店として知られていた。間口は狭いが奥行きがあり、圧倒的な在庫を誇る。飴色に磨かれた書架だけでは納めきれない本が、ところどころに置かれた踏み台や梯子の上にまであふれ出していた。埃と黴の入り交じった店内は薄暗く、天井まで積み上げられた本の山が光をふさぐ。夏を間近に控えた季節でありながら、空気は湿り気を帯びてしんと冷え、不思議な静寂に満たされている。その狭い店内へ足を踏み入れようとしたリシュナークと、奥に入る道を譲ろうとした青年の視線が交わり、二人は同時に声を上げた。

「ユハルカ……」

「リシュナーク?」

 咄嗟のことにどうしていいものかわからず、リシュナークは身をこわばらせて身構える。しかし榛色の瞳はきょとんとこちらを見ていた。その薄いくちびるはやがて、こんにちはと小さくつぶやいた。そして喉の奥で低く笑ったようだった。

「待ち伏せていたわけじゃない。偶然だよ」

 だからそう警戒するなと静かに言って、ユハルカは書架に手を伸ばす。

「おれはあんたにつきまといたいわけじゃないから」

 抜き出した本の頁を繰りながら、体を寄せてリシュナークが通れるだけの幅を空ける。その険のない表情に自分が狼狽していることがかえって不自然に思え、リシュナークはひとつ息をついて、本の隙間をすり抜けた。不安定に積まれた本の山がわずかに揺らいだものの、何とかやりすごしたようだった。すれ違いざまにちらとユハルカが手にした本を見やれば、邸宅建築の本のようだ。それが少しだけ意外で、わずかに眉を持ち上げる。確かにこの書店は半ば建築の専門店のような店だが、この青年に建築を志すような印象を持っておらず、ただ漠然と文学を好むのだろうと思い込んでいた。それを何とはなしに口にする。

「建築、興味あるのか」

 ほとんど独り言のような言葉は埃と紙の隙間へと吸い込まれていくようだ。

「……詳しくは、ないけれど。金星女王時代の文化建築は好きだ」

 専門書ではなく写真集を探しているのだと控えめな声が答えた。リシュナークは眼前に並ぶ書物の題名を順繰りに眺めながらそうかと答え、興味を引く題名に指をかける。

「あの時代は経済が良かったからな。金銭的な余裕と外界への憧れが如実に出て、結構面白いよな」

 引き抜いた一冊は各時代の建築様式を比較する本のようで、図面も付随している。出版年代は古いが、その分装丁に味があって、古い時代特有の丁寧な仕事ぶりがうかがえるようだ。その中に金星女王時代の壁面装飾の記述を見つけ、ふと思い出す。

「そのへんが好きなら、王立文書館のある離宮、あそこ月初めの日曜に一般開放してるから行ってみるといい。面白いぞ」

 典型的な女王蔓の装飾が見事で、一見の価値があると付け加えた。見返しに鉛筆で書かれた値段を確認し、手が届くものであることを知って手元に残す。棚に視線を戻してまた題名を追えば、展覧会の目録が無造作に並べてあるのが目にとまった。その中の一冊に金星女王の紋章を見つける。各地の建築物を回遊して展示物と建物の調和を楽しむという名目で行われた展覧会だ。

「ああ、あるぞ。これなんかいいんじゃないか」

 リシュナークが少し背伸びをして大型の書籍を引っ張り出し、ユハルカに渡してやった。ユハルカの身長では届かないだろう。大人しく受け取ったのを確認して、己の関心へと心を戻す。ぽつりとユハルカが言った。

「あんたは、おせっかいだ」

 その声音が震えているような錯覚を覚え、ユハルカを見るが入り口の光がちょうど逆光になっていて表情がうかがえない。ただその手の中に本を抱えて立ち尽くしているように見えた。

「余計だったか? いらないなら戻すぞ」

 ゆっくりとユハルカが首を振る。そして細く、ありがとうと言った。その消え入りそうな声に心が乱される心地がして、リシュナークはごまかすように言葉を紡いだ。

「値段確認しろよ。いい値段だったりするからな」

「大丈夫。買ってくる」

 そう言って踵を返したユハルカの肘がわずか、本の山に接触する。視界の端で影が揺らぐ。考える前に体が動く。ユハルカの腕をつかんで力任せに引き寄せる。二人の呼気が重なる。その瞬間に声を発する間もなく、続けざまに本が崩れ落ちた。乾いた音を立てて床に本が積み上がり、煙のごとく埃が舞い上がる。思わず口元を袖で覆うが、庇いきれなかった咳がこぼれた。そうしてようやく、警告を発する間もなく引きずってしまった青年に声をかける。

「大丈夫か、ユハルカ」

 リシュナークの真正面で微動だにせず硬直するユハルカのくちびるが震える。声もなくつかまれたままの己の手首を見ていた青年はわずかに身じろぎ、そして渾身の力でもってリシュナークの腕を振り払った。その勢いに驚いてユハルカの顔を見れば、ひどく傷ついた顔をしていた。泣き出す寸前のような榛色が揺れる。

「おれに、触らないで……おれの名前を、呼ばないで……!」

 悲痛な声が落ちる。痛かっただろうかと慮ることさえ拒む調子で、ユハルカは首を振る。かすれた声音が何か言葉を紡いだようだったが、リシュナークには聞き取れない。ぶるぶると体を震わせるユハルカにかける言葉を見つけられずにただ、困惑するばかりだ。

「おれは、おれ、は……!」

 押し込めきれない感情がぽろぽろとこぼれ落ちるさまに似た言葉は切れ切れで、意味をなさない。ユハルカはだだをこねる子どものように何度も首を振り、そしてリシュナークに本を押しつけた。受け取るか否かを確認もせずに身を翻し、出て行く。小さくなっていくその背中を追おうとして、失敗した。崩れた本の山を何とかしなければとか、会計が済んでいないとか、追いかけて何を言うつもりだとか、いくつもの言葉が頭のなかを駆け巡った。それら一つ一つは大したものではないのに、気づけばリシュナークの足を縫い止めていた。そんな自分に戸惑いを隠せず、リシュナークは己の手を見る。まだユハルカの細い腕の感触が残っているようだ。幻をつかむように何度か握って、開いた。そこへ、場違いなほどに穏やかな声が響く。

「大丈夫かね? 崩れたようだが、怪我は?」

 奥で何か作業をしていたらしい店主が顔をのぞかせた。

「大丈夫です。今片付けます。それと、この二冊お会計お願いします」

 わずかに声を張り上げ、散乱した本へと手を伸ばす。空気が急速に冷える心地がした。




 体が沸騰するようだ。いくら歩いても歩いてもぐらぐらと頭が揺れる心地がして、右の手首にまとわりつく温度を振り払えない。吐き出しかけた言葉を飲み込んでホロズ堂を飛び出したユハルカは、人目から逃れるようにして裏路地を辿って歩いた。雲間からのぞいていた淡い日差しは冷えた風に吹き散らされ、雨雲が渦を巻き始めている。じきに雨が来るだろう。そうわかってはいても足を止めることができず、ただ闇雲に細い道をさまよう。脳裏で何度も何度も繰り返される光景が胸を灼く。耳の奥にリシュナークの声が張り付いて離れない。滲む感情を押し戻すように何度も何度も唾液を飲んだ。

 彼が建築家を志していることは知っていた。図書館の閲覧室で積み上げられた本の題名や、あるいは友人との会話の中でそう言っていた。彼が望む世界を知りたくて、古書店を巡るようになったのが数ヶ月前のこと。彼と同じものに触れているだけで、彼自身とも触れあえているような錯覚に浸ることが出来た。もしかしたらこの場所で出会うかもしれない。もしかしたら同じ本を読んでいるかもしれない。もしかしたら、何か話をできるかもしれない。もしかしたら、と言う言葉はひどく甘美な幻を連れてきてくれた。その幻だけで満足しようと、そう思っていたはずなのに。

 動悸が治まらない。雨の前の湿気がひどく不愉快だ。服の上から胸元をつかみ、手近な壁に肩を預けた。石畳の隙間から顔をのぞかせた雑草が、黄色い花をつけている。

 プラネタリウムの受付で、初めて視線を交わした。どんなに傍を通ろうが隣に座ろうが交わらなかった視線が、ようやく。ただそれだけのことに言い様もなく心が高鳴って、満たされたような気持ちになれた。けれど同時に、深く暗い感情に胸をえぐられた。

 ──彼は明日には自分を忘れる。

 それは当たり前のことだ。リシュナークにとって自分は鍵の受け渡し係でしかないのだから、彼の人生を横切ることはできても、決して跡を残すことはない。その事実をまざまざと見せつけられて、見ているだけでいいのだと言い聞かせ続けた日々が霧散する。

 ──忘れないで。

 彼の中に、何かを、何かを残したいと願ってしまった。鍵を渡せば、彼はこちらを振り返ることなく行ってしまうだろう。その背中をただ見送って、邂逅は終わる。それでいいのだと繰り返すだけの自分を深く深く沈め、絞り出した言葉。

 ──あんたに、鍵は貸さない。

 懇願にも似た響きで、彼の心に爪を立てた。どうかこの傷が消えないでと、祈るように。

 それからの日々は苦しくも幸福だったように思う。図書館に向かうリシュナークは必ずプラネタリウムを振り返るようになった。彼の心の中に確かに自分がいるのだと、それだけで全てを手に入れたような心地がした。

 ──これ以上は望まない。十分だ。

 何度そう言っただろう。この恋にもなれぬ執着は終わりなのだと何度も何度もつぶやいて、何重にも鍵をかけて封じ込めたはずの感情は、驚くほどあっさりその鍵を開けて逃げ出してしまった。その尾をもう一度つかんで、押し戻す。

「諦めるんだろう……?」

 あまりにも己の感情がままならない。ユハルカは思わず両手で顔を覆った。双眸から、喉から、あふれ出す何かをせき止めようとして嗚咽をかみ殺す。

 ──ユハルカ。

 名前を、呼んでくれた。彼に名乗ったことなどないのに。まるで当たり前のことのように。たったそれだけのことに、心が揺れた。名前を呼んで、会話をして、自分のために本を選んでくれた。すぐ間近で、建築を語る横顔を見せてくれた。そして、この身を、案じてくれた。次々と降りかかるできごとに頭がついていかず、けれど感情は膨張して心を押しつぶす。諦められないと、心が泣く。この人が欲しいと、そうぶちまけてしまいたい衝動をかろうじて引きずり戻し、本を返した。

 胸が苦しい。目の奥が痛い。浅く繰り返すばかりの呼吸がうまくいかない。

 ──おれは特別なんかになれやしない。

 勘違いをしてはいけない。リシュナークという男は誰に対しても公平で、誠実で、他人を切り捨てることを不得手とする男だ。よく知っている。ずっと見ていたのだから。だからこそ傷をつけることを選んだのに、結局自分は何一つ諦められていないのだ。たった一度の邂逅で、幾重にも弄した己の言葉は融けて消えた。彼に愛されたいと、願ってしまった。かといって向き合うこともできず、秘めておくこともできず、一人鍵を閉めて閉じこもってこうやって泣くのだ。あまりにもお粗末で、都合の良い自分に吐き気さえ覚えた。

「馬鹿だなぁ……」

 自分でよくわかっている。震えの止まらない体に雨粒が落ちる。鳴き交わす鴎の声が遠い。音もなく降り出した雨は頭を冷やしてくれることなくただ、手首にこびりついたままの感触を思い起こさせるばかりだった。




 会計を終えて店を出たところで雨に気がついて、リシュナークはすぐ隣の月追い亭へと足を向けた。本を濡らすわけにもいかない。昼食時の喧騒がちょうど引いたところのようで、店内に客はまばらだった。窓際に席を確保して、薄荷茶を注文する。雨脚は徐々に強くなっているようで、水音が耳に届くようになっていた。水滴が硝子窓を飾り、石畳の色を一段と深い色へ変えている。通りの向かい側に青いあじさいが咲いていた。運ばれてきた薄荷茶を口にしながら、今し方買ったばかりの本を開く。写真が多く掲載されている分、少し重い。何とはなしにそれを眺めながら、頭はまったく別のことを考え始める。

 ──何なんだ。

 泣き出しそうな顔で飛び出していったユハルカの背中が何度も何度も心に浮かんでは消える。揺らぐ榛色が鮮明に焼き付いている。誰かに触れて、あんなにも明確な拒絶を受けたのは記憶にある限り初めてだった。何が気にくわなかったのかわからない。予期せぬ接触のせいで突発的な感情の波に呑まれたように見えた。

「……生娘の初恋じゃあるまいし」

 無意識につぶやいた己の言葉にまたたいた。

 ──恋。

 思わず額に手をやる。すっかり忘れていた。

 ──あいつ、俺が好きなんだっけか。

 だが、改めて思い返してみたところで、恋心などとかわいらしい言葉の範疇に収まる気がしない。絶対に逃がさないと、忘れることなど許さないと、ぎらつくような瞳で言われたのはつい最近のことだ。恋というよりは何か、強烈な執着心のような気がした。だがその一方で、強い感情に浮かされたようなあの瞳と、先ほど目にした悲痛な瞳が同じとは思えないのもまた事実だ。いつも訳の分からない感情をぶつけてくる相手をどう理解していいのか、正直お手上げだった。自分の現状を誰かに相談することもできず、リシュナークの中に奇妙な存在感を持って存在するこの感情をどうしてやればいいのかもわからない。

 わからないものは怖い。彼に好意を寄せられる理由など見当もつかないし、傷をつけたい忘れさせないと、鋭利な言葉を浴びせられても困る。それなのに真っ向から向かい合ってリシュナークと関係を築こうとはしないのだ。その、言いようのないもどかしさ。その苛立ちさえいつしか常態化して、榛の色を纏ってリシュナークの心に居座り続けている。

 いっそエーナにでも相談しようかと思ったが、彼女のことだ。きっとユハルカの肩を持つのだろう。いじらしい片思いだとか何とか言って。彼女に恋愛関係の相談をして良い結果が得られるとも思えなかった。

 ──結局、どうしたいんだか。

 ため息をついて頁をめくり、茶をふくむ。ふいに誰かに問いかけられた気がした。

 ──お前は?

 ひたと手が止まる。知らぬうちに眉間にしわが寄る。カップを置き損ねてかちゃりと硬質な音が響いた。

 ──俺は、どうしたい?

 何度もまばたきを繰り返す。自分自身に対する問いかけに、リシュナークは答えを持っていなかった。正面から向かってこないユハルカに対する苛立ちを抱え、けれど完全に無視するわけでもなく、つきまとうなと激昂するでもなく、ただ現状を維持している。その意味を、図りかねた。

 もはや本の内容は頭に入らない。惰性で頁を繰るばかりだ。金星女王時代の絢爛装飾が次々と視界に現れては流れていく。そもそも、この本は自分が買おうとしていたものではない。ユハルカが買い損ねたものだ。冷静に考えれば、リシュナークがこれを買ってやる理由も届けてやる義理もない。相手が友人であれば当然のようにそうしただろう。だが、ユハルカは友人ではない。宣言をして友人になるものではないが、今の段階では少なくともリシュナークはそう認識していない。

 ──なら、何だ。

 形のないものを追う焦燥感が背中を灼く。この感覚に覚えがあった。そう遠い日のことではない。誰かの感情をつかみ損ねて声を荒げた日があったはずだ。混線する記憶の糸をたぐろうと眉根を寄せれば、ふと雨音が鼓膜に触れた。情景があふれ出す。冷えた空気と薄暗い玄関。正面の大階段と星空のステンドグラス。青いあじさい。そうして、ゆるやかに破顔する榛色。

 ──停車場で話ができて、嬉しかった。

 はらりとこぼれた感情。その正体を今、ようやく知る。体が震えた。やり場のない感情をこぼしてしまわぬよう、手のひらに顔を埋める。ゆっくりと息を吐いた。

「……これは、俺が悪いな」

 駆け出した背中を追いかけられなかった。追いかけて引き留めて、そうしてかけるべき言葉を、否定したかったのだ。向き合わなかったのは、ユハルカではなかった。




 雲間からのぞく日差しがわずかに汗を滲ませる。晴れ間がずいぶんと増え、雨の季節は終わりに近づいていた。日を重ねるたびに気温は少しずつ上昇し、太陽は影の色を濃くしていく。美しい色彩を見せていたあじさいも、端の方からゆっくりと鮮やかさを欠いていくようだった。

 白大理石の階段を上る。夜空に星をちりばめた硝子戸をくぐって右側、事務室の小窓。脳裏に強く焼き付いたままのその枠を、三度叩く。まとわりつく緊張を払うように、リシュナークは深く息を吐いた。ことりと音を立てて窓が開く。のぞいた榛色が小さく見開かれたが、すぐに無表情になって口を開いた。

「何か」

「鍵を借りに来たわけじゃない。この間の忘れ物を届けに来た」

 そう言って、図録を差し出す。ユハルカはゆっくりとリシュナークの手元を見た。

「……おれのものではありませんが」

 ゆっくりと紡がれる拒絶の言葉。何となく、そんな気はしていた。それでもと、用意した口実を述べようとしたリシュナークをさえぎって、ユハルカがわずかに声を張り上げる。

「何人での利用でしょうか。空き室の確認をします」

 リシュナークはユハルカを見る。ユハルカもまた、リシュナークを見た。その瞳は驚くほど静かで硝子玉のようだ。

「鍵は貸さないんじゃなかったか」

 そう問いかければ、青年は視線をそらすことなく忘れてくれと言った。

「こちらの勝手な言い分だとよく理解していますが、忘れてください。おれのことも、何もかも」

 抑揚のない声から感情を拾い上げることができず、リシュナークは黙してその言葉を聞いた。そして、首を振る。

「その鍵はいらない」

「でしたらお引き取りを」

「用事は終わってない」

 どこか不愉快そうにユハルカが柳眉をひそめた。あまりにも真逆の対応にリシュナークは思わずため息をこぼす。この青年のわけがわからないことに変わりはないらしい。

「言いたいことがふたつ、ある」

 先手を打って小窓の枠に腕をねじ込んで閉じさせない。ユハルカがたじろぐ様子を見せたが、構わず続けた。

「もし、お前がこういうわけわかんねえことしないで正攻法で来たとしたら、俺は間違いなくお前を忘れたと思う」

 男に好意を告げられても困ると、ただそれだけを言ってユハルカを遠ざけ、そして何事もなかったかのように卒業していっただろう。それをユハルカがどれだけ恐れていたのか、リシュナークには知ることはできない。

「そういう意味では、まぁ結果としては悪くないんじゃねえか」

「……」

 ユハルカは答えない。双眸はリシュナークではなく、受付に置かれたままの図録を映していた。

「もう一つ。答えを出さない俺が悪かった。それは謝る」

 拒絶するでもなく受け入れるでもなく、期待を持たせるようなことをして悪かったと紡ぐ言葉が、ユハルカの肩をこわばらせる。人形めいた顔にわずかに走った感情の名前はわからない。そう、わからないのだ。この青年の感情はいつだってわからない。わからない感情を向けられ、自分の感情までも見失う。それはひどく恐ろしいことだ。だが、根底に流れるものを理解してしまえば、驚くほどその恐怖は薄れた。何もかもを取り去って残ったのは結局、あまりにも単純な感情ひとつ。

 ──あいしてる。

 まつげが震える。瞳がゆっくりと見開かれ、リシュナークを見た。くちびるが嘘だと紡ごうとするのを押しとどめる。

「嘘ならわざわざ来ねえよ」

 ふいと視線をそらされる。低い声音が否定の言葉を紡いだ。

「……あんたに好かれる理由がない」

 自分がまったく同じ言葉を向けたのを思い出す。

「お前がそれを言うか。俺だって知らねえよ」

 だが顔しか知らない相手を好きになることがあるのなら、自分に傷をつけようとする相手を好きになることだってあるだろうと、静かに告げる。だが視線は交わらない。

「もういいんだ。ここに来なければもう顔を合わせることもない。全部、忘れて」

 乾いた声だ。抑揚のない、薄い声。

「本当に諦めるってなら、俺の顔見て言え。諦められねえくせに」

 挑発するような言葉にユハルカがぱっと顔を上げる。

「あんたに、何が……!」

 噛みつくように言いつのるのを強引に遮った。

「勘違いすんなよ」

 強い語気に押されて青年が口をつぐむのへ、言い含めるようにゆっくりと言葉を選ぶ。

「お前が俺にどんな夢見てるのか知らねえけど、放っておけないと放っておきたくないは全然別の話だからな」

 ユハルカの瞳が揺れる。仮にこれが憐憫に端を発する感情だったとしても、こうして向き合うことを選んだのは他ならぬリシュナーク自身なのだと、伝わっただろうか。

「……信じられない」

 長い沈黙の末に、ユハルカがぽつりとつぶやいた。表情が抜け落ちた白皙はどこかうつろだ。何かを確かめるように薄いくちびるが音を紡いでいく。それをただ、見守った。

「あんたに会うたびに多くを望むようになっていて、これ以上を望んでしまったら、もう引き返せなくなるから、全部終わりにしようと思ったんだ」

 膨張し続けるばかりの感情を全て鍵をかけて閉じ込めて、人知れず燃え尽きてなくなるようにと願っていたのだと、か細い声が言った。幻と戯れるだけの、恋のまねごとに留めようとしたはずなのに。

「もう、閉じ込めておけない」

 ユハルカがゆっくりと顔を上げる。真正面からリシュナークを見た。そうして、見たことのない色で榛色が笑った。

「リシュナーク。あんたに、鍵を渡すよ」

 それが答えだと、融けるような声色だった。


 それは、ほしのかぎ。




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ほしのかぎ 夜渦 @yavuz

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